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概要編集

1933年1月11日生まれ。本名:吉田 鞠子(旧姓・田中)。父は戦前の無声映画で活躍した二枚目俳優・岡田時彦。母は宝塚歌劇団卒業生で男役を務めた田鶴園子。夫は映画監督の吉田喜重


1951年、東宝ニューフェイスの第3期として、小泉博らと共に東宝演技研究所に入所した。入所して20日後、成瀬巳喜男の監督映画『舞姫』の準主役に抜擢されて銀幕デビュー。


東宝映画の主演スターとなる。以後10年間ほどは月1本のペースで様々な映画に出演し、その中には原節子高峰三枝子といった、伝説的女優たちとの共演作もある。


1957年3月にフリーとなり、同年9月に松竹と専属契約する。女性映画を得意とする松竹では数々のメロドラマに主演し、先に東宝から松竹に移籍していた有馬稲子と共に松竹の二枚看板として大活躍した。


以降1960年代は、小津や木下惠介など当時の日本を代表する名監督たちの作品に複数出演する。

1962年、「岡田茉莉子・映画出演100本記念作品」として自らプロデュースした主演映画『秋津温泉』がヒットし、多くの映画賞も獲得した


1965年、松竹とは2本の本数契約とし、事実上のフリーとなった。


40代に入ってからも『人間の証明』(1977年)、『制覇』(1982年)、『序の舞』(1984年)、『マルサの女』(1987年)、『鏡の女たち』(2003年)などで主演や重要な役どころを演じた。


テレビでは、2時間ドラマ『温泉若おかみの殺人推理』シリーズ(土曜ワイド劇場・テレビ朝日系列)に1996年から2019年までの23年間に渡り、大女将役を演じた。


余談編集

自らプロデュースした映画『秋津温泉』の成功を機に、一度は芸能界を辞めるつもりでいた。だが、監督をしてもらった吉田喜重に説教された事がきっかけで翻意、現役続行を決意した。

そしてその吉田と結婚後は映画・テレビドラマにますます出演してその出演料で吉田の映画作りを支えたという(岡田曰く「私の稼ぎをあの人の映画制作につぎ込んだからこそ、あの人は無借金で映画を作り続けることが出来たんです」)。


思ったことをつい口にしてしまう性格故、映画界に入ってからしばらくは気の強い役ばかり回されていた。当然ながらそれに嫌気が差し、挙げ句の果てには撮影所長室に殴り込みをかけ、所長に「違う役を回して下さい!!」と土下座した。それが功を奏し、違う役も演じさせてもらえるようになった。


女学生だった頃に入江プロという映画製作会社が1933年に製作した『瀧の白糸』を友達と一緒に観に行ったのはよかったが、その事を母親に伝えたところ、大泣きされてしまった。どう言う事かと尋ねたところ、その映画に主人公の相手役で出ていた俳優が、岡田が1歳になるかならないかで死んでしまった、実の父親・岡田時彦と告白されたのであった。そしてその翌日、自分の父親が何者であったかを知るべく、改めて一人でその映画を観たのであった。

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