事故概要
1889年7月14日、当時のオスマン帝国海軍の軍艦エルトゥールル号は、提督以下650人の使節団を乗せイスタンブールを発ち、インド洋沿岸の各国に立ち寄りながら、翌年6月横浜港に到着。明治天皇へ親書を捧呈した後9月15日に横浜港を出港し、帰国の途へ向かっていた。
ところが、翌16日夜和歌山県串本沖を航行中、台風に遭い座礁。650人の内提督を含む587人が死亡するという大惨事になった。
エルトゥールル号の来航は、松宮彰仁親王が当時のオスマン帝国皇帝(スルタン)アブドゥルハミト2世に明治天皇の親書を捧呈したことへの返礼の意味合いで、友好親善が目的だった。長い航海で船は損傷し、日本では多くの乗員がコレラに見舞われたため、乗組員の消耗は限界に達していた。そのような状況を見た日本側が台風の時期をやり過ごすように忠告したが、海軍の弱体化を隠したいアブドゥルハミト2世は出航を強行させ、台風に遭遇したものである。このように遭難は人災の側面が強かった。
嵐の中の救出劇
事故後、生存者が崖をよじ登って近くの樫野崎灯台に駆け込んで灯台守に助けを求めたが、互いの言葉がわからない為、国際信号旗を介して灯台守は生存者がエルトゥールル号の乗員である事、そして艦に起きた事態を把握した。灯台守の知らせを受けた近くの大島村の住民たちは、暴風雨の中総出で救助活動と介抱を行い、村の学校や寺に運び乗組員達に着物を着せたり、残り僅かだった自分達の食料を与えるなど献身的に看病し、結果69人が生還した。翌朝、事故の知らせを聞いた大島村の村長は神戸の外国公館に乗組員を神戸の病院に搬送する手配を要請。合わせて、和歌山県を通じて日本政府に連絡。これを聞いた明治天皇は心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示した。また、新聞各紙が大々的に報じ、全国から弔慰金や義捐金が送られた。
遭難者の帰還と後日談
助かった69人は一旦東京へ向かい、事故から20日後の10月5日にコルベット艦「比叡」と「金剛」(いずれも、艦これのモデルになった「金剛型戦艦」の先代)に乗り帰国。翌年1月2日イスタンブールに到着した。オスマン帝国本国でも、この事故を引き起こしたアブドゥルハミト2世の責任を隠蔽するという思惑もあり、美談として大きく取り上げられた。
エルトゥールル号来航の目的であった日本との修好関係樹立に向けた交渉はその後もなんども行われたが、結局頓挫した。日本とオスマン帝国の国交樹立がなされなかったのは、日本側が不平等条約の締結(治外法権の保証)を要求したためである。
当時の日本は脱亜入欧を標榜し、当時の先進国(帝国主義国家)の一員となることを目指しており、他のアジアの国と対等外交を結ぶと(欧米並みの)「世界の一等国」ではなくなると考えたのである。第一次世界大戦では、両国はオスマン帝国が参加した同盟国と連合国(日英同盟による)として敵同士となり、トルコとの間で国交が結ばれたのはオスマン帝国崩壊後(トルコ共和国成立)後の1925年になってからだった。国交締結の年ではなく、この事件が日本トルコ修交の起点としてしばしば言及される背景にはこのような大人の事情があったりする。
ただし、最悪の関係となった第一次大戦中にも、日本軍艦がトルコ軍捕虜をギリシャ軍から死守して祖国に送り届けるなど、わずかな友情が確認されている。この艦長であった津村諭吉中佐はトルコで敬愛され、ツムラユキチ通りという地名となっている。
95年越しの恩返し
事故から95年後の1985年にイラン・イラク戦争が勃発。この時、当時のサダム・フセインイラク大統領は「48時間後にイラン領空にいる外国機を無差別攻撃する」と宣言した。
各国政府はイランにいる自国民救出のため、飛行機を首都テヘランに派遣させた。しかし、日本政府は国内事情から(当時自衛隊機の海外派遣は法的にも出来ず、超法規的措置をしようにもそこまで飛べる自衛隊機もなかった)自衛隊機を派遣出来なかったうえ、日本航空も安全が担保出来ないとして臨時便を出さず、外国の航空会社も「自国民優先」の立場でチケットを持っていても飛行機に乗せてもらえず、テヘランにいた日本人215人が孤立する事態になった。
- 現在は法改正により、外国で有事が発生し在留邦人を国外脱出する場合が発生した場合は、在外公館から相手国の許可を取った上で政府専用機や護衛艦を派遣することが出来る。
これに対し、トルコ大使は在イランの日本大使に「私たちはエルトゥールル号の時の恩を知っています。今こそ恩返しさせていただきます」と伝え、トルコ政府の要請を受けたトルコ航空機(マクドネル・ダグラス DC-10、TC-JAY、機体愛称「イズミル(Izmir)」)によって215人全員が無事脱出し、トルコ経由で日本に帰国した。
この時、飛行機がイラン領空を脱出したのは攻撃約1時間前という間一髪のところだった。
なお、当時の在イラントルコ国民は、陸路でイランを脱出している。
自分たちが危険を冒してまで日本人に空路を譲ってくれたのである。
エルトゥールル号事件は、あくまで日本で起きたから日本が救出するのはある意味当然と言える。しかし危険地帯にいる外国人を見捨て自国民を優先してもおかしくはない。
しかし、トルコは日本人を優先して助け、それに納得して譲ってくれたのだ。
恩返しというよりもはや日本が恩を受けているとすら言える。
極東の島国と、中東の大陸国家。
漢字表記すれば日と土。
何もかもな真逆な二つの国が、互いに相手国の国民を助け合ったのだ。
これからの日土関係の益々の発展を期待したい。
そして1990年、「日本トルコ修交100周年」切手が日土両国で同時発行された。
余談
- 事故後、串本町には犠牲者を悼む慰霊碑が建てられ、5年に一度町と在日トルコ大使館合同の慰霊祭が行われ、2008年には初めて大統領が参加した。
- トルコの事故にもかかわらず本国に記念碑がなかった為、1972年に串本と対になる慰霊碑がメルスィン市に建てられた。これは第二次世界大戦中に沈没したトルコ軍艦の慰霊碑を兼ねていた。このとき、日土友好を期して日本政府も建立に出資したため、「トルコの災害に外国が記念碑を建てた初の例」として記録されている。
- オスマン帝国へ生存者を送り届けたコルベット艦金剛(初代)と比叡(初代)の名は、2代目の金剛型戦艦「金剛」と「比叡」に受け継がれているが、実は彼女達はヴィッカース社にオスマン帝国から発注された戦艦「レシャド5世」をベースとして、ドレッドノート以降の設計を組み込んで製作されている。
- 直接の関連は無いかもしれないが、2011年に起きた東日本大震災の際、トルコからの義援隊が外国からの義援隊の中で最も長く留まって救助・復興作業を行っていた。そして、2023年のトルコ・シリア地震では真っ先に日本の自衛隊が先遣隊の輸送機に空輸できる手術台やエックス線写真機材等の医療器材をトルコへ輸送している。(要検証)
- 遭難および日土友好から125年が経過し、テヘランの救出劇から30年が経過した2015年には、両国合作で映画『海難1890』が制作された。
- 日本人救出劇の主役となったトルコ航空は上記の「海難1890」公開を機に、エアバスA330-200型機の一つ(TC-JNC)に1985年当時使われていた塗装を復刻。また当初の名前「Bursa(トルコの都市名)」から機体名の改名まで行い、この機体にはエルトゥールル号が散った場所の名にちなんで「Kushimoto(串本)」という新たな名が授けられた。この串本号は当初はイスタンブールと関西国際空港を結ぶ路線などに投入されており、機材更新や新型コロナ禍に伴い後に日本路線からは退いたものの、改名から9年経った2024年時点でも今だ現役で活動している(トルコ航空公式プレスリリース)。
関連タグ
ノルマントン号事件: この事件の真逆版とも言える事件。日本人に対する扱いが明るみになり、「不平等条約撤廃」に関する国民の機運が高まった。