概要
第三帝国副総統であり、形式上、アドルフ・ヒトラーにつぐ国民社会主義ドイツ労働者党のナンバーツーであった。ヒトラーの『我が闘争』の著述を助けたことや、戦後もニュルンベルク裁判被告の最後の生き残りとして長く生きネオナチのアイドル的存在になっていたことで有名。アウシュヴィッツの所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスとは別人で血縁もない。
出生
エジプトのアレキサンドリアにて著名な貿易商ヨハン・フリッツ・ヘスの長男として誕生。一家はドイツ皇帝の肖像画を家に掲げて、皇帝の誕生日を本国同様に祝うなどドイツ国家への忠誠が強かった。父は厳格かつ権威主義者であったため、ヘスには非常に厳しい反面で母は息子に甘い性格だったとされ、その結果ヘスは軍隊式の環境に馴染む勇敢な人柄とスピリチュアルや神秘主義に傾倒するオタク趣味的な性格が同居するという複雑な人格を持つようになったという。
第一次世界大戦
父からは貿易会社の跡を継ぐことを期待されており、父の勧めでスイスの商業学校に入学し、後にドイツで年期奉公を行っていた。しかし、第一次世界大戦が始まるとヘスはドイツ帝国軍に志願。父は軍への入隊に猛反発したが、ヘスは父の意向に初めて逆らい戦場へ赴いた。
各地の激戦地を転戦し、時には重傷を負い、時には活躍して叙勲を受けるなど戦場では大いに活躍し、少尉にも任官されている。ルーマニアでは肺に銃撃を受ける重傷を負ったが、退院後には航空隊に志願して移籍が認められると猛訓練を受ける。しかし、初出撃の数日前にドイツ帝国が第一次世界大戦に敗北したため、実戦を得る事は出来なかった。
ナチス入党
第一次世界大戦後は、敗戦の原因がヘスは多くの元軍人たちと同様に共産主義者とユダヤ人であると確信しており、反ユダヤ主義・反共産主義に傾倒していった。父の会社はイギリスによって敵性外国人財産と見做されて没収されてしまったため、もはやヘスの政治活動を掣肘するものは無くなっていた。
軍除隊後は大学で勉学に励みながらカール・ハウスホーファー教授の助手を務めた。ハウスホーファーはレーベンスラウム(生存圏)構想を唱えており、ドイツ民族は東欧に進出して大国としての地位を維持するための空間を確保するべきと主張していた。後にヘスを仲介してこの考えはヒトラーにも伝わっており、ナチスの東方生存圏という東欧進出と現地民の殲滅・奴隷化による食料生産地確保するという構想の原因となった。
そんな頃にミュンヘンの酒場でヒトラーの演説を聞いて非常に共感し、ナチスに創立メンバーとして入党。強烈なヒトラー崇拝者に変貌した。
ミュンヘン一揆にも参加したが、失敗が確定するとオーストリアに逃亡。この時は政治活動からも身を引こうとしたが、ヒトラーが裁判で懲役5年というクーデターを仕掛けたとは思えない程度の判決を勝ち取ると自らミュンヘンに赴いて自首。ランツベルク刑務所でヒトラーとヘスは今後の政治活動の方針を練り、ヒトラーの著書『我が闘争』の口述筆記をヘスが務めた。しかも、ただ口述を記述するだけではなく、ヘスもヒトラーに様々な意見を述べていたとされ、ヒトラーからは益々気に入られる。刑期も半年で釈放されるとヘスはヒトラーの秘書官となる。
政権獲得までヘスの地位はヒトラーの個人秘書でしかなかったが、ヒトラーの仲介役と言う立場の影響力は絶大であり、他の幹部と比べても見劣りがない権勢を持っていた。
ヒトラーからは私的には「du(きみ)」と親しい間柄で使用する二人称で呼ばれており、ヘスはヒトラーから一定の信頼は確実に得ていた。しかし、ヒトラーはヘスにイラつく事もあったようで、「真面目だが、時々神経に触る」と側近に語った事もあったという。
ナチス政権獲得
ヘスは国会議員に選出され、ヒトラーから自分に次ぐ副総統の地位を与えられる。形式的にはナチスのナンバーツーとなり、内閣では無任所相の地位を、親衛隊にではヒムラーに接近して親衛隊名誉指導者・親衛隊大将の地位を、他にもナチ党国外組織(AO)総裁に就任するなど権力の絶頂に至る。しかし、それがヘスの頂点であり、没落の始まりだった。
どうもヘスには権力の使い方が不得手であったらしく、副総統になっても彼は私心なくヒトラーへの忠誠を誓い続け、ひたすらヒトラーを称賛し、ヒトラーの言葉を支持し、ヒトラーの方針に逆らう幹部や党員を糾弾したが、ほとんどそれしかなかったので副官のマルティン・ボルマンに実権を奪われていき、ヒトラーとも疎遠になった。
突撃隊粛清事件の長いナイフの夜事件ではヒトラーから事前に粛清計画を知らされる事は無かった。粛清開始時にヒトラーから直接事件に関する連絡を受けたのだが、本人は事前に知らされなかったことに強いショックを受けていたという。また、レームの処刑を自ら名乗り出たが、レーム助命の可能性を考えていたヒトラーから不興を買ったともされる。
ヘスはノイローゼ気味になり、しまいには心気症を患った。また、彼は1933年頃から胃や胆石の痛みを訴えるようになっていたが、それらもますます酷くなった。ヒトラーもこの頃にはヘスを重要な会議に呼ぶことは全くなく、正反対に副官のボルマンが出席していた。そればかりか会議中にヘスの現状を嘲笑うようなジョークをヒトラー自身がネタとして発言していたらしく、もはや完全に権勢と実権を失っていた。
そのため、ヘスの業務は事実上の政府代表としての国民や党員との交流等の形式的な職務しか割り当てられなかったため、副総統にもかかわらず事実上の閑職へと追いやられた。しかし、生活は質素で華美な贅沢を嫌い、金銭欲も強くなく横領とも無縁という潔癖な人柄。そしてこの役目によりドイツ国民と交わる事も多かったヘスは市民からは非常に人気があったため、ヘスの権力失墜は国民には感知されなかった。
ポーランドとの開戦演説の際にヒトラーはヘスではなく、ヘルマン・ゲーリングを自分の第一後継者に指名しており、ヘスは第二後継者であった。
だが、ヘスの後継者指名は彼の国民的人気に配慮した結果だけしかなかったらしく、ヒトラーはゲーリングに「ヘスが私に代わって務めることがなければいいんだがな。そうなったら気の毒なのはヘスなんだか党なんだか、分からんな」と語ったという。
イングランド単独飛行
対イングランド戦が膠着状態に陥っており、ヒトラーはイングランドとの講和または停戦を望んでいたがうまくいかず、ヘスはそのことをよく理解していた。
そんな時にヘスの恩師ハウスホーファーが元気つけようとしたのか「ヘスが飛行機に乗って重要な目的地に旅立つ」「ヘスが大きな城に入っていく」という夢を見たと言われて、ヘスは単独でイングランド横断し和平を実現することを思いついた。
1941年5月10日にイングランドとの和平交渉を求めて、ヘスは双発のメッサーシュミットをちょろまかし、イングランドへ戦闘機で単独横断しスコットランドのハミルトン公爵邸に赴き、イングランドの強固な防空網を奇跡的にかいくぐり、グラスゴーへ単身不時着した。しかし、チャーチルはヘスの単独訪英を知っても全く動揺せず「ヘスだろうが何だろうが、わしはまずマルクス兄弟の映画を見る」と言い放っており、全く重視する事はなかった。結局ヘスは交渉などは一切させてもらえずにイングランド軍に身柄を拘束され捕虜となってしまった。
なお、ヘスがすべて独断で行った反逆罪をナチスも擁護はできなかった。ヘスの件を容認すれば枢軸同盟諸国からは「ドイツがイギリスと単独講和を目論んだ」と疑われる可能性があり、決して行動を容認しなかった。一方ヘスはイングランドにとっても都合が非常に悪い存在で、イングランドがソヴィエトと連合国軍として結託している手前、ヘスの来訪で「イギリスとナチスと裏取引きしているのではないのか」とソヴィエトやアメリカに疑われるのを一番恐れていたので、ヘスはイングランドとの和平交渉に漕ぎ着けるどころか、逆にドイツ・イングランドの両トップ(ヒトラーとチャーチル)から切り捨てられてしまった。そしてニュルベルク裁判までロンドン塔に収容されることになってしまった(現時点でロンドン塔最後の囚人である)。
ヒトラーはヘスの副官からヘス自身の操縦する飛行機でイギリスへ向かった事を知らされると「何ということだ、ヘスがイギリスへ逃走した」と驚愕して叫んだと言われる。ヒトラーは激怒し、協力者であった副官やハウスホーファー教授といった関係者は次々に逮捕されてしまい、ヘスが有していた権限はボルマンによって完全掌握されてしまう。しかし、ヘス親族へは閣僚としての年金は停止されず、ヒトラーは一定の配慮を行っている。しかし、ヘス本人への憤りは残されており、ヒトラーは「ヘスが確保されれば、処刑するか、精神病院へ幽閉する」と公言していた。しかし、敗戦直前にはヘスに関する感情は和らいでおり、「ナチズムにおける生粋の理想主義者」と感慨深げに語っていたという。
ニュルンベルク裁判
長い虜囚生活でヘスは精神を病み、自殺未遂を繰り返しており、裁判前には記憶喪失を訴えていた。
アメリカ軍がヘスをゲーリングやハウスホーファー教授やかつての部下と引き合わせても、ヘスは「知らない」「覚えていない」と主張した。
それを見て同じ被告のゲーリングは酷く衝撃を受け、戦争中に国の役に立てない歯がゆさで狂ったのではないかと推測していた。
連合国はヘスが戦争以前に事実上の権力喪失状態だったことを把握し、上記の様子から責任能力なしと判断。担当者からもう法廷に来なくてよくなるだろうと告げられるとヘスは動揺を受けて態度を翻し、「私の記憶は外界に再び反応するでしょう。記憶喪失を装っていたのは、戦術上の理由です」と述べ、自ら記憶喪失ではないことを明らかにして世界中を驚かせたが、その後も終始虚ろな目をし、床に寝っ転がって食事をしたり、運動場で脚を高く上げて行進したり、法廷でヘッドホンの着用を拒否したり、卑猥な言葉をつぶやいたり、公判中に小説を読んだりするなど奇行を繰り返し、記憶は保っていたが正気は失っているのではないかという見解が連合国の裁判官・検事に広まった。
しかし時折見せる理性的な態度に連合国は本当にヘスの精神に異常はあるのかないのか判断できなかったが、そのため戦争初期までのナチスの大幹部であるに関わらず、終身刑が宣告された。有罪宣告からわずか数日後にヘスはドイツ国民に対する声明文を作成。その中で自分のことを第四帝国の総統と記しており、自分が自由になれば救われると書いている。
ルドルフ・ヘスが正気だったのかどうかについては意見が割れており、ニュルンベルク裁判の勝者が敗者を捌くという偽善性を見抜いて狂人のフリをして裁判を貶めていたのだから正気だったのだという意見も存在する。
シュパンダウ刑務所
他の禁固刑を受けた者達と一緒にシュパンダウ刑務所に収容された。収監中のヘスは内向的で他の囚人と関わる事もなかったとされるが、徐々に精神面での安定を取り戻しており、瞑想等の趣味に没頭していたという。
しかし1966年9月30日にシュペーアとシーラッハが刑期満了で釈放されると、ヘスはただ1人の受刑者となった。そして、1981年9月1日にシュペーアが死亡すると、ニュルンベルク裁判の被告としては最後の生き残りとなった。この頃になるとヘスは特定の敷地内を自由に散歩ができたり、様々な趣味も許されるなど一定の自由を手にしていた。第二次世界大戦の記憶が世界で薄れ始めると家族や政治家、学者たちから減刑嘆願書が国連常任理事国に提出されたが、ソ連の反対によって常に却下された。拒否権を有するソ連が反対を続ける限り、ヘスが釈放される可能性はなかったが、その間もヘスはナチズムを否定する様な心変わりを起こすことは無かったため、ネオナチはヘスを「ナチズムの殉教者」として次第に祭り上げられていった。しかし彼自身はネオナチを「正統なナチズムの歪曲や誤解の産物」として嘲り嫌っていたという。
ナチスはインテリや富裕層、王族や貴族の支持者もいた大衆政党でもあり、ヘス自身も出征した恩典で大学進学を果たした愛国的インテリであった。そんなヘスから見れば勉強も仕事もドロップアウトし、真剣な社会変革を目指さずに傷をなめ合うためだけにナチズムを掲げるネオナチなんぞにリスペクトされても空しいだけだった。
謎が残る死
1987年8月17日、93歳のヘスはシュパンダウ刑務所内の庭に設けられていた避暑用のキャビンにおいて電気コードで首を吊り死亡した。ヘスは以前にも二度自殺を試みていた。ポケットには遺書が残されており、鬱病による首吊り自殺と結論づけられた。しかし、彼の死は自殺ではなく謀殺であり、遺書も偽造されたものだという主張も存在する。
その中で有名なものを2つ挙げると、イングランド飛行後にヘスとイングランド首脳部の会談内容ないし、ロンドン塔で非人道的な扱いをされていたことを暴露される危険を恐れたイングランドに暗殺されたという説。
もうひとつが独ソ不可侵条約の秘密議定書以外の秘密協定をヘスが知っており、国際世論がヘスの釈放を求めているの現状で拒否権を発動し続けるのも問題であると判断したソヴィエトが釈放前に暗殺したという説である。
なお、ヘスの葬儀ではネオナチが大挙して押しかけたため、現場は大混乱に陥った。そのため、埋葬は延期となり後日ひっそりとバイエルン州のヴンジーデルに埋葬された。
しかし、毎年ヘスの命日になるとネオナチがヴァンジーデルに結集して集会を開くため、最終的には墓は撤去。ヘスの遺骨も火葬し、海上に散骨されてしまっている。
余談
ニュルンベルク裁判において、ヘスは裁判にろくに参加していなかったにもかかわらず、最終陳述でやたらとかっこいい演説を行っている。
ヘスは20分以上にわたる大演説(あまりに長すぎてゲーリングが口を挟んでも喋り続け、最終的に裁判長の権限で強制的に止められる)と今までの裁判への無関心さが嘘のような理路整然とした雄弁ぶりを発揮した上で
「私は人生の多くの歳月。我が民族が千年の歴史の中で生み出した最も偉大な息子の下で働くことを許されました。たとえ可能でも、その期間を私の人生から消し去りたいとは思いません。私は義務を果たすことができたと知れて幸せです。
国民に対する、ドイツ人としての、国民社会主義者としての、総統の忠実な側近としての義務です。私は後悔などまったくしていません。なにひとつ!
もし私がその端緒に再び立ち返るならば、私はこれまで行動したと同じように再び行動するでありましょう。たとえ最後において、私を焚殺する薪の山が燃え盛ると知っていたとしても、そうするでしょう。
人間がたとえどのようなことをしようとも、いつか私は永遠なるもの裁きの椅子の前に立つでしょう。私はその尋問に答え、永遠なるものの前で責任をとるでしょう。そして私は知っています。永遠なるものは私を無罪にするであろうことを」
上記の内容にはヒトラーがミュンヘン一揆で逮捕された際の裁判で述べた弁論の一部が引用されており、ヘスが本心からヒトラーを今も崇拝している事を如実に示していた。当然連合国側の心証は悪化し、一時は無罪の可能性まで浮上したヘスは上記の通り終身刑を宣告されるに至った。
皮肉にも連合国側はヘスの事を精神障碍者を裁いたと見られて、裁判の信頼を失う要素にはなりえても、ゲーリングのようにナチズム再興させる要素にはなりえないと軽視していたにもかかわらず、これらの行為がネオナチに好意的に評価されて崇拝されるようなったのである。