曖昧さ回避
- ドイツ語でドイツという国のこと。Deutschland。
- ドイッチュラント級戦艦1番艦「ドイッチュラント」。ドイツ帝国海軍の前弩級戦艦。
- ドイッチュラント級装甲艦1番艦「ドイッチュラント」。
- 客船「ドイッチュラント号」。
- ドイツ陸軍のグロースドイッチュラント(大ドイツ)師団。
- 戦艦少女の艦船擬人化キャラクター「ドイッチュラント」。
- アズールレーンの艦船擬人化キャラクター「ドイッチュラント(アズールレーン)」。
ドイッチュラント級装甲艦1番艦「ドイッチュラント」
第一次世界大戦の敗戦による壊滅状態より再建されつつあったドイツ海軍において、旧式極まった前弩級戦艦の置き換えとして建造された。
1933年就役。
排水量1万トンを超える軍艦としては再建後初めて建造された艦であり、名前からも期待の大きさが分かる。
スペイン内戦(1936~1939年)の間に7回スペイン沖に派遣され、1937年5月29日の4度目の派遣の際に政府軍の爆撃を受け損傷した。
第二次世界大戦初期は、大西洋での通商破壊を行ったが、姉妹艦2隻と異なり短期間で本国に帰還している。
1940年、「ドイツ」という名前の軍艦が沈むと縁起が悪いと考えたヒトラー総統の指示により、リュッツォウに改名された。
4月9日、ノルウェー侵攻作戦に参加しオスロ陥落の同日に帰途についたが、イギリス海軍の潜水艦に雷撃され、艦尾に被雷し大破する。この修理には41年春までかかった。
1941年の6月12日にもノルウェー沖で雷撃(今度は雷撃機)され被雷。2日後にキールに帰還し、翌年1月まで修理を受ける。
1942年12月31日、ソ連向け輸送船団を妨害すべく重巡洋艦アドミラル・ヒッパー・駆逐艦群と共に出撃し、イギリス海軍の駆逐艦以下の小艦艇からなる護衛艦隊と戦闘になったバレンツ海海戦(レーゲンボーゲン作戦)では、北極海の視界の悪さとイギリス側の奮戦から戦力を見誤り、輸送船団に逃げられてしまった。この結果にヒトラーは激怒し、大型艦解体命令を出した(後に撤回)。
大戦末期には押し寄せるソ連軍に対し艦砲射撃を行っていたが、RAFの空襲でトールボーイ爆弾の至近弾により損傷し、スヴィネミュンデ(現在ポーランド領シフィノウイシチェ)で着底した。
戦後ソ連の手で引き揚げられ、リュッツオウをロシア語読みしたリュッツォフの名でソ連海軍に編入されるも損傷が激しく、標的艦として使用された。
BGMは就役時に作曲・採用された公式テーマ曲『装甲艦ドイッチュラント』 |
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戦艦少女に擬人化した登場キャラ、德意志が登場する(下のイラスト)。外部リンク
あなたのためのポケット戦艦ドイッチュラント!私の火力を甘く見ないで下さいよ~HEY☆HEY☆HEY~
客船「ドイッチュラント号」
動画は二代目のもの。 |
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グロス・ドイッチュラント(大ドイツ)
ドイツ国防陸軍の最精鋭装甲師団。
1921年に設立されたベルリン衛兵連隊に端を発し、1939年に歩兵連隊グロス・ドイッチュラントと改名された。
連隊は1940年のフランス侵攻、1941年のユーゴスラビア・ソ連侵攻に参加し、10月からのモスクワ占領を目指したタイフーン作戦にも参加するが作戦は失敗し、その後の翌年に続くソ連軍冬季攻勢で連隊は大損害を被り再編成の為に後方に送られ、自動車化歩兵師団に拡大再編成される。
師団は1942年の夏季攻勢青作戦に参加、1943年の第三次ハリコフ戦では、戦車大隊が連隊となり、更にティーガー重戦車の一個中隊を与えられ増強された師団はドイツ軍の主力部隊の一つとなった。
1943年に師団は装甲師団となり、夏季攻勢ツィタデレ作戦に参加。作戦失敗後のドニエプル河への撤退戦では後衛となり、その後も起動予備的存在として戦い、この年の後半の戦いで「火消し部隊」と言われた。
1944年にはチェルカッシーの戦いなどを経てルーマニアに転戦。更に8月の北方軍集団孤立化を狙ったバルト海でのソ連軍攻勢に対する反撃の主力として一時的に大穴の空いていた北方・中央軍集団の間隙を塞ぐ活躍を見せるも、その後はソ連軍に圧倒されバルト三国を転戦の後に東プロイセンに戻り、その後にブランデンブルク師団と共に師団は装甲軍団グロス・ドイッチュラントを編成した。
1945年、ソ連軍攻勢のなか師団はラステンブルク、ケーニヒスベルク、ザームラントと転戦し、ピラウで壊滅した。
武装親衛隊と同様に優先的に補充を与えられたドイツ国防軍のエリート部隊であり、装甲師団に昇格後の装甲連隊に含まれていた第三装甲大隊はティーガーを装備したもので、ティーガーを大隊規模で常時装備していた装甲師団は武装親衛隊装甲師団でも無かった。
バルト海でのソ連軍攻勢に対する反撃ドッペルコップ作戦での奮戦は有名であり、この功績で師団長のハッソ・フォン・マントイフェル大将は上級大将に昇進した上に、軍団長を飛び越え、第五装甲軍司令官に就任している。
またトゥルグ・フルモスの戦いでの師団の戦闘はNATOで冷戦時代研究が行われたという。
師団要員にはエリート師団の証として独自の肩章、腕章が与えられていた。