概要
日本国において昭和25年から昭和27年まで存在した準軍事組織であり、総理府の直轄組織であり、その後保安隊( 後述 )となった組織であり、武装は軍隊と変わらなかった。
新しい酒は新しい革袋に
日本が敗戦後、朝鮮戦争などの影響による1950年にGHQの指令を受けて設立した、「警察力の予備兵力部隊を創設する」という建前の元創設された国防組織創設の準備組織である。
本来の目的
実際のところGHQ部内資料である「日本の安全保障諸機関の増強」(Increase in Japanese Security Agencies) においては「Constabulary( 警察軍 )」と称されており、アメリカ合衆国が第2次大戦前に植民地として支配していたフィリピンで創設していたフィリピン警察軍や第二次世界大戦後に朝鮮半島南部に設立した南朝鮮国防警備隊のような対反乱作戦部隊、および再軍備のきっかけとして創設されたと思われる。
おぼろげな警察軍から水面下における軍隊創設の準備組織へ
とはいえ武装はアメリカ軍の兵器を用い、軍隊に近いほど精強であり、朝鮮戦争開始時には日本から派出される駐日部隊の空白を埋めるべく、旧日本陸軍の軍人における大佐級の人員の公職追放を限定的に解除して組織構築が開始された。
司令部の迷走
予定ではGHQにて顧問将校の位に在った元陸軍参謀本部作戦課長服部卓四郎元大佐( 陸軍士官学校34期、ノモンハン事変で作戦の積極拡大したりガダルカナルで虚偽の報告により兵を大量に餓死させたりし無能扱いされるがGHQの受けは良かったため、「大東亜戦争全史」を執筆したり再軍備のための研究機関である「服部機関」を作ったりしている )及びその部下たち数名が予備隊司令部に配置され、服部元大佐は予備隊司令官として登用される予定であったが、GHQでは民生局局長コートニー・ホイットニー( 弁護士、軍人。戦後はマッカーサーの側近として活躍、日本国憲法の草案作成を指揮したことでも知られる )、日本政府からは吉田茂ほか政権中枢から頑強な抵抗があり、服部大佐率いるグループが日本の再軍備に関与する事はいったん消えた。
理由
これは彼の率いたGHQ内の顧問集団“服部グループ”を含めた旧帝国陸軍系軍人台頭への危惧、先述のホイットニーの上申とマッカーサー自身の服部大佐への不信感、また、G2( GHQ参謀第2部 )部長であるチャールズ・ウィロビー( 太平洋戦争においては情報参謀、最高位少将。ちなみに反共主義者として知られる )に対し服部大佐本人がGHQ顧問時代に提出した再軍備計画が“当時の日本の国力では賄いきれない“上に“旧軍とほとんど変わらない統帥形態であった“ことがマッカーサーの構想した“西側規格の軍事システム( 連合国式参謀システムの構築 )”にそぐわないとされた為だと言われ、公職追放の解除を行わないことにより彼らを排除したことによる。
結果
結局人事に於いて予備隊は内務省警保局、及び内務省の実務者などを米国ウェストポイント陸軍士官学校などに留学させるなどして、上級司令部は殆どが旧内務省系の人材で占められることとなったものの、同様の手法で構築した韓国軍の幕僚組織が朝鮮戦争に於いて北朝鮮軍にいとも簡単に撃滅された一方旧日本軍および満州帝国軍に所属した将校が奮戦したことから、先述の通り職種における現場の専門職に在った大佐級の元軍人の公職追放を限定的に解除し、その人事に汲みいれていくことになり、いわゆる「服部機関」の人間も含まれることとなった。
影響
しかし内務省主導となった影響は組織内に残り、純粋な軍人の割合が少ない予備隊司令部に対して服部元大佐は“内務軍閥”と揶揄する言葉を残している。
準備組織から実力組織へ
その後警察予備隊は、統率権が総理府( 現:内閣府 )から1952年8月1日に発足した保安庁( 防衛庁を経て現:防衛省 )に移管され、組織は変遷され保安隊を経て昭和29年防衛庁の設立とともに陸上自衛隊となり、それに伴い公職追放によって公務から締め出されていた元日本軍兵士たちに対する追放解除の範囲が広がり、また自衛隊発足以降は佐官・尉官の幹部クラスも入隊できるようになっていった。
そのほか
- 同時期に警視庁予備隊という組織が存在したが、これは警察庁の管轄であり、のちの警視庁機動隊である。
- 海上自衛隊に関しては海上保安庁管轄の海上警備隊をルーツとしている。この組織が発足後速やかに保安庁に管轄が変更された。
- 一方航空自衛隊はこれらの前身組織を持たず、戦後の航空機の進歩もあり、陸海軍の軍人及びアメリカ軍の協力で組織が作成された。