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ルドルフ・ヘス

るどるふへす

ナチス副総統。アウシュヴィッツの所長とは別人で血縁もない。
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概要

第三帝国副総統であり、形式上、ヒトラーにつぐ国民社会主義ドイツ労働者党のナンバーツー。
ヒトラーの『我が闘争』の著述を助けたことや、ネオナチのアイドル的存在として有名。

ナチス入党

第一次世界大戦に従軍していたヘスは、敗戦の原因がヘスは多くの元軍人たちと同様に共産主義者とユダヤ人であると確信しており、反ユダヤ主義・反共産主義に傾倒していった。
そんな頃にミュンヘンの酒場でヒトラーの演説を聞いて非常に共感し、ナチスに創立メンバーとして入党。強烈なヒトラー崇拝者に変貌した。
政権獲得までヘスの地位はヒトラーの個人秘書でしかなかったが、ヒトラーの仲介役と言う立場の影響力は絶大であり、他の幹部と比べても見劣りがない権勢を持っていた。

ナチス政権獲得

ヘスは国会議員に選出され、ヒトラーから自分に次ぐ副総統の地位を与えられ、名実ともにナチスのナンバーツーとなったが、それがヘスの頂点であり、没落の始まりだった。
どうもヘスには権力の使い方が不得手であったらしく、副総統になっても彼は私心なくヒトラーへの忠誠を誓い続け、ひたすらヒトラーを称賛し、ヒトラーの言葉を支持し、ヒトラーの方針に逆らう幹部や党員を糾弾したが、ほとんどそれしかなかったので副官のマルティン・ボルマンに実権を奪われていき、ヒトラーとも疎遠になった。
ヘスはノイローゼ気味になり、しまいには心気症を患った。また、彼は1933年頃から胃や胆石の痛みを訴えるようになっていたが、それらもますます酷くなった

ポーランドとの開戦演説の際にヒトラーはヘスではなく、ヘルマン・ゲーリングを自分の第一後継者に指名しており、ヘスは第二後継者であった。
だが、ヘスの後継者指名は彼の国民的人気に配慮した結果だけしかなかったらしく、ヒトラーはゲーリングに「ヘスが私に代わって務めることがなければいいんだがな。そうなったら気の毒なのはヘスなんだか党なんだか、分からんな」と語ったという。

英国飛行

対英戦が膠着状態に陥っており、ヒトラーは英国との講和ないしは停戦を望んでいたがうまくいかず、ヘスはそのことをよく理解していた。
そんな時にヘスの恩師ハウスホーファーが元気つけようとしたのか「ヘスが飛行機に乗って重要な目的地に旅立つ」「ヘスが大きな城に入っていく」という夢を見たと言われて、ヘスは単独で渡英し、和平を実現することを思いついた。
ヘスは双発のメッサーシュミットをちょろまかし、イギリスの強固な防空網をかいくぐり、グラスゴーへ単身不時着した。
しかしヘスはすべて無断で行っていたので、ナチス・ドイツの公式放送で切り捨てられ、ニュルベルク裁判までロンドン塔に収容されることになった。(現時点でロンドン塔最後の囚人である)

ニュルンベルク裁判

長い虜囚生活でヘスは精神を病み、記憶喪失を訴えていた。
アメリカ軍がヘスをゲーリングやハウスホーファー教授やかつての部下と引き合わせても、ヘスは「知らない」「覚えていない」と主張した。
それを見て同じ被告のゲーリングは酷く衝撃を受け、戦争中に国の役に立てない歯がゆさで狂ったのではないかと推測していた。

しかしヘスに責任能力なしと連合国が判断し、もう法廷に来なくてよくなるだろうと告げられるとヘスは動揺を受けて態度を翻し、「私の記憶は外界に再び反応するでしょう。記憶喪失を装っていたのは、戦術上の理由です」と述べ、自ら記憶喪失ではないことを明らかにして世界中を驚かせたが、その後も終始虚ろな目をし、床に寝っ転がって食事をしたり、運動場で脚を高く上げて行進したり、法廷でヘッドホンの着用を拒否したり、卑猥な言葉をつぶやいたり、公判中に小説を読んだりするなど奇行を繰り返し、記憶は保っていたが正気は失っているのではないかという見解が連合国の裁判官・検事に広まった。

しかし時折見せる理性的な態度に連合国は本当にヘスの精神に異常はあるのかないのか判断できなかったが、そのため戦争初期までのナチスの大幹部であるに関わらず、終身刑が宣告された。有罪宣告からわずか数日後にヘスはドイツ国民に対する声明文を作成。その中で自分のことを第四帝国の総統と記しており、自分が自由になれば救われると書いている。

ルドルフ・ヘスが正気だったのかどうかについては意見が割れており、ニュルンベルク裁判の勝者が敗者を捌くという偽善性を見抜いて狂人のフリをして裁判を貶めていたのだから正気だったのだという意見も存在する。

シュパンダウ刑務所

他の禁固刑を受けた者達と一緒にシュパンダウ刑務所に収容された。
しかし1966年9月30日にシュペーアシーラッハが刑期満了で釈放されると、ヘスはただ1人の受刑者となった。さらに、1981年9月1日にシュペーアが死亡すると、ニュルンベルク裁判の被告としては最後の生き残りとなった。
しばしば家族や政治家、学者たちから減刑嘆願書が国連常任理事国に提出されたが、ソ連の反対によって常に却下された。拒否権を有するソ連が反対を続ける限り、ヘスが釈放される可能性はなかったが、ネオナチによってヘスは「ナチズムの殉教者」として次第に祭り上げられていった。しかし彼自身はネオナチを「正統なナチズムの歪曲や誤解の産物」として嘲り嫌っていたという。

謎の残る死

1987年8月17日、93歳のヘスはシュパンダウ刑務所内の庭に設けられていた避暑用のキャビンにおいて電気コードで首を吊り死亡した。ヘスは以前にも二度自殺を試みていた。ポケットには遺書が残されており、鬱病による首吊り自殺と結論づけられた。しかし、彼の死は自殺ではなく謀殺であり、遺書も偽造されたものだという主張も存在する。
その中で有名なものを2つ挙げると、英国飛行後にヘスと英国首脳部の会談内容ないしはロンドン塔で非人道的な扱いをされていたことを暴露される危険を恐れた英国が暗殺されたという説。
もうひとつが独ソ不可侵条約の秘密議定書以外の秘密協定をヘスが知っており、国際世論がヘスの釈放を求めているの現状で拒否権を発動し続けるのも問題であると判断したソ連が釈放前に暗殺したという説である。

余談

ニュルンベルク裁判において、ヘスは裁判にろくに参加していなかったにも関わらず、最終陳述でやたらとかっこいい演説を行っている。

ヘスは20分以上にわたる大演説(あまりに長すぎてゲーリングが口を挟んでも喋り続け、最終的に裁判長の権限で強制的に止められる)と今までの裁判への無関心さが嘘のような理路整然とした雄弁ぶりを発揮した上で

「私は人生の多くの歳月。我が民族が千年の歴史の中で生み出した最も偉大な息子の下で働くことを許されました。たとえ可能でも、その期間を私の人生から消し去りたいとは思いません。私は義務を果たすことができたと知れて幸せです。
国民に対する、ドイツ人としての、国民社会主義者としての、総統の忠実な側近としての義務です。私は後悔などまったくしていません。なにひとつ! 
もし私がその端緒に再び立ち返るならば、私はこれまで行動したと同じように再び行動するでありましょう。たとえ最後において、私を焚殺する薪の山が燃え盛ると知っていたとしても、そうするでしょう。
人間がたとえどのようなことをしようとも、いつか私は永遠なるもの裁きの椅子の前に立つでしょう。私はその尋問に答え、永遠なるものの前で責任をとるでしょう。そして私は知っています。永遠なるものは私を無罪にするであろうことを」

皮肉にも連合国側はヘスの事を精神障碍者を裁いたと見られて、裁判の信頼を失う要素にはなりえても、ゲーリングのようにナチズム再興させる要素にはなりえないと軽視していたにも関わらず、これらの行為がネオナチに好意的に評価されて崇拝されるようなったのである

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