概要
1609年(慶長14年)9月に起こった事件で、当時スペイン領だった中米メキシコを目指して太平洋ルートを進んでいた際に暴風雨に巻き込まれて難破した「サンフランシスコ号」「サンアントニオ号」「サンタアナ号」の三隻のうち、サンフランシスコ号が千葉県御宿海岸沖に座礁した事から始まる。
※サンタアナ号は現在の大分県のあたりに漂着。サンアントニオ号はアカプルコを目指して航海を継続した。
乗員・乗客373名のうち50人程の溺死者を出したものの、残りはサンフランシスコ号から脱出したスペイン人が現地の日本人を発見した事で、御宿海岸周辺の住民より残った317名に衣類や食料が供給された。また同地を治めていた本多忠朝の命により、事故から1ヶ月程の間、近隣の村民による援助が続いた。
サンフランシスコ号には、当時スペイン領だったフィリピン総督のドン・ロドリゴが乗船していた為、本多忠朝は時の将軍徳川秀忠と徳川家康に使いをだし、ドン・ロドリゴは江戸で徳川秀忠に謁見した後、駿府の徳川家康の元へと向かった。
徳川家康に謁見したドン・ロドリゴは、当時67歳の徳川家康についての感想を記録にこう残している。
- 徳川秀忠ほど色は黒くなかった。
- 徳川秀忠より太っていた。
メキシコとの貿易を画策していた徳川家康は、三浦按針に洋船サンブエナベントゥラ号を建造させた。座礁から1年後にドン・ロドリゴ一行は、田中勝介ら22名の日本人を載せて出港。その後無事にアカプルコに入港した。
※その1年後に、スペインからの正式な使節としてセバスチャン・ビスカイノが家康のもとを訪れている。またその際、田中ら22名も帰国した。
江戸時代初期と言う事、そして公式には鎖国政策を実施していた江戸幕府がメキシコとの交易を模索していた事を表にだせなかったと思われる為か、この事故は日本国内では全国的に広まる事はなかったが、メキシコでは語り継がれ、明治時代初期に海外を歴訪した岩倉使節団もこの遭難事故の話を聞かされている。
サンフランシスコ号の遭難時における日本人の献身は、メキシコの親日感情に大きく影響し、明治維新後初めて対等の条約を日本が結んだ相手はメキシコだった。メキシコとの条約締結は、それまでにむすばれていた不平等な条約改正の追い風となった。
その後
1928年(昭和3年)。サンフランシスコ号が漂着した御宿海岸に日・西・墨の交流発祥の地を記念した記念碑と記念塔が建立された。現在は「メキシコ記念公園」となっている。また御宿町はアカプルコと姉妹都市の協定を結んでいる。
第二次世界大戦時には日本とメキシコは敵国同士となった。
しかしメキシコではアメリカの様に日本人・日系人が収容される事はなかった。
そして太平洋戦争終結後、国連の席で日本との講和締結をメキシコは進言。その後、連合国と日本の間で締結されて日本の主権が回復し、メキシコがまっさきに批准した条約がむすばれた場所は
だった。
関連タグ
- メキシコ
- 海難事故
- エルトゥールル号遭難事件 ※明治時代におきたエルトゥールル号の海難事故。その際の日本人の対応がサンフランシスコ号の時とよく似ている。