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シュリーフェン・プラン

しゅりーふぇんぷらん

シュリーフェンプランとは第一次世界大戦前のドイツ帝国陸軍が策定した戦争計画である。
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背景編集

普仏戦争による勝利の結果、南北ドイツ諸国はプロイセン王国を盟主とする統一国家・「ドイツ帝国」となった。戦後もオットー・フォン・ビスマルク宰相による対仏孤立化政策を進めてきたが、1890年にビスマルクが失脚後、皇帝ヴィルヘルム2世が対外膨張政策を進め、危機を感じたロシアとフランスが同盟を結び(露仏同盟)ほころびが出始めてきた。

これによって、ドイツ軍では場合によってはロシア・フランスの両者と戦わなければならない「二正面戦争」を行う危険性が生じてきた。


シュリーフェン・プランの策定編集

上記の可能性からドイツ陸軍参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェン大将はこの状況の打開策として「先にフランス・次にロシア」と戦うという計画を立てた。これが「シュリーフェン・プラン」である。これはロシアのほうが人口が多いが、同時に面積が広大であるため戦争準備に時間がかかるであろうと予測された(予測された期間は6週間)ため、動員完了までの間全兵力の8分の7を対仏戦に、残りの8分の1を対ロシアに振り向けるという極端な配置を行うこととした。


さらにシュリーフェンはフランス軍の早期撃滅のためには、ドイツ軍の戦力を集中しての一点突破・包囲殲滅戦しかないと考えた。そのため山岳部のため移動が難しい南部のエルザス地方の独仏国境に同盟国オーストリア・ハンガリー軍を置き、北部のドイツ・オランダ・ベルギー国境にドイツ軍主力を集中することを考えた。フランス軍がエルザス地方に集結して攻めてくるのであれば、ドイツ軍は北部からフランス軍の背後を突き一気に包囲できると考えたのである。


小モルトケの修正案編集

1906年シュリーフェンが参謀総長を退任し、後任として普仏戦争の英雄ヘルムート・カール・フォン・モルトケ(大モルトケ)元帥の甥、ヘルムート・ヨハン・フォン・モルトケ(小モルトケ)大将が就任し、シュリーフェン・プランの修正を行った。


モルトケの修正案では、オーストリア軍を外し代わりに北部から2個軍をエルザス地方の防衛に回すことにした。また北部軍もオランダを外し、ドイツ・ベルギー国境から侵入するという侵攻ルートの短縮を図る案にした。


プランの欠点編集

しかしこのプランにも欠点があった。


一つは補給である。北部軍の戦力は25個軍団という大兵力を擁していたが、部隊の移動に限られた交通手段(当時は鉄道・馬車が主体)を使うと補給が追い付かなくなる危険があった。


もう一つがベルギーの中立侵犯である。ベルギーは1839年、ロンドン条約で「ベルギーの中立が侵犯された場合はイギリスが参戦する」と明言しており、もしシュリーフェン・プラン通りに事が進めば、イギリスの参戦を招いてしまいかえって敵を増やす恐れがあった。


プラン17編集

一方のフランスでも普仏戦争の復讐戦をもくろんでいた。そのため当面は国境地帯での防御戦略によってドイツ軍の戦力削減を目的としてきた。しかし20世紀初頭、国力が回復してきたフランスでは「エラン・ヴィタール」という概念が発生していた。

「エラン・ヴィタール」は哲学者アンリ・ベルグソンの提唱した「生命の飛躍」という概念であり、これをフランス軍は「フランス的熱狂をもって攻勢に出ることはドイツ軍を打ち破る」といった根拠のない精神論的なものに解釈し、攻撃偏重・防御軽視という考えにとらわれていった。


ついには1913年、フランス軍が発した作戦要務令(戦術の教科書)では「古来の伝統に帰り、今後は攻撃以外の法則はこれを排す」とまで記載されてしまっていた。

そして1914年「プラン17」(第17号作戦計画)が策定された。この計画では普仏戦争で奪われたアルザス・ロレーヌ地方を奪還し、ドイツ本土へ進攻するというものであったが、部隊の配置のみ決めたもので、「計画自体は出たとこ勝負の日和見主義」(フランス軍最高司令官ジョセフ・ジョッフル大将の言)だった。


一方でフランス軍もシュリーフェン・プランのあらましを察知し、小モルトケの修正案通りベルギーを経由してのフランス侵攻という計画を入手していたのだが、フランス軍首脳部はドイツ軍の兵力不足からありえないことだと決めつけていた。


第一次世界大戦とシュリーフェン・プラン発動編集

1914年8月3日、ドイツはフランスへ宣戦布告をするとともに、シュリーフェン・プランに基づいてベルギーに対して領土通行権を認めるよう求めた。しかしベルギー国王・アルベール1世は「ベルギーは道ではない、国だ」として断固拒否、ドイツがベルギーに宣戦布告したことを受けて、イギリスもまたドイツに対して宣戦布告した。


これによって(ドイツからすれば)余計な戦闘をする必要が生じたため、ベルギーの通過には3週間を必要とした。その間フランス軍はプラン17を発動し、エルザス・ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌのドイツ語読み)へ5個軍を投入したが、ドイツ軍が後退しながらも損害を与え続け、ドイツ軍のフランス侵入を受けて後退することになった。


フランスへ侵入したドイツ軍は仏英連合軍を破りながら西進し、包囲を完了させようとしたが次第に補給が追い付かなくなり、パリ手前70㎞で進撃が停止。さらに連合軍の反撃によってエーヌ川まで後退し、塹壕を築いて防御に入った。


一方ドイツ東部では、6週間かかると思われたロシアの戦争準備が2週間半で一応の準備が完了し、東プロイセンへの攻撃を開始した。ドイツ東部を守る第8軍はタンネンベルクの戦いで勝利し、ロシア軍の出鼻をくじくことに成功したものの、もはや「フランスを打倒してロシアを」などと悠長なことを言ってはいられなくなった。またロシアの予想以上に素早い侵攻に動揺した小モルトケは西部戦線から二個軍団を引き抜いて東部戦線に派遣し、西部戦線での衝撃力を弱めたばかりか、その増援はタンネンベルクの戦いには間に合わないという虻蜂取らずの結果に終わった。


ここにシュリーフェン・プラン、プラン17ともに目的を達成できぬまま潰えることになった。


大モルトケの構想編集

では普仏戦争の功労者・大モルトケはどのように二正面作戦を考えたのかと言えば、シュリーフェンとは全く逆に、「対露攻撃・対仏防御」を考えていた。

大モルトケはセダンの戦いでフランス皇帝・ナポレオン3世を捕虜にした後も、フランス人たちが共和政府を成立させパリでの戦いで勝利を収めるまで戦いが続いたことを憂慮し、一回大勝利を収めてもその時点で戦争を終わらせるのは不可能であると考えるようになった。

そこで東方では、オーストリア・ハンガリー軍と共にロシア軍に対して現在のポーランド領で会戦を行って打撃を与える。西方ではエルザス・ロートリンゲンに防御線を敷いて、旧領奪還を図ろうとするフランス軍に出血を強要することを考えた。

また独仏国境を突破できなかったフランス軍がベルギーの中立を侵犯してきた場合は、部隊を後退させつつ防御戦闘を行うことを考えており、また前述のロンドン条約に基づいてベルギー救援のためにイギリスがドイツの味方に付くこともあり得ると考えていた。

そして大モルトケの最終目標は、仏露両国に出血を強いたうえで外交交渉によって戦争を終結させるというものであった。


見てわかる通り、シュリーフェン・プランがあくまでも軍事面のみを考え、それによって生じる政治的問題を一切考慮に入れない(おまけに場合によっては敵を増やす)計画なのに対し、大モルトケの構想は、軍事・外交両面のバランスを考慮したものであり、基本構想の単純化・外交交渉によって味方を増やす・最終的には政治的妥協も辞さない柔軟さを考慮に入れるといった正に戦争計画のお手本ともいうべきものであった。


余談ではあるが、大モルトケ自身はシュリーフェンのことを「知的能力と想像力にかける人物なので重要なポストにつけてはならない」と警告していたが、自身の言いなりになる人物を欲したヴィルヘルム2世とシュリーフェンの前任者アルフレート・フォン・ヴァルターゼー元帥の思惑が一致したことから、重要なポストどころかドイツ陸軍全軍の指導権を得ることになってしまった。


18世紀のプロイセン軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツは自書『戦争論』で「戦争は他の手段をもってする政治の継続である」と語っており、ビスマルクや大モルトケの構想はあくまでも「政治は軍事に優先する」ことを前提に立てられたものだった。しかしドイツ帝国成立後の軍人たちの考えは、第1次世界大戦中期以降、参謀次長として実質的な指揮を執ったエーリヒ・ルーデンドルフ大将が「すべての手段は戦争指導に従属させるべき」と語ったように、「軍事は政治に優先する」という「戦争論」とは反する考え方が主流となってしまった。

結局、外交政策の失敗によって敵を増やし続けた(この後、イタリアやアメリカをも敵に回すことになる)ことがドイツ帝国滅亡の原因となった。


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