浦風型駆逐艦「浦風」
浦風型駆逐艦の1番艦。日本海軍の発注により1915年英国ヤーロー社で竣工。基準排水量810トン。
2番艦「江風」がイタリアに売却されたため、浦風型は事実上浦風単艦であった。
1936年7月1日除籍、船体は横須賀海兵団の練習船として使われる。1945年7月の空襲により浸水着底。戦後解体。
陽炎型駆逐艦「浦風」
陽炎型駆逐艦の11番艦。1940年12月15日藤永田造船所にて竣工。基準排水量2033トン。
太平洋戦争開戦時には南雲機動部隊・第十七駆逐隊として真珠湾攻撃に参加。その後もウェーク島攻略、ラバウル攻略、ダーウィン空襲、ジャワ島攻略、セイロン沖海戦などの太平洋戦争の要となった戦いに多く参加した。ミッドウェー海戦にも参加し、その際には空母「飛龍」の救援を行った。その後空母「瑞鶴」を護衛しキスカ島攻略にも参加。その後は南方の戦闘に参加することが多くなり、ガダルカナル島への輸送作戦とガダルカナル島からの撤退作戦のどちらにも参加している。
幾多の激戦をくぐり抜けた「浦風」だったが、レイテ沖海戦後の1944年11月21日、日本本土へ帰投の途上、台湾海峡で米潜水艦「シーライオン」の雷撃を受ける。戦艦「長門」を狙ったが外れた魚雷が「浦風」に命中、瞬時にして轟沈した。第十七駆逐隊司令・谷井保大佐、艦長・横田保輝少佐以下、乗組員228名全員が戦死。救助が遅れたこともあって、浦風の沈没地点の海面には何も残されていなかったという。
1945年1月10日除籍。上記の初代「浦風」に先立つ結果になってしまった。
「浦風」を撃沈した「シーライオン」は戦艦「金剛」も同時に仕留めており、「金剛」の救助に同じ艦隊にいた「磯風」と「浜風」が向かってしまい、同じく艦隊にいた「雪風」も「長門」と「大和」の護衛に回ってしまったことが、救助の遅れた原因といわれる。