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概要

(1898年(明治31年)2月5日(戸籍上は3月5日)- 1962年(昭和37年)7月18日)。本名は大邊男(おおべ ますお)。

福岡県築上郡岩屋村字大河内(現:豊前市大河内)出身。先祖は中津大江郷の藤原孝範で、代々岩屋村で医者をしていた。

小学校卒業後臼杵中学校(現:臼杵高等学校)に入学するも、町医者をしていた父が亡くなったことから商業学校への転校を余儀なくされ、1913年に中退。大阪に暮らす次兄・弘を頼って大阪商業学校(現:大商学園高校)予科に入学。同校では剣道部に入り剣道にも精を出した。

1915年に予科を卒業、本科に進み1918年に本科を卒業。神戸高等商業学校に受験するが失敗し、弘が経営する化粧品・洋酒メーカーの日光社で会計部長として働いた。

やがて日光社の取引先である明治屋の仕入部に勤めるが、関東大震災で会社を辞めて引き上げ日光社に戻った。

1923年に劇作家を志望して倉橋仙太郎が主宰する新民衆劇学校に第二期生として入校する。倉橋から「脚本を書くにしても俳優の体験も必要だ」と言われたことがもとで俳優に転向し、1924年に大阪市中央公会堂の公演『天誅組』などで正親町勇の名で出演。1925年に研究生は新民衆座の名で帝国大学で野外劇を公演、ここでは室町次郎の名で出演した。

1926年8月に日活大将軍撮影所に入社。母方の従弟が撮影所長の池永浩久と同郷で私塾も同じだったことから同じく従弟同士の大久保謙治と一緒に入社が叶ったという経緯がある。

当初はなかなか素質が認められなかったが、舞台での大河内を知っていた伊藤大輔監督には早くから素質を認められ、日活での監督第1作『月形半平太』での主演に起用しようとする。しかし会社からは無名であることを理由に反対されてしまい、伊藤は大河内のために『月形半平太』を裏返しにしたストーリーを書き、『長恨』というタイトルの作品を撮影した。これが池永に気に入られ、池田富保監督の『水戸黄門』で急病の三桝豊の代役として槌田左門役に抜擢され、続いて大佛次郎原作の『照る日くもる日』では河部五郎の共演者として出演することになったが、おかげで肝心の主演作『長恨』は撮影が大幅に遅れ11月となった。

芸名は恩師である沢田正二郎の名を取って大河内傳二郎とするつもりだったが、宣伝部の誤りで傅次郎になってしまい、それを芸名とした。ちなみに苗字の大河内は出身地に由来する。

デビューと同時に注目を集め、1927年だけで21本の作品に出演。伊藤大輔監督・唐沢弘光撮影のトリオで『忠次旅日記』『新版大岡政談』などの名作を生んだ。

特に『忠次旅日記』はキネマ旬報ベストテンで第二部が1位、第三部4位にランクインされ、サイレント映画時代劇の金字塔ともいえる傑作となった。その後も『血煙高田の馬場』など時代劇を連発し、スターとしての地位を決定的なものとした。

『新版大岡政談』では初めて丹下左膳を演じた。もともと丹下左膳は原作ではあまり重要人物ではなかったが、同作では前面に押し出され、大河内は大岡越前と左膳の二役を演じた。アクの強い左膳のキャラクターは好評で、刀の鍔を口元に持ってきて見得を切る姿、トーキーになってからは豊前なまりの「シェイは丹下、名はシャゼン」は大河内の代名詞にもなった。

1928年7月に『大菩薩峠』の映画化を巡って伊藤監督が退社、11月には多くの作品で共演していた伏見直江との結婚説が浮上し、それが原因してか池永と衝突。12月25日に日活を退社する。

1929年3月に沢田が急死し、一時新国劇の舞台に立ち追悼公演にも出演した。

4月30日に日活に復社。第1作の『沓掛時次郎』は大ヒットした。翌年には伊藤監督も復帰し、再びトリオで傑作時代劇を生み出した。

悲愴感ただよう演技とスピード感あふれる殺陣で、従来の時代劇スターの定型を破り、人気を不動のものとした。

戦前を代表する時代劇スターの一人であり、阪東妻三郎嵐寛寿郎片岡千恵蔵市川右太衛門長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。

1937年に東宝の前身であるJ.O.スタヂオに移籍。以後は現代劇に多く出演し、今井正監督の『閣下』や山本嘉次郎監督の『ハワイ・マレー沖海戦』、『加藤隼戦闘隊』などの戦意高揚映画にも出演。黒澤明監督の『姿三四郎』、『わが青春に悔なし』『虎の尾を踏む男たち』にも出演し、動きは少ないが重厚な演技で芸の幅を広げた。

1946年に東宝争議が発生。大河内は経営者側にも労働組合側にも付かないと立ち上がり、それに賛同したる藤田進高峰秀子、長谷川一夫、入江たか子花井蘭子山田五十鈴原節子黒川弥太郎山根寿子と共に「十人の旗の会」を結成して東宝を脱退、新東宝設立に関わった。

新東宝では『盤嶽江戸へ行く』で嵐寛寿郎と初共演し、『佐平次捕物帳 紫頭巾』で阪東妻三郎と最初で最後の共演を果たした。

1949年に大映京都撮影所に移籍。後に東映専属となるまで大映のほか新東宝、宝塚映画、東映と各社の作品に出演。1953年にマキノ雅弘監督の『丹下左膳』で久々に丹下左膳を演じた。1954年には三隈研次監督の『丹下左膳 こけ猿の壺』でも丹下左膳役で出演。これが最後の丹下左膳役となった。

1957年頃に東映京都撮影所に入社。「過去の栄光は忘れて下さい」と言われ多くの役柄を演じ、時には悪役として斬られることもあった。

1964年に東京駅で倒れ、京都で療養に努めたが7月18日に胃がんで死去した。

人物

大きな目玉から「目玉のデンジロー」という異名もあったが、実は極度の近視で普段は瓶底眼鏡をかけていた。

さらに近視ゆえに相手に肉薄して刀を振るうため迫力ある乱闘が生まれた。東宝時代に共演した中島春雄は本身の日本刀を間近で振るうため危険で怖かったと語っている。

晩年は仏教に帰依し、名利にこだわることなく淡々と生き、人徳が出て人間として超脱した姿を見せた。

1931年には京都嵯峨の小倉山の向かいの亀山の山頂に山荘を置いた。自ら広大な和式庭園を設計し、家続きの寺院「持仏堂」を建てて念仏を唱えて過ごしていた。晩年の脇役で稼いだギャラはこの山荘の造園につぎ込まれたとされている。

大河内は山の上に建てたため井戸を掘るのにいちばん苦心したと語っている。鎌倉様式と室町様式が混在していたため、完成当初は山荘の評判は良くなかった。

常盤あたりを散策していた大河内は、道端に転がっている石地蔵を見つけ、その表情を気に入って山荘へと持ち帰った。しかしその様子を地元の子供たちに見られてしまい、村の人々から地蔵を返さないと訴えるとねじ込まれた。大河内は「あの地蔵は盗んだのでない、常盤を散歩していたらあの地蔵様が“大河内、大河内”と呼びとめなさった。道端に転んでいるお姿がとても傷わしく思われたので山荘にご案内して、大切におまつりしただけのこと。あなた方がそれほど大切な地蔵様であるなら、なぜおまつりをなさらぬか。なぜ道端に横倒しになっているのを起こして差し上げぬのか。草むらに横たわった地蔵様を見つけたというのは霊の導き、縁あってのことでありましょう。訴えなくとも戻せと言うなら戻しますが、その代り地蔵寺をたてて立派におまつりしてください」と言い返し、最終的に村から正式に山荘に寄贈する形で決着したという。

山荘は大河内の没後遺族によって維持されており、生誕100周年となる1998年には写真集が発行された。中門、大乗閣、持仏堂、滴水庵は登録有形文化財に指定されている。

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俳優 男優

林家木久扇 - 大喜利中に頻繁に大河内のモノマネをしており、台詞が長いため司会者から「ここカットね」、「休み時間」とイジられるのが定番だった。

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