F6Fとは
グラマン社が開発し、アメリカ海軍に採用された艦上戦闘機。愛称は「ヘルキャット」。
頑丈な機体と、2000馬力級エンジンを組み合わせた平凡な設計だったが、太平洋戦争で多大な戦果を挙げた。アメリカ以外にもイギリス・フランスなどで運用された。
F6Fとは『グラマン社で6番目の戦闘機』を表す。「ヘルキャット」は、「意地悪女」「性悪女」の意味。
坂井三郎に『二度と相手をしたくない』と言わしめた戦闘機であり、『最も多く日本機を撃墜した戦闘機』である。(2位は『F4U』、3位は『P-38』である)大戦を通じての対日本機キルレシオは19:1と圧倒的で、日本海軍で対等に戦えたのは紫電改を装備した第343航空隊位であった(と言っても最初の空戦で14:15の戦果を出して以降は負け続きだが)。
ただしこのキルレシオはあくまで米軍側の資料に基づいているため、実際は10:1程度と見られている。
日米問わず当時のどの軍でも空中戦の戦果報告はかなり誇大になりがちで、上述の三四三空の14機という戦果(うち6機は帰還後の損傷破棄などで、撃墜はされていない)も、日本側では「50機以上撃墜の大戦果!」となっている。
米軍がF4F戦闘機隊で用いた戦法「サッチの機織り戦法」は、2機一組で1機の敵戦闘機を相手することを前提にしているため、単純な1対1の比較にはならない。
また戦争後期ではアメリカ側が数でもパイロットの技量でも圧倒したため(日本側にも基地防空砲台やレーダーなど防衛側の有利はあったが)、「キルレシオが19:1だからF6Fは日本軍戦闘機の19倍強い」というわけではない。
日本のパイロット達の間では最も厄介なのはP-47(サンダーボルト)とP-51(マスタング)とされ、恐れられていたのは陸軍機だったようだ。F6Fはその次点だが、艦上機は様々な制約を受けるため、陸軍機と性能を比べるのは少々酷な話である。
世界各国の大戦機を操縦したパイロット、スティーブン=ヒントンからは「第二次大戦の最優秀戦闘機」とも評価された。ちなみに同様の評価はP-51やF4Fの後期改良型・FM-2などにも与えられている。
搭乗したパイロット達にも好評で「料理が出来るなら結婚しても良いくらいだ」と言われたという。
F4Fの後継として
開発
1938年、『F4Fの後継機』として開発が始まった。
1942年1月7日、初飛行の前に1080機の量産が契約され、1941年6月26日には最初の試作機が初飛行した。
もともとは同時に開発が進められていた斬新な設計のF4Uが失敗した時に備え「保険」として開発されており、全体的に手堅い設計で、F4Fの拡大強化版といえる。
しかし軍は設計が固まってから両機のエンジンをカーチス・ライト社のR-2600ツインサイクロン(1600馬力)からP&W社製R-2800ダブルワスプ(2000馬力)に変更するよう指示。ギリギリの機体直径で設計していたF4Uは抜本的な設計の変更を余儀なくされ、その隙に機体に余裕のあるF6Fはさっさと制式採用されてしまった。
R-2800エンジンの大馬力は、設計の手堅さを補ってなお上回る性能をもたらし、同じエンジンのF4Uに絶対的な性能では劣るものの、扱いやすさとパイロットの生還率の高さを武器に太平洋戦争を戦いぬいた。
F4Fで『グラマン鉄工所製』と呼ばれた頑丈さは健在で、パイロット保護のための防弾版や、自動防漏式燃料タンクで身を固めている。防弾版の重量は96kgにもなり、機体構造の頑丈さと相まって日本機を苦しめている。
グラマンお得意の飛行艇や水上戦闘機から発展してきたF4Fと同様の中翼構造を持ち、着陸脚が比較的長いF6Fは着艦失敗時に大重量により脚や尾部が折れる事故も発生したが、胴体の構造は非常に強固な設計となっており無傷・軽傷で済んだ例も多い。
パイロット保護の理念は防弾だけではなく、海上に墜落、不時着した際、その巨大な胴体の空洞内にこれまた巨大な風船を圧搾空気で瞬時に膨らませ、重いエンジンを下にして機体後半を長時間海面に出していられるようになっていた。また機体最後部には発煙筒、信号弾の装備もあった(日本軍機が海上で墜落となればたいてい自爆してしまう)。
日本側の評価
性能でF6Fを上回っていたF4Uだが、当初、日本のパイロットからは与し易い相手と見られていた。1942年2月14日、ブーゲンビル島での日本軍との初交戦では、「セントバレンタインデーの虐殺」と呼ばれる大敗北を喫している。
だが戦中戦後と続いた改良によって性能と、なにより機体安定性が向上したF4Uは艦上戦闘機としてF6Fを凌駕し、戦後も戦闘爆撃機として第一線に留まった。
ちなみにF6Fも大馬力エンジンからなる大きなペイロードを持ち、最大2トン近い爆弾や魚雷、果てはロケット弾(対地用)まで装備した。
対・零戦用戦闘機?
F6Fは設計が古く馬力の劣る零戦に対して有利で、格闘戦・一撃離脱の両方に優れた性能を発揮し、『ゼロ戦キラー』として名を馳せ、日本側から『宿敵グラマン』と認知されることになった。
登場が零戦鹵獲後で、実戦で日本戦闘機を圧倒したことから、F6Fは『対・零戦用戦闘機』と言われる事があるが、零戦を鹵獲したころには既に初飛行も終えている。
F6Fに続くF8Fに与えられるべき称号、と言うのも間違いで、その設計は主にFw190の影響下にあり、そもそもF8Fは「零戦の後継機を圧倒するための機体」である。
なお、運動性には旋回性能、横転性能の二つがあり、
・一方への旋回速度が速い(旋回性能)
・左右への切り返しが速い(横転性能)
のどちらかとなっており、わかりやすく言えば前者は操縦桿を手前に引いた時の動き、後者は操縦桿を横に倒した時の動きである。この二つは相反する要素であり、両立はできない。旋回性能に優れる零戦に対し、F6Fは横転性能=ロール率が優れている。
F6Fは時速400km/h以上では旋回性能も高く、零戦は高速域で舵の効きが悪く旋回性能が劣る。このため、速度を落とさない一撃離脱戦法に徹される限り、零戦はほぼあらゆる性能でF6Fにアドバンテージを取られてしまうこととなり相性が悪い。この点も『二度と相手をしたくない』といわれた要因であろう。
逆に低速域では機体重量による鈍重さが顕在化し、旋回性能が低下するため、日本機の挑発に乗って格闘戦に持ち込まれ返り討ちにあうこともあった。
この機体特性はF8Fにも受け継がれ、格闘性能はF6F以上に優秀だった。だがF8Fが配備された頃には速度においてプロペラ機とは次元の違うジェット戦闘機の時代が訪れようとしており、F6F同様「空戦しか能が無い」戦闘機という事もあって早々退役することとなった。
夜戦戦闘機への派生
のちに夜間戦闘機として改良されたF6F-3NやF6F-5Nも登場。
この時代には珍しい「艦上夜間戦闘機」であったが、なにぶんただでさえ忙しい戦闘機の操縦に加えてレーダーの確認や周囲への警戒、発着艦時の難しさなど、単座戦闘機であることが災いして操縦士の精神力を大きく削るため、稼働時間はどうしても短くなりがちだった。
そうした原因から朝夕の明けきらない時間での警戒飛行に使用されることが多く、本途での戦果は複座機のP-61(ブラック・ウィドウ)に譲っており、それなりに重宝されたもの本機による夜間戦闘の成果は小さい。
主な派生型
XF6F-1
ライト・サイクロンR-2600-10エンジン(1600馬力)を搭載する最初の試作機。1942年5月26日初飛行。
XF6F-2
XF6F-1のエンジンを過給機つきのR-2600-16に換装。のちにR-2800-21も搭載した。
XF6F-3
二段過給式スーパーチャージャーに対応したP&W製R-2800-10「ダブルワスプ」(2000馬力)
を搭載した試作機。テストの結果、この規格で生産が始まる。
F6F-3
F6F最初の生産型で、イギリス向けには「ガネット」という名称で採用される(のちにアメリカ同様「ヘルキャット」で統一)。後期生産機になるとF6f-5同様に増槽や爆弾も搭載できるようになる。
F6F-3E
右主翼にAN/APS-4レーダーを備える夜間戦闘機。
F6F-3N
夜間戦闘機型なのはF6F-3Eと同様だが、こちらはレーダーにAN/APS-6を搭載する。ただし両機種ともレーダー手は同乗せず、扱い難くてあまり役に立った訳ではなかったようだ。
XF6F-4
二段二速加給式スーパーチャージャーを備えたR-2600-27(2100馬力)を搭載した試作機。
F6F-5
改良型のエンジンカウリングや補助翼、コクピットには防弾ガラスを備えた風防ガラスを備え、さらにエンジンには水噴射機構を備えたR-2600-10Wを搭載する最多生産型。装備面では増槽(機体中心線上)や爆弾(増槽の両脇)、ロケット弾(主翼下)も装備可能。
F6F-5N
AN/APS-6レーダーを搭載する夜間戦闘機型。一部には最も内舷の12.7mm機銃を20mm機銃AM/M2に換装した機もあったようである。イギリス向けには「ヘルキャット」NF.Mk2と呼ばれた。
F6F-5P
胴体に偵察カメラを搭載する偵察機型で、少数のみ改造された。イギリスでも同様の経緯で偵察機に改造された「ヘルキャット」FR.Mk2がある。
XF6F-6
水噴射機構を備え、2100馬力を発揮するP&W製R-2800-18Wを搭載する試作機。F6Fの中では唯一4翅プロペラを装備する。
FV-1
F6Fの生産がカナダ・ヴィッカース社に提案された時、生産機に与えられるはずだった型番。実現せず。
退役
太平洋戦争終結後、装備部隊はF4Uに改編されたり、またはさらなる新型機を装備すべく再編成された。F6Fの現役は1954年までで、朝鮮戦争にも参加しているが、戦闘機ではなく爆薬を搭載した無人機としての使用である。
英国に供与(レンドリース)されたF6Fは買い取りを避けるため海中投棄されたりと、戦争を生き抜いても悲惨な最期を迎えた機体もあった。
しかし、兵器に肝心なのは必要な性能を持って、必要な時に、必要な数を満たすという点に他ならない。
F6Fは目論見通り、着艦性能に難があるF4Uの“保険”として穴を埋め、余りある活躍を見せた本機は“兵器”として役割を全うした立派な“名機”と言える。
日本ではよく「烈風が間に合っていれば……」と語り草になるが、そもそも「間に合わなかった」という点で、勝負にすらなっていない。
F6Fはイギリス、フランスなどにも供与されている。全高がF4Uよりも低く、格納庫の高さに制限のあったイギリス海軍の装甲空母とは相性がよかった。
大戦後のフランス海軍では継続して運用され、インドシナ戦争に投入している。
その他ピンチヒッター
F6FはあくまでF4Uの保険のはずが、主力艦載戦闘機になってしまった。
似たような事例としては、
F4F:本命とされたF2Aを差し置いて第二次大戦初期の主力となる。
P-40:本命とされたP-39が活躍できず、P-36を液冷化したP-40が第二次大戦初期の主力となる。(P-39はソ連にレンドリースされ大活躍)
P-51:当初アメリカ本国では注目されず、売却先のイギリスでロールスロイス製エンジンを搭載。第二次大戦後期の主力となる。
Fw190:Bf109の補助戦闘機のはずが、もう一方の主力となる。
IV号戦車:本命のIII号戦車がソ連戦車に通用せず、歩兵支援用から対戦車用に廻され、主力戦車となる。
紫電改:場当たり的に零戦の後継機にされた迎撃戦闘機。雷電はコレジャナイ、烈風も幻に終わり、これだけが唯一まともだった。とはいえ、その生産数は450機ほど。更に実戦に供された機体はその八割程度である。正式採用から数週間後にはその次の世代の主力機の開発が検討されていたので、当事者からも『烈風が完全になるまでの中継ぎ選手』と見なされていた節がある。実際に同機が挙げた戦果はわずかともされるが、『零戦がカスに見える能力を持っていた』事は確かなようで、日本海軍最強の撃墜王『岩本徹三』も『ゼロ戦はもう限界だ。新鋭の紫電改が欲しい…』と嘆かれている。
などがある。