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概要編集

1908年2月27日生まれ。現在の京都市伏見区出身。


初舞台は1913年、風邪をひいたために舞台に立てなくなった子役のピンチヒッターであった。それがきっかけで翌年、中村福円という歌舞伎役者の弟子となり、中村一夫と名乗った。

1917年に中村福円一座のメンバーとして東京の公演に参加、その際嵐佳寿夫と改名。


1918年に初代中村鴈治郎門下に移籍、その息子である林長三郎(後の二代目林又一郎)の元に預けられたことから林長丸と改名。歌舞伎では女形を務めた。


大阪松竹座の舞台に立っていたところ、松竹(大阪)の社長であった白井松次郎に認められ松竹京都撮影所(当時は京都市左京区下鴨に存在していた)に入所。映画界に快く送り出す決心をした初代鴈治郎によって林長二郎の芸名をいただいた。

松竹時代は、今風の言葉で言えばイケメンの時代劇スターとして大活躍した。


しかし1937年に東宝に移籍、その際にトラブルを引き起こしてしまった。この事件を機に本名でもある長谷川一夫と改名した。

その東宝も第2次世界大戦後、労使紛争が激しくなってしまったため、そこに見切りを付け新東宝の設立に参加した。そしてその新東宝で『銭形平次捕物控 平次八百八町』に出演、この時初めて銭形平次を演じている。

1950年に大映(京都撮影所)に移籍、ここで代表作となる『銭形平次捕物控』シリーズを17作製作してもらう事になる。また、松竹時代から付き合いのあった衣笠貞之助がメガホンを取った『地獄門』に主演、カンヌ国際映画祭グランプリとアカデミー賞外国語映画賞を受賞した。


1963年に映画を離れてからは舞台演劇に活躍の場を見出した。その一方でごく少数ながらテレビ時代劇にも出演している。

また宝塚歌劇団によって「ベルサイユのばら」が舞台化された際には、その演出を手掛けている。

なお、映画を離れた理由は、「皺くちゃのオッサンに成り下がって映画に出るのはおかしい。二枚目で売ってきたのだから、いい男でなければならなかった。たるんでしまった面でいい男演じるのは流石にイヤ」。


1984年4月6日、東京新橋の病院で77年(76歳)の生涯を閉じた。没後に俳優では初の国民栄誉賞を受賞。


子供は3人いたが、全員俳優になった。また、俳優の長谷川かずきは孫(次女・長谷川稀世の娘)。



東宝移籍に関するトラブル編集

先述の通り林長二郎は1937年に東宝に移籍したのだが、そのきっかけとなったのは、東京都世田谷区成城に存在した東宝映画東京撮影所(「東宝スタジオ」と言う名称の貸しスタジオとして現存)の最新かつ充実した設備を目の当たりにした事であった。


東宝映画東京撮影所に衝撃を受けた長二郎は、「ウチら(松竹)の撮影所(この時点では京都市左京区下鴨に存在した)にも新しいムービーカメラ導入して下さい」と松竹に頼んだものの聞き入れてもらえなかった。その結果、「いい機材を入れようとしない松竹には絶望した」とばかりに東宝に移籍してしまう。


だがこれに対し松竹は不快感を覚え、マスコミは「長二郎は松竹に対し後ろ足で砂をぶっかけた」とバッシングするようになった。そんな最中、長二郎は、京都市太秦の木嶋神社(蚕ノ社)付近にあったJ.O.スタヂオ(後に廃止、跡地は現在大日本印刷の工場が立地している)と言う撮影所で映画の撮影に臨んだのだが、11月のある日撮影所から出たところ、二人組のチンピラの襲撃を受け、左頬を斬りつけられてしまった。


だが長二郎は「私の勝手な行動の結果こんな事になってしまったんだ」と、あえて顔の傷を整形などで隠す事はしなかった。さらにこの事件以後、バッシングはピタリと止んだ。そして、「背後関係を調べたところで私の顔は元に戻らないし、映画界のイメージが悪くなってしまう」という理由から、警察に対し「深く調べないで下さい」と要望を出し、結果真相はうやむやのまま終わってしまった。


なお、長二郎改め長谷川は後に「あの一件がきっかけで映画俳優はよその映画会社の作品に自由に出られるようになったんです」と語っている。


ネタ編集

長二郎(長谷川)に後ろ足で砂をかけられるかの如く逃げられた松竹は、「愛染かつら」シリーズの大ヒットこそあったもののその後しばらくは経営不振に陥り、そのまま太平洋戦争に突入してしまう。

東宝争議の最中それ故に長谷川に見捨てられた東宝は「ゴジラ」のホームランまで不振を極めてしまう(が、それ故に三船敏郎久我美子岡田茉莉子といった若手俳優が奮戦していく事となる)。

設立に参加したはずの新東宝は、長谷川が大映に引き抜かれてから11年後に消滅してしまった。

そして大映も長谷川が映画引退を機に退社してしまってからは衰退の一途を辿り(ガメラシリーズの大ヒットこそあったが焼け石に水でしかなかった)1971年12月に経営破綻した。


こんな事もあり、映画監督の稲垣浩は自著の中で、映画の世界に入ってから常に高い人気を誇り、滅多な事では脇役に回らず、主催・主演した歌舞伎の公演は売り切れ連発、「ベルサイユのばら」も大成功した事と併せて、「どこまでついている人なのか計りしれない」と驚いていた

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