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曖昧さ回避

  1. 実在した、大日本帝国海軍の軍人。
  2. 平野耕太の漫画「ドリフターズ」の登場人物としての1。

プロフィール

性別男性
生年月日1892年8月17日 - 1942年6月6日
生誕地東京市小石川区

概要

山口多聞とは、大日本帝国海軍軍人である。

山口家の祖先は戦国時代北陸の武将で関ヶ原の合戦で加賀大聖寺城で討死した山口宗永まで遡ることができる。

「多聞」という名前は、楠木正成の幼名「多聞丸」に由来する。大元は戦神・毘沙門天の異名の多聞天より。


旧松江藩士の山口宗義の三男として生まれ、海軍兵学校を経て大日本帝国海軍の軍人となった。兵学校は次席で、海軍大学校は首席で卒業したエリート。水雷学校高等科学生の課程を履修している。


第一次世界大戦では第二特務艦隊に属し地中海での連合国艦船護衛の任にあたった。


日中戦争では、蒋介石政権を壊滅させるため、中華民国の臨時首都である重慶戦略爆撃である重慶爆撃を決行。絨毯爆撃の主張に各国の大使館があるので慎重な態度を見せた。当初は護衛戦闘機がないまま爆撃機を出撃させたため大きな損害を出し人殺し多聞丸と呼ばれた(後に航続距離の長い零式艦上戦闘機が投入され護衛をつけられるようになった)


太平洋戦争初の戦いであるハワイ海戦では南雲機動部隊隷下の第二航空戦隊司令官として空母蒼龍を旗艦に参加した。

その後、南方海域での緒戦で戦果を挙げた後、1942年ミッドウェー海戦では飛龍を旗艦として参加、赤城加賀・蒼龍の三空母が撃破されたのち、飛龍単艦を率いて孤軍奮闘したが、アメリカ軍の攻撃を受け飛龍もまた大破、雷撃処分の際に加来止男飛龍艦長と共に退艦を拒否し、1942年6月6日飛龍と運命を共にした。


エピソード

  • ハワイ海戦は当初の作戦では航続力の問題から山口が指揮する二航戦の飛龍、蒼龍は真珠湾攻撃には出撃せず、搭載機とパイロットだけ加賀、翔鶴、瑞鶴に預ける案だった。(赤城と共にフィリピン方面の作戦に投入が検討されていた。他には、一航戦と二航戦の4隻で行う案もあった)これを知った山口は「厳しい訓練を課した部下と飛行機だけ戦わせて、母艦と一緒に残されては部下に会わす顔がない。作戦後は置き去りにしてくれて構わない」と反対し、飛龍と蒼龍(と赤城)の出撃が決定した。石黒参謀によると、航続力延伸のため、船体強度の問題でなかなか決まらなかった艦底の空所を重油タンクに改造する案も山口少将が「責任は自分が採る」と言って実行が決まったという。
    • 一部の著書で、ハワイ海戦で攻撃隊が空母に帰還した時、山口が司令長官の南雲忠一に対して再出撃の意見具申を行ったと書かれる事がある。しかし幕僚らの証言によると、山口は「第二撃準備完了」と暗に出撃を催促する信号を送りはしたものの、再攻撃を望む参謀やパイロットに対して「南雲さんはやらないよ」と返し、意見具申までは行わなかったと言う。(二航戦の石黒通信参謀によると山口司令官が第二撃をやってもらいたいと切実な気持ちで信号を送った状況を見たとの証言もあるが、信号は形式に則って発信したもので第二撃の意は無かったとする説もある)
      • 戦史叢書では山口少将の第二撃の意見具申の話は真珠湾攻撃から帰還する際のミッドウェー島攻撃の意見具申の話ではないかとしている。(連合艦隊司令部より飛行艇や潜水艦の拠点となっていると思われるミッドウェー島攻撃の命令があったが、天候不良のため南雲司令部ではミッドウェー島攻撃を断念した。山口少将はミッドウェー島に近づけば天候が回復する可能性があるとしてミッドウェー島攻撃を意見具申した。また、飛行機で「赤城」へ向かい直接話そうとしたが、天候不良によりできなかったという)
    • 山口少将が真珠湾の米軍地上施設(燃料施設や修理施設)を反復攻撃により徹底的に叩くべきと提案したのは、作戦中ではなく、作戦前の図上演習や会議の場のことである。石黒参謀によれば反復攻撃の意見具申はかなり行っていたそうである。結局この提案は採用されず、奇襲成功後、直ちに艦隊は引き上げる計画に決まった。山口が「南雲さんはやらない」と零したのはこれらの経緯から反対される事を知っていたからだった。
      • 石黒参謀によると山口少将は真珠湾攻撃後、北方に退避する際、翌日の再攻撃の意見具申をしたという。この意見具申は燃料補給の問題により採用されなかった。山口少将は作戦室で「補給後、補給部隊は内地へ直行、再補給後に機動部隊に合同。機動部隊はハワイへ第二回攻撃を行い、帰途に補給部隊が合同するまでに相当西方(南方諸島の西側)に離隔できるので必要ならば漂泊してもよいのではないか」と言っていたという。ただ、石黒参謀によれば冗談のように言われたとしているので本気で考えていたのかは定かではない。この考えを聞いた石黒参謀は、「無暴な行動のように思えるが、ハワイと米本土の交通線は遮断され、修理補給施設も破壊されており、空母部隊が残存していたとしても行動力はわれと同様に再補給の必要がある。きわめて論理的である」と考えたようである。
  • ミッドウェー海戦では、2度目の艦載機の兵装転換をせずに「現装備のまま攻撃隊直ちに発進せしむを正当と認む」と主張するも、護衛につける機体がいないことや帰還した攻撃隊の収容などから又も南雲忠一に拒否され、その結果日本空母は兵装転換中に攻撃を受けるという致命的なミスに繋がった。もし山口提督の進言が聞き入れられていたら、また違った戦いになっていたかもしれない。
    • その時装備していたのは対地用の爆弾だった為、威力不足で撃沈出来ずに無駄に攻撃隊が全滅していた可能性も考えられるが、アメリカ海軍歴史センターの所長(当時現役)の様に「護衛がついてなくても全滅することはなかったと考えられる。陸用爆弾でもアメリカ空母には多大な損害を与えたと思う」と考えた人もいるのも事実である。
    • そもそも山口も対地用の爆弾で空母を撃沈できると期待してはいなかった。「飛行甲板を使用不能にするくらいできる」と言う考えで、一度の全力攻撃による敵の撃沈に拘って出撃を遅らせてはならないと言う進言だった。
    • 2度目の兵装転換のエピソードが有名なため隠れがちだが、実はその1時間前、最初の兵装転換命令(対艦船攻撃用の装備がしてあった艦載機を、対地攻撃用に兵装転換した命令)が出された時も南雲中将に対して「敵空母出撃の算あり。考慮せられたし」と進言していた。2度目の兵装転換後の山口の進言は、たとえ聞き入れられたとしても、そこから日本側が勝利するには難しいタイミングだったが、最初の兵装転換後の進言が聞き入れられていたら、勝利の可能性はまた違っていた。山口少将が敵空母出撃の算ありと判断した理由については襲来した敵機の中に単発雷撃機を確認したためとされる。南雲司令部では5時55分ごろに利根1号機からの「敵編隊が艦隊へ向かった」との連絡を受け、6時40分ごろに襲来すると予想。この敵編隊はミッドウェー島との距離からミッドウェー基地からの来たものと判断した。
  • また、ミッドウェー海戦では日本軍の一段索敵は不十分であり、敵空母の発見が遅れたが、ミッドウェー海戦の出撃前日に開かれた作戦会議の場で、山口は一段索敵では索敵機数が足りないと主張し、改善を求めていた。
    • セイロン沖海戦中から索敵機が足りないと進言していたとの証言もある。アメリカの歴史学者ゴードン・ウィリアム・プランゲは南雲司令部が偵察機の増加をためらうようになった理由の一つとして「インド洋作戦で(セイロン沖海戦)で複数回偵察機が機位喪失したため艦隊が電波を出し艦隊位置を明らかにした」と著書で述べたが、千早正隆によるとプランゲはインド洋作戦でそもそも南雲機動部隊が敵軍に待ち伏せされていた事や、日本艦隊で索敵の不備が発生していた事を見落とすなど、インド洋作戦の研究が不十分であるとの指摘がある。ただ、真珠湾から離脱する際、南雲機動部隊は四方300海里に総勢24機の捜索機を飛ばした後、予定行動の変更を行った際に多数の帰還不能機がでたため、やむを得ず長波輻射を行い更に警戒を続ける必要になったという話はある。
    • 南雲機動部隊首脳部や索敵計画担当の参謀長によれば、索敵の改善要請を退けた理由は「敵空母が攻略作戦中に現れるとほとんど考えていなかった」、「索敵機を増やすには戦闘用の機体を偵察用に割かねばならなくなる」であったと言う。海戦後、彼らは「密度の濃い索敵とするべきであった」と反省の弁を述べる事になった。
  • 航空機部隊の鬼教官としても知られ、その恐ろしさから「人殺し多聞丸」やら気○い多聞丸」など、エライ言われようだったとか。どれだけ怯えるかと言うと、当時の海軍の花形は戦艦であり、その矜持もあって苛烈な訓練で知られていたが、戦艦乗りでさえ空母の訓練にはドン引きしたほど。
    • ただしこれほどの訓練を課したからこそ南雲機動部隊は太平洋最強の航空部隊となり得たのであり、実際彼の没後日本海軍の航空部隊は凋落の一途を辿っている(もっとも、日米の戦力差を考えると戦争の長期化に伴う航空部隊の損耗は必然であり、山口が生きていても没落は避けられなかったと思われるが)。
    • ミッドウェー海戦が命令された時、当初、山口は太平洋のアメリカ艦隊を撃退できると乗り気だったが、兵隊の訓練が進んでいないことを理由に結局は反対した。厳しい訓練を部下に課した事で有名な山口だが、根性論者ではなかった。
  • 航空機や空母運用に精通している様に書かれる山口だが、その経歴の通り元々は航空畑の出身ではなかった。中国戦線で多くの被害を出して「人殺し多聞丸」の汚名を被った事がある様に、当初は全くの素人だった。ミッドウェー海戦などで高い評価を受けるようになったのは、航空機部隊の将官として相応しくなるよう本人が学習と努力を重ねた結果である。
    • 部下に求めたのと同様に、自身も常に向上のための努力を忘れない人物だった。ハワイ海戦、セイロン沖海戦の大勝利の後も、山口は現状に満足せず、作戦研究会で日本航空艦隊の編成について新しい構想を提案していた。
    • 1942年2月に宇垣少将や大西少将らに兵力整備などについて意見具申書を提出しており、主な内容は、航空機は大型機(爆弾搭載量2トン以上の大型爆撃機)300機、中型機(陸攻)3000機、遠距離戦闘機300機、零戦4000機、艦攻1000機、艦爆1000機などを昭和18年度末までに整備。艦艇は、搭載機数99機の空母12隻、潜水艦300隻、防空艦50隻などを建造するというもので、作戦進行についても1943年1月までにハワイを攻略することを目標にしており、その後は状況によりパナマ運河の破壊、米西海岸空襲、ドイツと協力し南米を枢軸陣営に引き込む、カリフォルニア油田地帯の占領、カリフォルニア州から基地航空隊による都市や軍事施設への攻撃など壮大なものだった。
    • 南雲機動部隊は、セイロン沖海戦においても帰還した攻撃隊への補給中に敵機の襲来を受けるミスを犯していたが、山口はそれを教訓として、二航戦の空母で兵装転換にかかる時間を調査し、兵装転換にかなりの時間が必要になると言う結論を南雲司令部に報告して指揮の改善を促した。それと同時に、不測の事態にも対応できるよう、二航戦で兵装転換の猛訓練を積んだ(・・・が、この訓練はミッドウェー海戦の1ヶ月前に海軍で人事異動があったため、空振りに終わってしまった)。
  • かなりの大食いとしても知られた御仁。
    • ご飯のおかわりは平常運転。(当然だが、量は軍人向けで一般人なら一膳で満腹になるレベル)
    • 戦艦大和に招かれた際、大和自慢のフランス料理のフルコースを平らげて「美味いが量が少ねぇ」と苦言を呈した。(無論、量は軍人向けで、しかも烹炊所は事前に山口の招待を知って最初から量を増やして提供している――のだが、ご覧の有様である)
    • 海軍学校からの同期である五十嵐恵と二人で料亭に行った際、注文した料理が四人前も来てしまったことがある。五十嵐も軍人としてそれなりに食うのだが、五十嵐はその前に一食上がっていたため、注文を確認。しかし横から多聞は「俺が三人前食うつもりだったんだ、勝手に減らすな」と言ったらしい。もちろん全部平らげた。
      • 発言通り「3人前食べるつもりで注文した」とも取れるが、一方で「料亭側の注文ミスをフォローするため助け舟を出した」という見方も出来る。料亭にとって料理の誤発注は、店の信用と厨房の運行に支障をきたすので、もしそうなら店側も大いに助かったに違いない。
  • 女好きで有名であった山本五十六とは対照的に、かなりの愛妻家であり、戦地から数百通のラブレターを贈っている。
    • また、乗員退艦時に妻へ贈り届けるよう乗組員に託した軍帽は、親族の厚意もあり現在は広島県江田島市にある第一術科学校 教育参考館に保存されている。
  • 昭和18年当時連合艦隊司令長官であった山本五十六の移動計画を知り、抹殺すべきかどうかを判断するためアメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツが部下のレイトン情報参謀に「日本には彼以上に優れた指揮官はいるのか」と尋ねたところ、レイトンは「日本には山本よりも優れた優れた指揮官が一人いる。山口多聞という男だ、だが彼はミッドウェーで戦死した。だから山本と同じぐらい有能な指揮官は日本にはいない。」と返したという。(ニミッツ提督の伝記やレイトン参謀の回想録にはこのレイトン参謀の発言は書かれておらず、実際のやり取りは不明な所があるが、回想録の山本長官撃墜を検討する箇所で「彼(山本五十六)に取って代わる人物はいなかった。山口少将はミッドウェー海戦で「飛龍」とともに沈んだ。」とレイトン参謀は山口少将を評価していたともとれる記述がある)アメリカ海軍の太平洋戦争戦史を編修したサミュエル・モリソン元アメリカ海軍少将は、「彼(山口多聞)は卓越した司令官で、連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の後継者に豫定されていたと言われる。」と記している。
  • 相撲好きでもあり、伊勢艦長時代、兵員鍛錬の一環として取り入れられた相撲の為に甲板上に本格的な土俵を作らせる程であったという(他の艦では精々マット敷きの土俵を用いていた程度)。
    • でっぷりとした巨漢だが、運動神経は非常に高く、大抵のスポーツは得意だったらしい。軍隊に入り、将官に出世した後も、登山行軍で若い兵士が疲れる中、山口は元気に山を登って行ったと言う逸話がある。
  • 1921年には駐在員として、1934年には大使館付き武官としてアメリカのワシントンに滞在していたこともあった。アメリカに関する資料を収集しており、アメリカ海軍の砲術年報や演習計画書などの情報の入手に成功している。
    • その中で山口多聞大佐(当時)は諜報戦に遭うこともあった。山口大佐が遭った諜報戦は資料により内容に差異がある。
      • 第二次大戦中に米海軍情報部に4年間勤務し、調査と研究の主任をしていたラディスラス・ファラゴの著書によると、1935年7月、山口大佐は繰り返される事務所の停電に困っていた中、ザチィアリアス中佐(資料によってはザカリアスやザカライアスとも表記される)に招かれた。ザチィアリアス中佐とは親しい仲で互いに相手を出し抜き、知恵を見せようとしていたという。山口大佐が幕僚全員とザチィアリアス中佐宅の夕食会に出席している間に停電が発生。(当時の事務所には護衛を兼ねた運転手と暗号手を兼ねた従兵のみがいた)従兵が受付に連絡し電気工が二人やってきたが、彼らは海軍情報部の人間で修理と同時に暗号室を捜索しており、得られた情報はザチィアリアス中佐が希望した要素すべてを含んでいたとされる。大前敏一大尉が遭った諜報戦(女性と会っている間に海軍情報部の人間に手提げ鞄を調査された)の情報と合わせてアメリカは暗号機の再製に成功し、機械によって作成された暗号電報を解くことが可能になったという。
      • ザカリアス少将の著書によると、目的は日本人たちが無線送信機を操作しているのかや無線受信機を持っているのかを調べるために計画され、調査の結果、通信関係の仕事はマサチューセッツ通りの大使館で行われていると確信したとされる。調査の際にはその部屋にある電気設備や壁など「すべてのもの」が調べられたという。
      • レイトン参謀の回想録(レイトン参謀自身は執筆中に死亡しており、残されたノートやメモを元に他の人が引き継いで完成した)によると、1935年7月、武官がザカリアス中佐の夕食会に招かれている間に、ホルトウィック大尉とマグレガー通信士が電気屋に扮し、ビルを捜索したが、暗号機に類するものは影も形もなかったという。そのためホルトウィック大尉は自身の発明の才能とドリスコル婦人の暗号解読技術の支えにより、暗号機に近いものを設計。これは日本海軍の機械暗号を解読するのに役立った他、別のチームが日本の暗号機の設計に取り組むようになり(暗号機の再製のことだと思われる)、それにより作り上げた機械が当時の日本外務省が暗号化に使用していた機械と非常によく似ており、36年までに東京の外交電報を定期的に読むことが可能になったという。
  • ロンドン軍縮条約時には山口中佐(当時)は妥協案が提示された時には山本五十六少将(当時)と共に激しく反対したという。妥協案は補助艦全体の保有比率が対米6.97割とほぼ7割に近く、軽巡や駆逐艦の比率も対米7割あるなどの内容だったが、山本少将は主力艦が制限されている中、準主力艦の重巡の比率が対米6割となっていることと潜水艦の保有トン数が7万8000トンから5万2700トンへの大幅削減は防衛力の危機と論じたとされる。山口中佐は艦隊派の考え方をしていたが、政治的な問題には関わらないようにしていたという。

第一連合航空隊

山口少将は1940年1月に第一連合航空隊の司令官となった。この人事には大西少将や山本長官が関わっているとされ、海軍の空軍化促進のため山口少将を航空界へ転じさせたとされる。

4月末には鹿屋航空隊と高雄航空隊の人員に日華事変の早期解決の重要性を話し、重慶政権打倒の決意を示したという。


第一連合航空隊は101号作戦のため5月11日に漢口に進出する予定だった。漢口進出前に地上員などには休暇が出たが、搭乗員には休暇中に事故などに遭い重要な作戦に影響が出ると困るという連合艦隊からの通達があったらしく休暇が出なかった。搭乗員からの話でそれを知った山口少将は搭乗員にも休暇を出した。

5月には第一連合航空隊と第二連合航空隊から連合空襲部隊が編制され、山口少将が統一指揮を執った。

5月中旬に重慶の蒋介石政権制圧を目的とした101号作戦が開始された。作戦には陸軍も協力し、第三飛行集団が参加した。

山口少将は剛勇で、猛将と言われる大西少将が宥め役に回るほどだったという。

山口少将は作戦時に「重慶政権を崩壊せしめるため、第一連合航空隊が全滅することもあえて辞せず」と訓示した。


6月ごろに攻撃隊が天候不良で引き返すことがあった際には攻撃の実行に努めるように下令した。(背景には攻撃中止の決断が早すぎる例もあったことが影響しているとされる)

6月の漢口でのクラス会では、山口少将は中央からアメリカなどの施設に爆弾が落ちることはないようにせよと指示を受けており第三国権益に爆弾が落ちないように慎重に行うことを話し、大西少将は絨毯爆撃を話した。最終的に喧嘩が起きたがすぐに仲直りしたという。

巖谷二三男大尉によると当初は攻撃は飛行場と軍事施設に向けられていたが、重慶市街に相当数の対空砲があり、味方の被害が増大する状況になり、作戦指導部は遂に市街地への爆撃を決意、地区別に絨毯爆撃をかけることになったとしている。この時、第三国権益の存在が問題になったが、できる限りそれらを避けることにして、6月10日頃から市街への爆撃が開始されたという。

日本軍は第三国権益に被害が出ることに注意を払っており、6月中旬に海軍は外務省を通じて重慶の南方対岸以南に安全地帯を設けるので、作戦終了まで第三国人はそこに退避するように勧告したという。日本軍は前年に重慶爆撃を行った際も第三国権益に爆弾を落とすことは避けていたとされる。


7月には山口少将が攻撃隊に同行することがあったという。金子義郎大尉によれば、山口少将に「どんな爆撃を展開しているかこの眼で確かめたい」といわれたとされる。帰路にはカレーが振舞われ、山口少将は大機嫌だったという。

炎暑の中の連日攻撃の疲労で病人が出始めたときには7月11日から三日間の攻撃休止が行われ、搭乗員の休養と機体の整備が行われた。

第三飛行集団の情報には7月上旬には流入物資の減少により物価は著しく騰貴している等陸海軍攻撃隊による影響が書かれており、第三飛行集団が入手したユーピー電(UP通信社?)やその他の情報によれば当時の重慶は建築物の2割が完全倒壊し、8割が損害を被るなどの状況だったようである。

中国側に新型戦闘機が配備され高度8000メートルで陸攻隊を待ち伏せるようになった。山口少将は立ち直る余裕を与えないため攻撃を続行しようとしたが、大西少将は一週間待てば護衛戦闘機を付けられると攻撃の延期を提案した。この時は大西少将の意見が通り攻撃が延期された。

7月15日または21日に零戦隊が到着したのだが、まだ解決できていない問題などもあり戦力化はまだ先という状況であった(この頃の零戦にはGがかかると脚が出たり、20mm機銃から弾が出なくなるなどの問題があった)。

なるべく早く護衛戦闘機を付けることは山口少将も望んでおり、田口参謀によれば「山口、大西両司令官はしきりに戦闘機隊の出撃を督促した。」と回想しており、零戦隊の横山保大尉は「両司令に二回も呼び出され督促された」と回想している。

余談だが、6月末頃に宜昌飛行場に九六式戦闘機を進出させる案が海軍側から考案されたが、対岸高地からの砲撃で宜昌飛行場は使用できなかったという。

101号作戦終了後の9月15日には宜昌基地が使用可能になり艦攻なども攻撃に参加するようになった。


8月19日には零戦隊が出撃を開始した。

8月ごろに第15航空隊で病気が流行り飛行隊長も罹患した際、山本大佐は搭乗員などに罹患者が多く攻撃力の持続が不可能と判断、1週間の攻撃中止を申し出たが、山口少将はこの申し出は不可とし、攻撃続行を主張したという。この時は大西少将が説得を行い、最終的には1週間の攻撃中止が行われた。


9月5日に101号作戦は終了した。101号作戦終了後、第一連合航空隊は帰還したが、重慶などへの爆撃は他の部隊により続行された。

秋ごろに零戦隊の横山大尉は大西少将に重慶への単機偵察を命じられ、状況を確認しに行った。重慶市街は廃墟と化していたが、第三国公館などがある南方対岸は無疵だったという。


11月、山口少将は第二航空戦隊の司令官となった。


5月中旬~9月初旬まで行われた101号作戦での統計表では海軍の損害は次のようになっている。


海軍

戦闘機による被弾機数 231機

高角砲による被弾機数  81機

自爆機数        8機

戦死          54名

行方不明        16名

戦傷者         29名


101号作戦統計表では重慶への攻撃だけでも32回、使用延べ機数は1737機(101号作戦経過概要では1737機の内、陸軍機は283機としている)となっており、重慶以外の都市への攻撃の使用延べ機数は1121機となっている。

作戦期間中の海軍の自爆機数は8機、海軍より攻撃回数や使用延べ機数が少なかった陸軍の自爆機数は8機(爆撃機5機、偵察機3機)となっており、先述の山口少将が中国戦線で大きな被害を出したという話は、101号作戦全体で見ると疑問が残る話でもある。

陸攻隊は6月に5機が撃墜されるなど最も被害が出ており、この時期を指した話なのだろうか?


創作における山口多聞

艦隊これくしょん

艦船擬人化SLGなので直接登場はしないが、正規空母飛龍軽巡洋艦五十鈴がその存在に言及している。

二人とも彼を乗艦させたことを誇りとしており、特に飛龍はMVP獲得時に必ず「ねぇ多聞丸、見ててくれた?」と想いを馳せているため、飛龍の旦那もしくは父親といった見解をする提督も多い。


【落書き】飛龍さんと多聞さん

多聞丸と艦これの飛龍さん。


ドリフターズの山口多聞

ミッドウェー海戦に敗れ、飛龍が大破・航行不能に陥っていたところで、漂流物(ドリフターズ)の一員として、紫によって飛龍ごとドリフ世界に招かれた。

世界を越えてからはグ=ビンネン商会に客員提督として遇され、艦載機の代わりにグリフォンを率いた航空戦術でオルテ帝国を悩ませている。

なおグ=ビンネン商会は飛龍に使用されている技術にも着目しているらしく、飛龍を模して建造し、「飛鷹」「隼鷹」と名付けた二隻の木造空母=鷹母(ようぼ)の運用も行っているようである。


ちなみにドリフ世界に呼ばれ、グ=ビンネン商会に世話になり始めてからも山口は陸の住宅ではなく大破したまま近海に停泊している飛龍で寝泊りしており、その中で「なあ飛龍よ、大日本帝国海軍は俺とお前だけになっちまったなあ」と飛龍に語りかけており、後に菅野直スキピオ・アフリカヌスと合流した際に菅野に他の乗員について問われた際、「誰もいない。死体も残ってない」と答えていることから、上述エピソードで共に退艦を拒否した加来艦長ほか、ミッドウェーでともに戦った飛龍の乗員で飛龍と運命を共にした者は山口以外ドリフ世界に招かれなかった模様。


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ドリフターズ

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