酸素魚雷
さんそぎょらい
魚雷の歴史は1864年までさかのぼることができる。オーストリア=ハンガリー二重帝国海軍将校の依頼によってイギリス人のロバート・ホワイトヘッドという人物が自走式魚雷を完成させたことに端を発する。こうして魚雷が誕生し、当初30年間はタンクの中に貯め込んだ圧縮した空気でスクリューを回すという冷走(冷式とも)という形式を取っていた。しかしこの方式では航続距離(魚雷の射程距離)はタンク内の圧縮空気に大きく依存していた。つまり圧縮空気がある分だけしか進まないのだ。
これを解決すべく日露戦争前後に現れたのが乾式と呼ばれる形式だった。この方法はタンク内の圧縮空気を調整装置で適度に減圧し節約しながら送りだす。このままだと力が弱いままなので石油やアルコールを噴射、点火して空気の体積を増やし、この熱気をレシプロエンジンないしタービンに送りこんでスクリューを回し動力とする方法であった。乾式魚雷ができたことで魚雷の航続距離は飛躍的に伸び、冷式魚雷の約2倍の航続距離を確保することが可能となった。その後熱気に水を噴射し水蒸気でタービンを動かす湿式と呼ばれる方式も登場し、魚雷の航続距離はさらに伸びて行った。
簡単にいえば空気を効率よくケチることができるようになったのだ。空気をケチれるようになり空気タンクのスペースを減らして炸薬の量を増やせるようになり、航続距離は長いままに魚雷の威力を上げることが可能となったのだ。実例を上げると第一次世界大戦の魚雷で速度は約30ノットから35ノット、航続距離は最高5000m程度にまで伸びたのである。
イギリスはネルソン級戦艦ロドニーに酸素推進の魚雷を搭載し、試験を行った。
その情報に、当時、世界最強のネルソン級戦艦と世界最強の魚雷の組み合わせに、そうなったら、そりゃもう無敵じゃね、と脳裏を妖しく刺激されたある組織があった。
やがて最強戦艦と最強魚雷のセットは、その相性の悪さに忘れられていったが、世界最強の魚雷への想いは続き、やがてその組織は「この空気を全て酸素にしてしまえばいいんじゃね?」と思い始めた。その組織こそ、そう日本海軍である。
日本海軍もまた、魚雷の開発を進めていた。魚雷の重要な要素であった空気は前述の通り、魚雷を進める動力源から魚雷を進めるために燃焼させるだけのものとなった。となると後はどれだけ燃えるか、となったのだ。燃えるために必要なものは酸素である。となればタンク内には酸素だけ入れればよい、という発想である。これで同じタンク容量でも4倍から5倍の大きさのタンクに圧縮空気を詰め込んだのと同じこととなった。つまり炸薬の量を大量に増やすことができるようになったのだ。これにより魚雷の威力はもちろん、航続距離も飛躍的に上昇し、航続距離は20,000mから25,000m(速度を調節し酸素を節約すれば約40000m先の敵も狙えたと言う。この射程距離は戦艦大和の主砲に匹敵するものであった。)まで伸びた。そしてかつ馬力も上がり魚雷自体も50ノットに到達するなどスピードもかなり上がった。(他国の魚雷を例にとるとほぼ同時期に開発されたアメリカのMk.15魚雷で最高速度は45ノット、最長航続距離が13,600mと酸素魚雷がいかにバケモノ性能かがわかる。)さらに酸素を燃焼した際に発生する二酸化炭素は排出されてもすぐ水に溶けるために雷跡(魚雷の走った後できる跡)が敵に視認されにくいというメリットもあった。(今までの魚雷は圧縮空気を使っていたため、空気中の窒素が水に溶けず雷跡がくっきり出てしまうのだ。)かくしてイギリスに続く酸素推進魚雷、そして世界初の純酸素推進魚雷、九三式魚雷が日本海軍によって開発されたのである。
これを元に、潜水艦用に直径を縮めた『九五式魚雷』が開発されている。しかし整備性が悪いため、環境劣悪な潜水艦ではあまり好まれなかった。このためか、攻撃機用の航空魚雷は実用化されていない。また、人間魚雷「回天」は九三式魚雷の機構を利用している。
別名ロング・ランス(Long Lance、長槍)。戦後にサミュエル・モリソンがつけてくれたニックネームだった。
各国も研究を行ったが危険性とメンテナンスの困難さから断念し、実用化にこぎつけたのは日本以外では前述のようにイギリスのみであった。そのイギリスも、純酸素ではなく、酸素を増加した、空気魚雷と酸素魚雷の中間のようなものである。
超長射程・ステルス性・高威力と、まさに世界最高水準の魚雷だった九三式魚雷なのだが、実際これが大々的な戦果を残したという記録はあまりない。
……というのも、米海軍の魚雷が「当たっても起爆しない魚雷」(潜水艦用のMk.14魚雷は1943年9月に改善型が配備されたが、駆逐艦用のMk.15魚雷の改善型配備は1944年前半になってからとする説もある)だったのに対し、九三式魚雷は「当たる前に起爆してしまう」という真逆の性質を持っていたからである。
これは九三式魚雷が接触式信管の信管調整機能を有していたことに由来する。要は「敵艦にぶつかった衝撃で起爆する」訳なのだが、海軍は「ちゃんと起爆しなかったらどうしよう」と疑心暗鬼にかられてしまい、信管調整を過敏に設定してしまったのである。
真ん中は無いんですか、真ん中は……(汗)
もっとも第二水雷戦隊参謀だった人物は、爆発尖は使用時以外取り出せず、水雷科員は爆発尖の調整法など教育されておらず、爆発尖試験器は水雷戦隊旗艦にしかなく、艦内で爆発尖調整など出来る筈が無いと反論している。
また、実戦で使用してみると、当然ではあるが遠距離の敵には狙ってもほとんど当たらず、長すぎる射程は無意味と分かった。
この長射程があだとなって僚艦を誤爆したり、狙った標的と別の大物に命中しちゃったりと、ネタのようなことを何度かやらかしていたりする。
また容易に発火・爆発する危険性がありメンテナンスが難しく、普通の魚雷のように魚雷発射管に入れたままにする事が出来ず、高速性はこの魚雷の価値を上げると共に早すぎて磁気感応の爆発尖を付けれない面もあった。
ただし、威力に関しては本物であり、一発で駆逐艦なら真っ二つ、二発で重巡洋艦が大破・撃沈、数発も当てれば戦艦すら撃沈せしめると言われる程の絶大な破壊力を誇った。
ここまで日本軍が魚雷に情熱を燃やしたのは、小型艦が大型艦に致命傷を与えられる手段であること以外にもひとえに第二次大戦期の日本軍の財布事情と関係があり、「撃てば終わり」の他の兵器に比べ、演習の際、炸薬さえ抜けば回収して再利用可能な魚雷は、海軍の懐にとってとても優しい武器だったりする。