概要
ナチス・ドイツ時代のドイツ国防軍における最高位「国家元帥(Reichsmarschall)を務めた人物。
政治家としては国会議長、プロイセン州首相。軍人としては航空相、ドイツ国防軍空軍総司令官を務めた。
経歴
1893年ドイツ・バイエルン生まれ。ゲーリングの父ハインリヒは高位の外交官だったが、自由主義的な思想(植民地に赴任していたが、現地人を対等な人間として扱っていた)が煙たがられて早めの退官を強いられ酒びたりとなり、プロイセンの裕福な大地主エーペンシュタインに育てられる。エーペンシュタインは中世の貴族に憧れており、中世風の城で多くの使用人を従えて暮らしていた。ゲーリングはこのエーペンシュタインを父代わりとして尊敬し、彼の貴族趣味と騎士道趣味を受け継いだ。
なお、このエーペンシュタインはユダヤ人の血を引いていた。学生時代、ゲーリングは「尊敬する人物」という題材で作文を書くという課題において、エーペンシュタインを尊敬する人物としてあげた。ところが、校長からは「我が校の生徒がユダヤ人を尊敬するなど、許されることではない」とこっぴどく叱られ、「私は今後、二度とユダヤ人を尊敬しません」という反省文を100回も書かされたあげく、級友からも「私の代父はユダヤ人」というプラカードを付けられるいじめを受ける。これに我慢ならなかったゲーリングは、この学校を飛び出す形で退学する。その後、ハインリヒやエーペンシュタインの尽力で、士官学校に入校することとなる。こうして、ゲーリングの軍人としてのキャリアが始まった。
優秀な成績で士官学校を卒業し、第一次世界大戦から軍人として活躍。当初は陸軍将校であり、フランス兵を捕虜を取るなどの功績を上げている。このとき、士官学校時代の友人で、現在は航空隊に所属していたたブルーノ・レールツァーと再会し、そこで航空隊の話を聞くと、ゲーリングは航空隊に入りたいと望むようになった。移籍の志願書を軍に提出するも認められず、しかし諦められなかったことから、命令違反を承知で陸軍を抜け出し、航空隊に潜り込む。本来なら営倉行きであったが、エーペンシュタインは宮廷に影響力を持つ人物であったため、最終的にゲーリングの航空隊への移籍が認められた。
勇敢だったゲーリングは、航空隊でもその能力を遺憾なく発揮し、様々な功績を上げた。第一次世界大戦の最初は、航空機の能力も貧弱であり、せいぜいが観測くらいの仕事しか無かったが、やがて航空機の性能は加速度的に進歩し、戦争の中盤くらいから戦闘機同士の戦いが日常的になっていった。ゲーリングは、この戦闘機での戦いでも名を挙げており、エースパイロットとして有名なイケメンとして、ドイツ中に名が知られることとなる。
第一次世界大戦では、一般部隊でエースパイロットとして頭角を現し、18機撃墜スコアにより、皇帝ヴィルヘルム2世から直々にプール・ル・メリット勲章(一般兵士が受けられる勲章としては最高位)を授与されるなど、エースパイロットとしての名声を高めた後、かの有名なマンフレート・フォン・リヒトホーフェン(赤い彗星の元ネタ)が率いたエース部隊、リヒトホーフェン大隊の隊長に就任する。
このときはマンフレートが戦死し、次の隊長ヴィルヘルム・ラインハルトも事故死していたのだが、大隊にはゲーリング以上のスコアを持つパイロットたちがいたにもかかわらず、別部隊から抜擢された。指揮能力や人心掌握能力が重視されたためとされる。戦闘では隊長ゲーリング自ら率先して突撃し、四散させたところを他のエースパイロットに仕留めさせてスコアを譲ったことで人望を得、最終的には初代隊長以上の信頼を得た。(おかげで本人の最終スコアは22機にとどまってしまったが)
ゲーリングは最後まで戦い抜いたが、ドイツは敗戦する。ゲーリングたちは、最後の任務となった着陸で、わざと失敗してドイツ軍の機体を次々と壊した。ドイツ軍機を接収するだろう連合国に対するせめてもの抵抗であった。
その後、ドイツでは各地で左翼政権が生まれて右翼派閥が処刑され、逆に左翼政権が失墜すると、今度は右翼が左翼を虐殺するという血なまぐさい状況となってしまう。ゲーリングはそんな祖国に失望し、デンマークやスウェーデンから、曲芸飛行や不定期便パイロットの仕事を依頼されると、ドイツを後にする。敗戦国とはいえ、ドイツ最高のパイロットだったゲーリングの知名度は、ドイツ国外でも高く、仕事は次々に舞い込んだ。しかし、新聞報道などで祖国ドイツの苦境を読むにつれて、ドイツへの望郷の念が湧き上がり、帰国することとなる。
帰国後、ナチスと出会い、アドルフ・ヒトラーの演説に魅力を感じ、入党。そこで「有名な軍人が入ってきた」と憧れと希望の羨望をうけまくる。なお、ゲーリングはヒトラー個人に魅力を感じて入党したようで、ナチスの政策や方針などには、あまり興味がなかったようだ。そのため、党の政策を重視するナチス幹部とは、折り合いが悪かったという。
1923年、ヒトラーが起こしたミュンヘン一揆という暴動未遂で負傷してしまい、治療時に注射された麻酔のモルヒネのせいで中毒症状を起こし、最終的にデブになってしまう。
一応その後、何度かダイエットに挑戦はしているのだが、美食家だったために全て失敗に終わっている。
それでも軍事・政治能力は下がることなくナチスが政権を掌握するとプロイセンの統治者になって、第二次世界大戦が始まると空軍の航空戦闘力を上手く操って「帝国元帥」とドイツ最高の軍事指導者になる。
しかし、1940年から始まったイギリスへの空軍による侵攻は何度も失敗。挽回の為に挑んだというソ連のスターリングラードの戦いも上手くいかず、徐々に彼の権威は失墜していく。
ついに、敗北寸前の1945年にヒトラーの下から逃亡。連合国に投降し、戦犯としてニュルンベルク裁判を受ける。無罪を勝ち取ろうと検事たちと丁々発止の論戦を繰り広げるも結果、1946年に死刑の判決が下る。
しかし、執行前に秘かに隠し持っていた青酸カリで服毒自殺を遂げてしまう。
連合国司令部宛ての遺書によれば「銃殺刑なら甘んじて受ける覚悟はあったが、絞首刑にされるのは我慢ならなかった」との理由であった。(一般的に銃殺刑は軍人の処刑方法であり、絞首刑に比べて軍人としての名誉が保たれるため)
この自殺はニュルンベルク裁判と連合国に大打撃を与えた。当時の新聞各紙の見出しが「正義の裁き」から「ゲーリングが連合国に一杯くわせた」に変更されてしまい、連合国の威信を傷付ける事になったためである。当のドイツ人は、ゲーリング元帥が連合国に最後の抵抗を行ったと考える人が多く、高く評価された。
逸話
- ルネサンス時代の貴族に憧れ大変に華美な生活を送っていた。好きだったのは豪華な衣装、贅沢な料理、宝石、ベンツやホルヒの高級車、鉄道や車の模型、そしてモルヒネ。衣装や装身具にもこだわりがあり、本人がデザインしたと噂された純白に金モールをちりばめた軍服をまとい、銀飾りをちりばめたピストルや何種類もの毛皮のコートを身に着けていた。これらは成金的なものではなく大時代な貴族趣味と受け止められ、大衆からはむしろ「憎めない人物」として人気があったという。美術品好きもよく知られた趣味で、古典美術だけでなく現代美術にも理解を示し、ナチスが「退廃美術」扱いした作品も密かに私物化することで保護した。
- 狩猟も趣味だったが、あまり動物を殺すことは無く、動物・自然保護を行なったという。
- ナチスドイツの悪名を高めたゲシュタポは、ヒムラーやハイドリヒの指揮が有名だが、創設者はゲーリングである。
- 戦友への情に厚く、エルンスト・ウーデットなどの第一次世界大戦で共に戦ったパイロットたちをナチス時代に積極的に登用したほか、リヒトホーフェン大隊時代の部下の一人がユダヤ人だったため、彼をゲシュタポから守った。また義理堅い面もあり、ミュンヘン一揆で負傷した折に匿い手当をしてくれたユダヤ人であるイルゼ・バーリン夫人に対して、後にアルゼンチンに財産を没収することなく亡命できるように手配している。
- 権勢欲旺盛であり、空軍のトップである事から飛行機関連の権限は全て自分の元にある事を望み、ドイツ海軍の艦艇が搭載する水上機とパイロットまで空軍管轄とした。そして自身の航空隊の一部をUボートの標的である船団を探索するために海軍配下としたい政治に長けたカール・デーニッツ提督の提案も渋った末に認めている。その癖、配下には陸軍の権限を犯す空軍野戦師団やあまつさえ「ヘルマンゲーリング第一降下装甲師団」という陸上の機甲部隊も有していた。「何故空軍が機甲部隊持ってるんだ!?」というツッコミに対してだが、理由は簡単で「んなもん俺が欲しいからに決まってんだろ!!」であった(一応ゲーリング本人は陸軍出身である)。というか大本営からこれまでの戦闘の損耗で陸軍の兵力が不足しているので海空軍からも陸軍に兵を出して欲しい要請にゲーリングが自分の権限を犯されるのを嫌って、あくまでも空軍所属の陸上部隊を創設するという駄々っ子みたいな事を言い出したのが発端のようである。そしてそれがヒトラーに認められたのは武装親衛隊と同じく自分に従順なゲーリングの空軍に陸上戦闘部隊を持たせることで、自分に反攻するかもしれない陸軍に対抗させようとした目論見があったからと言う。その為に己への批判にも敏感で、1945年1月に彼を批判するアドルフ・ガーランド中将を戦闘機総監から罷免。これに対し不満の声をあげ、これまでのゲーリングのやり方に抗議を行ったギュンター・リュッツォウ大佐を中心とした戦闘機パイロットに対しては反乱とみなしリュッオウを左遷した。
- 批判には敏感だが、自身へのユーモアネタには寛容だった。むしろ、本人は自分の欠点をネタにしたジョークを面白がっており、特に勲章ネタを好んだ。喜劇女優クレール・ヴァルドフが「彼の名はヘルマン」というゲーリングを馬鹿した歌で、逮捕された時も解放に尽力したばかりか、自身の劇場に招きいれ歌を聴きながら大笑いをしていたという。ただし、娘エッダに対する悪質なジョークには容赦がなく、特にエッダがゲーリングの娘ではなくゲーリングの副官の子であるという極めて悪辣なジョークには激昂したという。
- 愛妻家だった。ゲーリングにとって最初に死別した妻カリンは死後も崇拝の対象であり、別荘やボートに彼女を意識した名前を付けている。特に別荘カリンハルは有名である。二人目の妻エミーがゲーリングに好印象を持ったのも、カリンへの強い想いを持ち続けていた事がきっかけだったとされる。家族愛も強く、良き夫、良き父を心掛けていたとされており、彼の死後も妻と娘はゲーリングを擁護し、エッダは「私にとっては優しい父だった」と語っている。
- 自殺時に遺書を四通残しており、一通目は連合国司令部へ銃殺なら裁判を受け入れたという批難、二通目は刑務所所長アンドラス大佐へど毒を持ち込んだ手段を明かし、二重三重にも巧妙に行った事なので看守を罪に問わないで欲しいというお願いだった。実際に看守は責任追求はされなかった。三通目は妻子への感謝が綴られており、最も長い内容だった。四通目は囚人達の為に熱心に祈りを捧げてくれていた牧師へ「自死する事により貴方の献身を裏切ることを許してほしい」という短い謝罪だった。この中でゲーリングは「政治的な理由で、こうせざるを得なかった」と釈明しており、絞首刑がゲーリングに取って本心から受け入れ難い事だった事が窺える。
- 海軍総司令官エーリヒ・レーダー元帥とは海軍がZ計画で多額の予算を受けたために空軍の予算が削減され兵装の配備が滞った事などから犬猿の仲であり、前述のように海軍所属の水上機やパイロットも自分の管轄下にしたり、ツェルベルス作戦以外は海軍との協同を重視しなかった。そして空軍が敵空母を一隻も撃沈してないのに海軍は巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウが空母グローリアス、Uボートがカレージアス、アーク・ロイヤルを撃沈している事に不満で対ソ救援船団PQ-18に護衛空母アヴェンジャーが随行している事を知り、その撃沈を厳命してドイツ空軍の精鋭雷撃部隊である第26爆撃航空団「ライオン達の翼」に輪形陣の中心にあるアヴェンジャーを攻撃させ、本来は商船を攻撃すべき彼等は上空直衛のハリケーン10機と対空砲火で22機中5機が撃墜され9機が修復不能の損害を受ける不要な犠牲を出させたうえ、戦果は無しという結果も招いたという。因みにアヴェンジャーは後にUボートに撃沈されている。
- 近代兵器に無理解な面があり、Fw190のような運動性の良い戦闘機は受け入れたが、第一次世界大戦で二人乗り戦闘機が活躍した事からBf110を戦闘機として重視したり、バトル・オブ・ブリテンではレーダーの重要性に気付かず、何度爆撃しても効果がないと目標から外そうとした。また艦船攻撃にも無理解で、日本海軍が赫々たる戦果を上げるまでは「構造も簡単で大量の爆薬を持つ様々な種類の爆弾があるのに、なんで構造が複雑な魚雷なんぞを使わねばならないんだ」と魚雷の活用に消極的だった。
- ヒトラーには機嫌を損ねて己の地位を失う恐怖もあったのか従順で、その無茶ぶりを引き受ける事も多かった。例として「スターリングラードで包囲された第六軍を空中からだけの補給で維持する」「守勢となりドイツ本国が空襲に晒されているのに、爆撃機の生産を抑えてそのぶん戦闘機の生産をあげずに攻撃的空軍を維持する」「Me262を戦闘機でなく爆撃機にする」などがある。それでも失敗続きでヒトラーの信頼を失い、自己の世界に逃避していくのが悲しい。その己の弱さを糊塗する為か「ダンケルクの英軍など空軍で充分」「海軍など空軍の前には無力」とか「もし敵がこの防衛ラインを突破し、我が国を爆撃する事態になるなら、吾輩をヘルマン(旦那)でなく丁稚と呼んでくれて結構である」「アメリカ軍の爆撃機に大文字のBの字が付くのを忘れるな。それはブラフのBだからだ」など大言壮語するが、現実に伴っていないのも悲しい。その為に己の保身で精一杯だったのか空軍の失敗でヒトラーの批判に自分と同じように晒される参謀であったハンス・イェションネク上級大将を庇おうとせずのその自殺の原因の一つとなった。また連合軍爆撃隊の跋扈跳梁を許しているとのヒトラーに批判を受けて現場の戦闘機部隊に不満不平をぶつけ、第1戦闘航空団司令ヴァルター・エーザウ大佐は風邪で寝込んでいるところを、司令部に電話をかけてきたゲーリングに臆病ゆえに仮病を使って後方に籠っていると誹謗され、激怒して出撃し自殺的な死を遂げたという。
- 優美なルックスと凝ったメカニズムで有名なルガーP08をいたく気に入っていた。どれくらい気に入っていたかというと、性能と使い勝手に優れる後継のワルサーP38が陸海軍で制式採用された後も、空軍には終戦までルガーを使わせていたくらい気に入っていた(一応、ゲーリングが製造メーカーのクリークホフ社の大株主であったことも関係している。要は癒着である)。クリークホフ社から贈られた金・銀・象牙とエングレーブでギンギラギンに装飾された二丁のルガー(通称:ゲーリング・ルガー)は、ゲーリングお気に入りの「おもちゃ」の一つでもあった。
- 第二次世界大戦後、連合国に逮捕されたことでモルヒネ中毒から脱すると、皮肉にもその指導力とカリスマ性は戦中よりも高まり、ニュルンベルク裁判では他の被告達と組んで堂々と弁論を戦わせた。その内容は判事たちはもちろん、対立していたアルベルト・シュペーアもいい演説だと賞賛した。さらにシュペーアは「元帥の時にこの精神力があれば」と言ったという。
- ニュルンベルク裁判中は冷静な態度を崩さなかったゲーリングだったが、弁護人に「なんであんな服装してたの?」と貴族趣味について問われた時だけは不機嫌になり、やや半ギレ気味に「俺が自分ちでどんな格好してようと勝手だろ!」と答えたそうな。
- ナチスを象徴する「ハーケンクロイツ」(鉤十字)だが、これは元々は北欧でのお守り「ハカリスティ」であり、スウェーデンを訪問した彼がナチスの宣伝として使ったのがきっかけであった。
- 父ハインリヒ・ゲーリングは、若い頃は騎兵将校として活躍しており、外交官としても高位に上り詰めた有能な男であったが、ヘルマンが生まれた頃は酒浸りになっていた。このため、ヘルマンはハインリヒを軽蔑しており、むしろ代父エーペンシュタインを尊敬していた。しかし、成長すると父の偉大さを理解したらしく、父が死んだときは、もっと話し合っていれば良かったと涙を流したという。
- 父ハインリヒは非常に子沢山であり、ヘルマンには多くの兄弟が居た。その中でも特異なのは、弟アルベルト・ゲーリングだろう。アルベルトは、兄が所属していたナチスを嫌っており、何度もゲシュタポに逮捕されている。ただ、政治的には対立していても兄弟仲は良かったらしく、ヘルマンは弟を何度も救っている。一方、アルベルトはドイツが敗戦したとき、「戦犯ゲーリング」の親族と言うだけでアメリカ軍に逮捕された(反ナチスだった経歴をアメリカ軍は全く信用しなかった)。兄ヘルマンに不利な証言をすれば開放されるだろう事は分かっていたが、アルベルトは兄が死刑判決を受けるだろう証言をすることは出来なかった。結局、兄が自殺した後にようやく釈放されたアルベルトは、「ゲーリング」という名前のせいでドイツ社会から疎外され続け、1966年、孤独に死去した。