勝利の戦車
T-34/85は、第二次世界大戦・大祖国戦争期のソ連製中戦車。
強力なドイツ戦車のティーガーIやパンターに対抗すべく、従来の76mm砲より強力な新型の85mm砲を搭載。大戦後期の1944年からソ連赤軍主力を担った。
ただし、T-34/85の呼称はドイツ軍で用いられたもの。
当のソ連赤軍は76mm砲搭載型と85mm砲搭載型を明確に区別しておらず、後のロシア語圏における資料ではТ-34-85の表記が一般的となっている。
従来型(T-34/76 1943) | T-34/85 |
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火力
主武装の85mm砲は従来のT-34に搭載されてきた76mm砲と比べて大幅に優る対装甲火力を有し、ドイツのティーガーIやパンターが有する100mm級の装甲を射貫可能で、歩兵や対戦車砲など軽装の敵を排除するのに役立つ榴弾火力にも優れた。
ただし、ドイツの7.5cm砲や8.8cm砲といった戦車砲は85mm砲よりも優れた初速・威力を有したため、ドイツ戦車との遠距離戦では不利を強いられることもあった。
- ZiS-S-53 85mm砲の射貫装甲厚(傾斜角+30°の装甲に対して)
弾名 | 弾種 | 初速(m/s)) | 100m | 500m | 1000m | 2000m |
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УБР-365 | 低抵抗徹甲榴弾(APHEBC) | 792 | 97 | 91 | 83 | 69 |
УБР-365К | 徹甲榴弾(APHE) | 792 | 103 | 90 | 75 | 50 |
УБР-365П | 硬芯徹甲弾(APCR) | 1050 | 124 | 100 | 80 | 不明 |
(硬芯徹甲弾は遠距離射撃での威力低下が著しいため、1,000m以遠の砲撃が禁じられていた)
防御力
車体は従来のT-34と同じく傾斜装甲が主体のもの。
一方、砲塔は1943年にボツになったT-43試作中戦車のそれを原型とする新設計のものに変更されており、その正面装甲厚は90mmに達した。
これらの発揮する防御力は、1944年当時のドイツ軍で主流となっていた口径7.5cm以上の戦車砲対戦車砲の火力にさらされれば容易に射貫されてしまう程度のもの。
とはいえ、一方でそれ以下の火砲(5cm砲など)に関してはほとんど完封・無力化することが出来るため、生半可な装備しか持たない二線級のドイツ軍部隊にとっては悪夢のような存在だった。
機動力
出力500馬力のV-2-34ディーゼルエンジンと車重32トンとの組み合わせで発揮される良好な出力重量比に準じて機動力も優秀なもので、最高速度は整地で54km/hに到達。
そこに幅広の履帯とクリスティー式サスペンションとが加わることで、重量級のドイツ戦車が次々と擱座してしまうような泥濘まみれの悪路も走破していくことが出来た。
運用・戦史
1944年1月から量産が開始されたT-34/85は従来型T-34からの生産ライン移行に際する手間のために供給が少ない状態にあり、会敵していたはずのドイツ軍もその存在を把握していなかった。
しかし、1月から3月までの生産数が434輌のところ、生産体制の確立により1944年4月で一挙に月産982輌へ到達。以後は終戦まで月産1,200輌程度が維持された。
冬季迷彩 | パンターを撃破 |
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1944年6月22日、ソ連赤軍はバグラチオン作戦を発動。T-34をはじめとするソ連戦車隊は破竹の勢いでドイツの支配域を突破、以後2か月でソ連領を全て奪還しポーランドに至った。
そして、作戦の終結が近い8月。ポーランドのオグレンドゥフにてドイツ軍は最精鋭の第501重戦車大隊を投入、敵の足止めを図った。
ここで、赤軍第6親衛戦車軍団隷下のアレクサンダー・オスキン中尉は偵察情報から第501重戦車大隊の進撃ルートを予想。
12日に自らが指揮するたった1輌のT-34/85を干し草の中に隠し、13日の朝に当時最強のティーガーII重戦車×3輌と遭遇した。ドイツの戦車隊はオスキン車に全く気付かない...。
IV号戦車 | ティーガーII |
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オスキン車はティーガーIIが至近距離に近づくのを待ってから、硬芯徹甲弾を側面装甲に撃ち込んで1輌を撃破。こちらを察知し堅牢な正面装甲を向けてきたもう1輌も脆弱な砲塔リングへの命中弾で撃破すると、最後のティーガーIIは逃げ出した。
オスキン車はこれを許さず、友軍戦車を呼び寄せて多数でティーガーIIを追い詰め、最終的に背後に回り込んで撃破。
この戦闘だけで3輌の最強戦車を葬ったオスキンは、後にソ連邦英雄の称号を得ている。
エルベ川を越えて | ベルリン |
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1944年中にT-34/85は赤軍戦車隊における数的主力の座を獲得。
東ヨーロッパ全域において対戦車装備に乏しいドイツ部隊を圧倒し、もしドイツの戦車隊や歩兵携行型対戦車兵器・パンツァーファウストによる反撃で数十輌が撃破されても、そのあとで確実に来襲する限りない後続車が数の暴力でこれをすり潰していった。
1945年4月、赤軍は最終決戦たるベルリン攻略を開始。苛烈な市街戦となったベルリンの戦いの最中、T-34を含む赤軍戦車には友軍の誤射を避けるべく砲塔側面に白線が塗装されている。
1945年5月、ベルリン陥落。欧州大戦に終結がもたらされ、その時点までに生産されたT-34/85は18,000輌あまりに達したという。
最終攻勢 | 墓標 |
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1945年8月の大日本帝国への宣戦布告に伴い、赤軍は大量のT-34/85でもって満州へなだれ込み関東軍を圧倒。これに加え、アメリカによる2発の原子爆弾によって大きな衝撃を受けた日本は降伏を決定。翌9月に第二次世界大戦・大祖国戦争は完全な終結を迎えた。
ソ連へ恐るべき死と破壊をもたらした長く苦しい戦いの中、緒戦の敗退から厳しい防衛戦、そして反撃から勝利の瞬間まで、常に前線にあり続けたT-34。
その存在はソ連において大祖国戦争における勝利の象徴として扱われ、現在も旧ソ連諸国には退役したT-34を華々しく飾ったモニュメントが多数残されているほか、かつて戦場となった東欧には未だにT-34の姿を保つ墓標が多数残されている。
戦後
赤軍から再編されたソ連陸軍の主力としては1947年にT-54が実用化。
これに伴い余剰したT-34は東側の各国へと供給され、特に北朝鮮・朝鮮人民軍の装備車は朝鮮戦争の緒戦における猛烈な進撃で活躍したほか、冷戦下の東欧で多発した民衆の暴動弾圧にも用いられている。
また、ポーランドでは1951–55年にかけて1,380輌、チェコスロバキアでは1951–58年にかけて3,185輌がライセンス生産、T-54の供給後はそれらも輸出に回され、中東戦争ではエジプトやシリアがこれらを実戦投入している。
ライセンス生産も含めたT-34/85の最終的な総生産数は30,000輌あまりに達し、従来型と合計するとその数は60,000輌以上に上るという。
その後も20世紀末のユーゴスラビア紛争(1991-2001)に続き21世紀のシリア内戦(2011年-)、イエメン内戦(2014年-)でも実戦投入されており、2025年現在も北朝鮮などの複数の国家で現用となっている。
また、ロシアをはじめとする各国には現役を退きつつも動態状態で保存されているT-34が多数存在するため、今後もその運用歴は続くとみられる。戦士の休息は程遠そうだ。
余談
- 金網装甲
市街戦の写真に写るT-34/85には往々にして謎の金網が追加装甲として加えられているが、これはほとんどが進撃中に辺りの民家から徴収したベッドの基盤。
パンツァーファウストの成形炸薬弾頭を防ぐのに最適だったらしい。