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ミカエル8世パレオロゴス

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ミカエル8世パレオゴロスとは、東ローマ帝国パレオゴロス朝の初代皇帝である。
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東ローマ帝国の復興者

ニケーアに亡命していた東ローマ帝国の大貴族の息子に生まれたが、当時の皇帝に疎まれてトルコに亡命し、対モンゴル戦で戦功を挙げた。その後ヨハネス4世ラスカリスの共同皇帝となり、1261年にコンスタンティノープルを奪還した。その後ヨハネス4世の目をつぶして再起不能に追い込んでいる。

正教会世界随一の策謀家

帝位に就いてからは伝統的な儀式や制度を復活させるとともに、帝国の版図を以前に戻すことに心血を注いだ。西欧、とりわけイタリアのシャルル・ダンジューを中心とする勢力に帝国を脅かされないよう、エピロス専制公などの諸侯と講和し、さらにローマ教皇に対して東西教会の統一を持ちかけた。しかし東西教会の統一は失敗し、シャルル・ダンジューを追い込むために彼のお膝元であるシチリア島シチリアの晩祷事件を起こし、アラゴン国王ペドロ3世らのカタルーニャ軍をシチリアに侵攻させた。

モンゴル帝国との外交政策

帝国の東側では当時マムルーク朝と対立していたイル・ハン国の初代ハンフレグに娘のマリアを嫁がせようとしたが、マリアがイル・ハン国に到着したときにはフレグはすでに世を去っており、フレグの息子のアバカにマリアを嫁がせた。
その一方、マムルーク朝と結んでいたキプチャク・ハン国に対しては、ジョチの曾孫でキプチャク・ハン国の有力貴族であったノガイに娘のエウフロシュネーを嫁がせた。このもくろみはある程度成功し、1282年に反乱が起こった際、ノガイは義父のミカエル8世に味方して反乱鎮圧の軍を送り、彼の死後にノガイの軍が当時帝国と敵対していたブルガリアの同盟国セルビアとの戦争に使われたほどであった。

後世の評価

おおむね当時の正教会側から見てみれば、東西教会の統一を持ちかけたという点で悪者扱いされている。
西ヨーロッパでは、「最も狡猾なギリシア人」と呼ばれた。
何よりも、ミカエル8世によって開かれたパレオゴロス朝は、その後オスマン帝国メフメト2世に滅ぼされるまで2世紀にわたって存続し、ローマ帝国史において最も長命の王朝となったということを忘れてはいけない。

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