黎明期
ドイツ帝国の成立直後、陸軍はプロイセン王国やザクセン王国、バイエルン王国等の諸邦の陸軍が存続され、それらの連合体として国軍を形成したのに対し、海軍は一括して皇帝の直轄となった。
第三代皇帝ヴィルヘルム2世の時代、帝国主義的な膨張政策をとるヴィルヘルム2世は、植民地獲得戦争において圧倒的な影響力をもつ英海軍に対抗するため、海軍長官アルフレート・フォン・ティルピッツの下に大規模な艦隊を建造した。大洋艦隊(高海艦隊との訳もあり)(ホーホゼーフロッテ/Hochseeflotte)と呼ばれた大艦隊は日本やアメリカすら凌ぐ大艦隊となり、世界第二位の海軍として、イギリス海軍やフランス海軍と激しい建艦競走を繰り広げた。
第一次世界大戦
第一次大戦においてドイツ海軍はイギリス海軍相手に激戦を繰り広げた。
1914年8月28日のドイツの鼻先でのヘルゴラント・バイト海戦ではディヴィッド・ビーティー中将率いる巡洋戦艦部隊の支援も受けた巡洋艦を主力とするイギリス艦隊に軽巡洋艦3隻、水雷艇1隻を撃沈され完敗したものの、11月1日にはドイツ本国に向かう装甲巡洋艦を主力としたドイツ東洋艦隊を率いるマクシミリアン・フォン・シュペー中将がチリのコロネル沖海戦でクリストファー・クラドック少将率いる英第4戦隊と交戦し、装甲巡洋艦2隻を撃沈し、クラドック提督を戦死させて完勝した。しかし12月8日の南大西洋のフォークランド沖海戦で東洋艦隊はダブトン・スターディー中将率いる巡洋戦艦を主力としたイギリス南大西洋・太平洋艦隊と交戦して壊滅し、シュペー提督は戦死した。また東洋艦隊以外でも少数ではあるが軽巡洋艦エムデンをはじめとする世界各地にあったドイツ艦艇は、それらへの対処として多くのイギリス艦艇を拘束していたが、地理的条件でドイツ本国の大洋艦隊はイギリス艦隊に封じ込まれてる状況のうえ、ヴィルヘルム2世の許可無くば出撃できないなどの制約により満足な支援も出来ず、1915年初頭までには海外のドイツ艦は一掃されることとなった。
海外の艦隊が壊滅していき、それだけ敵の封鎖圧力が強まっていく大洋艦隊では巡洋戦艦部隊がイギリス本土を砲撃することで状況打破をはかるも、既に触雷で失われた軽巡洋艦マクデブルクから得た暗号コードをロシア側から提供されたイギリス側はドイツ海軍の暗号解読に成功しており、砲撃の為に出撃したフランツ・フォン・ヒッパー中将率いる巡洋戦艦を主力とする艦隊は、ビューティー提督率いる巡洋戦艦部隊を主力としたイギリス艦隊の待ち伏せを受け、1915年1月24日のドッガー・バンク海戦で装甲巡洋艦1隻を失い辛うじて撤退に成功する敗北を喫した。
この閉塞した状況の中、新たに高海艦隊司令長官に就任したラインハルト・シェーア中将はヴィルヘルム2世から艦隊出撃のなどの自由裁量権を得、巡洋戦艦部隊を囮にして敵艦隊の一部を誘い出し、それを大洋艦隊の主力で殲滅していくことで増大していく彼我の戦力差を縮めようと図り、その結果として両軍合せて50隻以上のド級・超ド級戦艦・巡洋戦艦が参加した第一次世界大戦最大の海戦であるジュトランド沖海戦が1916年5月31日から6月1日まで繰り広げられたが例によってドイツ海軍の行動は暗号解読でイギリス側には筒抜けで、シェーア提督はジョン・ジェリコー大将率いるイギリスのグランドフリートと相対し、巡洋戦艦1隻、旧式戦艦1隻を含む11隻を失うも、相手の巡洋戦艦3隻を含む14隻を撃沈して戦術的勝利はおさめたものの、結果としては辛うじて大洋艦隊は殲滅を免れて帰港した状態であり、戦略的にはイギリス海軍に封じ込められた状況は変わらぬままであった。
そして内に目を向ければ元来陸軍国であるドイツ帝国は開戦後は陸軍に多くの工業力を割かねばならず、新型艦の建造は一気にペースダウンした。対して海軍国イギリスは大戦中も続々と新戦力を投入。戦力差は開く一方で、ドイツ大洋艦隊はもはやイギリス本国艦隊に決戦を挑める状況では無くなり、対抗手段としてUボート・仮装巡洋艦によるゲリラ的な通商破壊作戦が中心となっていった。
エムデン(軽巡洋艦)
ドレスデン級軽巡洋艦。第一次世界大戦の殊勲艦。インド洋において通商破壊作戦に従事し、撃沈されるまでに30隻以上の連合国商船・艦船を撃沈または拿捕した。神出鬼没にして大胆不敵な行動は驚嘆の的となり、インド洋の連合軍通商航路はたった一隻の軽巡のためにパニックに陥った。
全長118.3m 満載排水量4270トン 最大速力24.0ノット
10.5cm単装速射砲10基 5.2cm単装速射砲8基 45cm単装魚雷発射管2基
姉妹艦 ドレスデン
キール軍港の反乱
四年に亘る大戦争による経済停滞と総力戦体制は国民に多大な困窮と辛苦を強いており、折りしもロシア革命の成功も相まって、国民や兵士達の間には政府に対する不満が増大していた。そんな折、キール軍港に停泊していた高海艦隊の水兵達が出撃を拒否し、出撃命令に抗議するデモを行った。これを鎮圧しようと官憲が発砲したために一気に蜂起へと拡大、ドイツ革命の火付け役となった。
スカパ・フロー一斉自沈
休戦交渉終結後にドイツ大洋艦隊の主力はイギリスのスカパ・フローに回航・抑留された。1919年5月7日、発表されたヴェルサイユ講和条約案は、抑留中の全艦艇を連合国に引き渡すこととされ、僅かな水上艦艇のみの保有が許された。潜水艦と飛行機の保有は許されなかった。抑留艦隊司令官ルートヴィヒ・フォン・ロイター提督は、賠償艦として引き渡すことを潔しとせず、1919年6月21日抑留中の全艦艇に一斉自沈を命令した。しかし、名誉は守られたもののその代償は大きかった。連合国はドイツ艦隊をいかに切り分けて自国海軍に組み入れるかを考えていたのに敗戦国のこの仕打ちで、イギリスはよりにもよって自国のお膝元、スカパ・フローで自沈をされたのだから面目は丸つぶれであった。しかる後、連合国はドイツに対し「自沈した艦に匹敵する賠償」を強く要求し、60日以内に提出するよう厳命した。ドイツ海軍には自国海域を守るための最低限の戦闘艦すら召し上げられ、更に海軍設備のうち浮きドック・港湾クレーン・タグボート・サルベージ船(救難船)・補給船など総計40万トンと全てのUボートと装備品が没収された。無論としてこれらの艦艇・設備の輸送費はドイツの負担により連合国の各国の港に輸送されたこれらは連合各国に働きに応じて分配された。更に建造中の艦艇は全て解体処分とされ、資材は商業活動目的にのみ利用された。
ヴェルサイユ条約下
ヴェルサイユ体制下でのワイマール共和国におけるドイツ海軍は、陸軍同様に厳しい制限を受けた。 前述の自沈の賠償の影響が海軍の艦艇・設備に暗い影響を与えていた。
海軍の総人数は15,000人に制限され、そのうち海軍士官は1,500人以下とされた。予備役は保有できず、海軍将校クラスは志願制により最低25年は勤める事とされ、その他の兵役は12年勤務に制限された。一旦、海軍を退役した軍人は、軍事教育に関わる分野への再就職は絶たれ、海軍に関する天下りも出来なかった。また、第一次大戦終了時から勤務する海軍士官達は病気以外は45歳になるまでは継続勤務することを海軍に誓約せねばならなかった。
海軍の仕事として第一次大戦時に敷設した機雷の掃海作業とし、母艦の新規建造は制約されたために戦艦を掃海艇母艦へと改造するしかなかった。これらの作業は欧州大陸周辺の指定海域の安全が保障されるまで続けられた。
また、既存艦艇の更新のみ軍艦の建造が出来るが排水量は一万トンを超える事は出来ない。軍艦の使用年数は戦艦と巡洋艦は20年、駆逐艦と水雷艇は15年まで使用することとされた。これらの艦艇は戦前のドイツ海軍でさえ二線級どころか退役間近のレベルであり列強各国の海軍と比較するのもおこがましいような代物でしかなかった。
ポケット戦艦の建造
ドイツ海軍は上述の通りの厳しい制約下で、さらに西にフランス、東にポーランドと二つの仮想敵国に挟まれ、またオストプロイセンが飛び地になるなど、非常に厳しい戦略状況にあった。この状況下で建造されたのが、28センチ砲搭載のドイッチュラント級装甲艦である。「戦艦より速く、巡洋艦より強い」(28cm6門、27ノット)と称した、この通称ポケット戦艦は、旧式艦の多いフランスと軽艦艇のみのポーランドの双方を相手にすることへの苦肉の策とはいえ、ワシントン軍縮条約での制限(主力艦以外は、排水量1万トン以下、備砲20.3センチ(8インチ)以下)とヴェルサイユ条約での制限(排水量1万トン以下、備砲28センチ以下)の間隙をうまく突いた艦であり、その建造は世界を驚かせた。
アドミラル・グラーフ・シュペー(重巡洋艦)
ドイッチュラント級装甲艦の3番艦。開戦から短期間で、中立国ウルグアイにおいて自沈を余儀なくされた。2004年からウルグアイ政府は引き揚げ作業を開始し、2007年にはハーケンクロイツを掴む鷲を象った主権紋章を引き揚げ、これが競売にかけられると大きな話題を呼んだ。取り立てて目立った戦績はないが、知名度は低くない。だいたいがその悲劇的な最期と映画とコイツのせい
全長186m 満載排水量16200トン 最大速力28.5ノット
52口径11インチ3連装砲2基 5.9インチ砲8門 150mm砲6門 37mm対空砲8門 20mm対空砲10門 21インチ4連装魚雷発射管2基
姉妹艦 ドイッチュラント アドミラル・シェーア
再軍備宣言
1935年にヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄すると、再軍備を宣言。英独海軍協定を締結した。これにより潜水艦を除いたドイツ海軍は対英比率35%(42万595トン)を合法的に拡張する事が許された上、船体サイズもワシントン海軍軍縮条約に準じた戦艦35,000トン、重巡洋艦10,000トンまで拡大された。これを受け、海軍の拡張計画も開始される。しかし、フランス海軍の増強(超弩級戦艦ダンケルク級である)を察知したため、D級装甲艦シャルンホルスト級の改設計を行ない、同年にシャルンホルスト級巡洋戦艦2隻の建造が再開され、翌年にはビスマルク級戦艦2隻も起工される。この時期のドイツ海軍はZ計画に基づき、大規模な水上艦隊の建設をおこなう予定であった。1939年という早い時期に対英開戦となったため、これらの艦艇は建造されることは無かったが、開戦が5年遅ければ、かなり違った様相を呈したと思われる。
もっともこの計画は戦艦・巡洋戦艦13隻に対し、空母は4隻のみという戦艦重視の艦隊であり、また艦隊がほぼ完成する予定の1945年の段階では多くの艦が旧式になっていたとも推測される。
シャルンホルスト(巡洋戦艦)
フランスのダンケルク級に対抗するために大型化されたD級装甲艦。均整の整った純白の船体から『世界一美しい軍艦』と評される。
全長235.4m 満載排水量38900トン 最大速力31.5ノット 28.3cm(54.5口径)3連装砲3基9門 15cm(55口径)連装砲4基8門+同単装砲4基計12門 10.5cm(65口径)連装高角砲7基14門 37mm(83口径)連装高射機関砲8基16門 20mm(65口径)連装高射機銃5基10門 21インチ3連装魚雷発射管2基
姉妹艦 グナイゼナウ
ビスマルク(戦艦)
英仏の海軍から、通商破壊任務に従事する艦船を防衛するためには戦艦艦隊が必要とされ、その中核を担うために建造された、ドイツ最後の超弩級戦艦。
全長251.0m 満載排水量50300トン 最大速力30.8ノット
38cm連装砲4基 15cm連装速射砲6基 10.5cm連装高角砲8基 3.7cm連装機関砲8基 2cm四連装機関砲2基&同単装機関砲12基
姉妹艦 ティルピッツ
プリンツ・オイゲン(重巡洋艦)
アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦の3番艦。デンマーク海峡海戦、ケルベロス作戦、東部戦線地上支援などドイツ海軍で最も活躍し、戦争も生き残った武勲艦。クロスロード作戦での核実験に使用され生き残るも曳航中に転覆する最期を遂げた。
全長212.5m 満載排水量18750トン 最大速力32ノット
20.3cm連装砲4基 10.5cm連装高角砲6基 3.7cm連装機関砲6基 2cm単装高射機銃8基 21インチ3連装魚雷発射管4基
姉妹艦 アドミラル・ヒッパー ブリュッヒャー ザイドリッツ リュッツオウ
第二次世界大戦
1939年、ポーランドに侵攻したドイツに対し、英仏は宣戦布告。ヒトラーにとっても、このタイミングでのイギリスとの開戦は青天の霹靂だったが、海軍にとっても、Z計画がほとんど進展していない状況での開戦となってしまった。ヴェルサイユ条約破棄後、ヒトラーは英仏の有力な海軍力に対抗するため、Z計画を始めとした大規模な建艦計画を承認した。しかし計画達成を1944年としたため(ヒトラーは「対英戦争は1945年まではない」と海軍側に説明していた)予想外の第二次世界大戦の開戦とともに、Uボート建造の拡大から大型艦艇の建造は徐々に縮小された。
この時点でドイツ海軍が保有する主力艦は巡洋戦艦2、ポケット戦艦3、重巡洋艦2、軽巡洋艦6であり、またポケット戦艦といわれたドイチュラント級は実質的には重巡洋艦でありイギリスの戦艦と正面切って戦う力はなく、シャルンホルスト級は高速ながら火力に乏しく、ビスマルク級も完成当時は世界最大の戦艦であったが、ヴェルサイユ条約のため、新造艦の建造数が少なく、設計が古かったことが災いして同時期の各国の新鋭戦艦に比べれば問題のある艦であった。また航空母艦もなく、重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦も十分ではなかった。後述の如く、空軍との対立故に海軍航空隊も弱体であり、尚且つ空軍も海上での戦闘を得意とする日本の零式艦上戦闘機やアメリカのF4Fのような巡航性能に優れた単発戦闘機を実戦配備どころか開発すら行っていなかったため、海上の制空能力は皆無に等しかった。ドイツ海軍総司令官エーリッヒ・レーダー元帥はこの状況を「いまや海軍は勇敢に死ぬことを知っているだけだ」と表現したという。だが、彼は防衛体制をとる事無く当初から攻勢に出て英側の予測を覆す事となる。Uボートは開戦と同時にイギリスの海上補給路を攻撃し始めた。また開戦前から大西洋にて待機していた装甲艦ドイッチュラントとアドミラル・グラーフ・シュペーは通商破壊活動を始め、前者は3隻を沈めドイツに帰還したが、後者は数万トンに達する戦果を挙げた。しかし、後にラプラタ沖海戦で英艦隊に捕捉され損傷し、ウルグアイのモンテビデオ港で自沈を遂げた。
レーダー提督は前大戦において英艦隊にドイツ艦隊が封じ込められた前例を考慮してノルウェー占領をヒトラーに勧め、当初はスウェーデンからの鉄鉱石の経由地であるノルウェーは中立の状態こそ望ましいと消極的だったヒトラーもノルウェーで英海軍に独補給艦アルトマルク号が拿捕された折のノルウェー政府の弱腰に不信を抱き、結果、1940年4月9日にノルウェーに侵攻した陸軍を壊滅覚悟で支援したドイツ海軍はそれ以後の二ヶ月余りの戦闘で重巡洋艦1隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦10隻、Uボート6隻を失うも前大戦よりも大西洋への進出を容易にする地を得ることとなった。更に1940年6月22日のフランス降伏によりフランス大西洋岸の地も得ることとなった。
1940年の春から仮装巡洋艦を出撃させて長期にわたる通商破壊を広範囲で行わせたていたドイツ海軍は、この状況を利用して更に僅かな水上艦艇をも通商破壊戦に投入し、10月から1941年4月までに巡洋戦艦グナイゼナウ、シャルンホルスト、装甲艦アドミラル・シェーア、重巡洋艦アドミラル・ヒッパーの主力艦を投入したベルリン作戦などの通商破壊戦を敢行して大戦果を得た。これらの戦果はUボートはもとより仮装巡洋艦の戦果に較べても見劣りするものではあったが、Uボートに対抗できる駆逐艦以下の軍艦、仮装巡洋艦に充分対抗できる巡洋艦といった軍艦の船団護衛では防ぎ切れない破壊力を持つ主力艦が通商破壊を行う事で英側に大きな脅威と混乱を与えた。これらの対策に英側は戦艦をも船団護衛に当てるようにしていたが、それはその為に兵力を抽出されるスカパ・フローの英本国艦隊兵力を弱体化させ、大西洋への自軍艦艇の進出を容易にするというドイツ側の狙い通りの展開となっていた。
だが、1941年5月に通商破壊に出撃した戦艦ビスマルクが英巡洋戦艦フッドを撃沈する活躍を見せるも最終的には撃沈されるに及び、主力艦喪失による国威失墜を恐れたヒトラーにより主力艦の出撃は禁じられるようになり、ヒトラーの命令で1942年2月の巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウ、重巡洋艦プリンツ・オイゲンを主力とする艦隊がブレストを出撃し白昼堂々英仏海峡を突破しドイツ本国に帰還したケルベロス作戦は英側の面子を潰したものの、それは大西洋における水上艦隊の通商破壊の終焉とブレストの艦隊に拘束されていた連合軍兵力がフリーハンドとなり他の戦線に投入される事も意味していた。
第二次世界大戦におけるドイツ海軍の基本は通商破壊戦である。開戦時にドイツ海軍が保有する大型艦はわずかであり、まともにイギリス海軍に挑めるはずもなかった。大西洋を中心にノルウェー海や地中海、遠くはインド洋までUボートによる作戦を行い連合軍輸送船団を攻撃した。イギリス海峡では駆逐艦による機雷敷設や水雷艇による襲撃も行っている。Uボートはイギリスを崩壊寸前まで追い詰めた。後にチャーチルは「私が大戦中に恐れたのはUボートの脅威のみである」と語った
英米もこれに対処するために輸送船を護送船団にし、それに対してドイツ側がUボートを個艦単位で攻撃させるのでなく集団で行う群狼作戦で対抗すると船団護衛に駆逐艦の他にも護衛空母を付け、爆撃機による搭載したレーダーを利用した襲撃にUボートがレーダー波の逆探装置で対抗するや、今度はm波からcm波となったレーダーで応じた。また爆雷攻撃も点の攻撃から面の攻撃へと広がったヘッジホッグも使用した。それらにより特に戦争終盤はUボート側の損害が増大し、最終的な戦果のバランスシートは意外なほどに低いものとなっている。
一方、戦艦ティルピッツをはじめとする水上艦隊主力はノルウェーへの連合軍の侵攻を恐れたヒトラーにより碌な港湾設備も無いノルウェーに守備の為に派遣されたが、これは連合軍が同盟国ソ連への援助物資を届ける船団に脅威を与える事となり、その対処に有力な兵力を釘付けにする効果を生んでいた。
1942年6月のPQ17船団の壊滅はその脅威が顕著に表れた例であり、ティルピッツをはじめとした有力艦隊の出撃に過剰反応した連合国側は艦隊の攻撃の危険を緩和させる為に船団を分散させ、却って空軍とUボートにより壊滅的な打撃をうけた。
だが12月のバレンツ海海戦で、ヒトラーの希望も含まれていたはずの主力艦の危険を避けよとの指令で攻撃を徹底させず船団をほぼ無傷のまま取り逃した海軍の対応に激怒したヒトラーは、水上艦隊の解体を宣言した。これを受けレーダー提督は権威が失われたと海軍総司令官を辞し、後任にはUボート部隊司令官であったカール・デーニッツ大将が1943年1月30日に就任し元帥に昇進した。
ヒトラーとしてはUボート部隊指揮官だったデーニッツならば水上艦隊解体を受け入れると見込んでの人事だったが、期待に反してデーニッツは前任者ほど水上艦隊に重きを置かなかったが、それを解体しても陸軍が得られる大砲などは限られてるのに比べドイツ水上艦隊への対応の任を解かれた連合軍兵力がフリーハンドを得ることは戦局を左右するものである事は理解しており、水上艦艇の存在の重要性を説くと共に艦隊の縮小(建造中、修理中の艦の工事停止、練習艦名目での艦の存続)で譲歩し、ヒトラーの命令を最終的には事実上撤回させた。しかし、乏しくなった資源は水上艦艇より潜水艦の建造や修理に割り当てられてゆき、さらに英軍の攻撃により艦隊は消耗を続け、ティルピッツが英海軍特殊潜航艇X艇の攻撃で大破した後は戦艦で唯一活動可能だったシャルンホルストが沈没した1943年12月のクリスマスに起きた北岬沖海戦以降、戦争後半での陸軍支援の艦砲射撃、ソ連軍からのドイツ難民や残存兵を救出するハンニバル作戦まで本格的な活動はない。連合軍側の最大の脅威であったティルピッツも1944年9月にトールボーイ(5トン爆弾)を使用した連合軍の爆撃で再起不能の損害を受け、11月12日に浮き砲台としての工事中に更にトールボーイでの攻撃を受けハーコイ島で最期を遂げ、彼女への対応の任を解かれた英主力艦隊は太平洋戦域への転用も可能となっていた。
1944年6月の強力な海空軍に支援された連合軍のノルマンディー上陸の矢面に立ったのは僅かな駆逐艦、水雷艇、Uボート、特殊潜航艇などでありもはや相手を阻止どころか甚大な損害を与える力すら残されていなかった。そして連合軍の侵攻と共に港湾が占領され海軍の活動が縮小されていくなか、最後まで積極的に攻勢に出ていたのはUボートをはじめとする小型艦艇であり、浮上しなくても充電できるシュノーケル、音響魚雷などで対抗したものの完全に連合軍側に圧倒され、水中高速潜水艦XXI型も、ヴァルター機関搭載のUボートも完成が遅過ぎ、第二次世界大戦におけるUボート作戦従軍者4万名のうち3万名が失われたという。
1945年にはドイツ東部の難民や残存兵への救助・支援を行うハンニバル作戦が主な活動となっていた。このダンケルクを凌ぐ大規模海上疎開作戦で、作戦中ありとあらゆる稼働船舶が動員され、数万人が疎開船の撃沈などで死亡するも、諸説あるものの難民と残存兵合わせて少なくとも100万人以上がドイツ西部やデンマークへと海路脱出に成功し、「ドイツ海軍最後の輝き」とも言われる。水上艦艇の方も艦砲射撃で陸戦支援を続けたり、難民の移送を行っていたが、制空権が失われた状況で空襲により港湾などでリュッツオウ(ドイッチュラントから改名した)、アドミラル・シェーア、アドミラル・ヒッパー等が次々と失われ、グナイゼナウは閉塞艦として自沈し、終戦時に残存したドイツ水上艦艇は重巡洋艦プリンツ・オイゲン、軽巡洋艦ライプチヒ、ニュールンベルグ、駆逐艦16隻余りに過ぎなかった。
ドイツ海軍と空母
レーダー提督は早期から空母と海軍航空隊の必要性を主張しており、ヒトラーにその整備を再三要求していた。しかし、これを空軍の所轄を侵すものであると考えた空軍総司令官へルマン・ゲーリングにより、逆に艦載機部隊まで空軍の所轄とされてしまう。開戦時点で海軍はグラーフ・ツェッペリンとウェーザーの二隻の空母を建造中だったが、潜水艦の増産を優先した結果、どちらの建造も遅々として進まず、最終的にヒトラーの大型艦建造中止命令により、どちらも完成することは無かった。
空母グラーフ・ツェッペリンとFi167艦上雷撃機
ドイツ海軍が建造していた空母。前述の通りヒトラーの大型艦建造中止命令により、完成することは無かったが、この時点で既に九割方完成していた。尤も、無理に完成させたとしても運用するだけの余力はドイツ海軍には残っていなかった。
Fi167はグラーフ・ツェッペリンに搭載予定であった艦上雷撃機であり、同艦の建造中止に伴い、同盟国クロアチアへと売却された。同国でSTOL性能を買われたFi167は、孤立した部隊へ物資を運ぶ輸送機として運用された。その任務の最中、最高のレシプロ戦闘機として名高いP-51の襲撃を受け、何をどうやったのか、これを撃墜するという快挙を挙げた。これは史上最後の複葉機による撃墜記録と言われる。
またこの機体、ほぼ静止しての着陸も可能だったとか。イギリスか日本が持ってたら艦載機として船団護衛に非常に役立ったかもしれない。
戦後
1955年にNATOの下で再建され、同盟国の海軍と共に北海とバルト海に対するワルシャワ条約機構軍の侵攻に対することが期待され、駆逐艦フリゲートと潜水艦を主力とする小規模な海軍として成長してきた。冷戦終了後、駆逐艦という艦種を建造・配備せず、フリゲートに移行している。現在は、平和活動に活躍することが期待されている。
駆逐艦
フリゲート
リガ型フリゲート(東ドイツ海軍)
コニ型フリゲート(東ドイツ海軍)
コルベット
タランタル型コルベット(東ドイツ海軍)
パルヒム型コルベット(東ドイツ海軍)