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マシュー・バンカー・リッジウェイ

ましゅーばんかーりっじうぇい

アメリカ陸軍の軍人。第2代連合国軍最高司令官(ダグラス・マッカーサーの後任)として日本の占領統治に当たった。
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概要編集

Matthew Bunker Ridgway(1895年3月3日~1993年7月26日)

アメリカ陸軍軍人

朝鮮戦争で窮地に陥った国連軍を救ったことで知られる。

1951年4月から1952年4月まで第2代連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの後任)として日本の占領統治に当たった。


来歴編集

1895年、3月3日にモンロー砦バージニア州)で誕生。父トーマスは砲兵将校

1917年、ウェストポイント陸軍士官学校を卒業し任官。

1932年、フィリピン総督の技術顧問となる。

1937年、陸軍大学を卒業。

1939年9月1日、ドイツ軍ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。ジョージ・マーシャル参謀総長はリッジウェイを戦争計画局に配属した。

1942年、第82空挺師団師団長となる。

1943年、シチリア島上陸作戦での空挺降下計画を支援。

1944年、ノルマンディー上陸作戦での空挺降下計画を支援。

1945年、中将に昇進。


1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。12月、交通事故死したウォルトン・ウォーカー中将の後任として第8軍司令官に就任。リッジウェイは中国人民志願軍の参戦で敗走する国連軍を立て直す。

1951年、中国への核攻撃を主張するマッカーサーをよそに、現有勢力のみで中国人民志願軍を38度線の向こうに押し返す。4月11日、マッカーサーが連合国軍最高司令官を解任され、その後任となった。

1952年、4月にサンフランシスコ講和条約が発効し、リッジウェイは連合国軍最高司令官の任を解かれた。ドワイト・デヴィッド・アイゼンハワーの後任としてNATO軍最高司令官に就任。


1953年、陸軍参謀総長に就任。ベトナム戦争への介入を考えるアイゼンハワー大統領に対し、現地での調査結果を報告(リッジウェイ報告書)。敵を撲滅するには10個師団が必要で莫大な戦費がかかるという内容で、アイゼンハワーの不興を買う。

1955年、陸軍を退役。


1993年、7月26日に死去。98歳だった。


人物編集

朝鮮戦争で、朝鮮に一泊もした事がなかった伊達者のマッカーサーとは対照的に、リッジウェイは最前線で兵士たちと共に在った。

負け戦で覇気を失った兵士たちに冬季装備を支給し、暖かい食事を用意させた。

常にサスペンダーの両胸部分にMK2手榴弾をぶら下げていたため、兵士たちからは「Old iron tits(鉄のおっぱいジジイ)」と呼ばれ親しまれた。

オマール・ネルソン・ブラッドレー統合参謀本部議長は、戦争の流れを変えたリッジウェイを「陸軍の歴史における個人的リーダーシップ最大の偉業」と称えた。


関連タグ編集

アメリカ陸軍 朝鮮戦争 連合国軍最高司令官総司令部

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