竣工~1943年まで
本艦は大日本帝国海軍が運用していた陽炎型駆逐艦の2番艦。2代目にあたり、これ以前にも東雲型駆逐艦「不知火」が存在した。
太平洋戦争開戦時には、同型艦「陽炎」、朝潮型駆逐艦「霞」「霰」と共に阿武隈を旗艦とする第一水雷戦隊第十八駆逐隊に属し(軍隊区分。正式の所属は第二水雷戦隊)、南雲機動部隊の警戒隊として行動した。この時に陽炎型姉妹艦4隻(谷風、浦風、浜風、磯風)で編制された第一水雷戦隊第十七駆逐隊と行動を共にしており、共にハワイ作戦(真珠湾攻撃)に参加した。
後にラバウル攻撃に従事時、オランダ商船「モッドヨカード」と遭遇し、これを撃沈。だが第一水雷戦隊司令官「大森仙太郎」少将からは「射撃距離が遠すぎる。弾薬を節約せよ」とお叱りを受けた。
1942年4月20日に第18駆逐隊は第二水雷戦隊に復帰。(第17駆逐隊は新設の第十戦隊に転属。)
6月のミッドウェー海戦に那智を旗艦とした第五艦隊所属として参加。横須賀から水上機母艦「千代田」、「あるぜんちな丸」の護衛としてキスカに向かったが、キスカ島沖で濃霧のため仮泊中に米潜水艦グロウラーの雷撃を受け第十八駆逐隊は霰撃沈・霞大破でほぼ壊滅。不知火も艦橋付近を切断する大損傷を受けた。これにより十八駆司令官「宮坂義登」大佐は責任を取って自決し、第十八駆逐隊は解隊した。
ちなみに陽炎は修理中で無傷であったため、第二水雷戦隊第十五駆逐隊に編入される。だが1943年5月8日のコロンバンガラ島への輸送作戦に参加中に米軍の機雷により沈没、一挙に隊は全滅する。それを受けてネームシップが移行し、「陽炎型駆逐艦」の名称は「不知火型駆逐艦」に改定された。
戦没まで
1944年に第五艦隊所属第一水雷戦隊第九駆逐隊に編入。「霞」を旗艦とし、「薄雲」「白雲」を僚艦とした。だが出撃前に米潜水艦トートグに「白雲」が撃沈され、結局3隻体制となり、第九駆逐隊は第十八駆逐隊に改称された。
6月21日、サイパン島殴り込み作戦に備え、探信儀装備工事及び機銃・レーダーを整備し対潜性能を強化。だがマリアナ沖海戦で空母機動部隊の壊滅を受け、殴り込み作戦は実施前に中止された。
以降は輸送船団の対潜哨戒任務に投入されるも、そこで「薄雲」が米潜水艦スケートに撃沈され、ついに第18駆逐隊は「不知火」、「霞」の2隻となってしまった。
10月25日、レイテ沖海戦において志摩艦隊に属し、西村艦隊に続行してスリガオ海峡に突入。だが先行した西村艦隊はすでに「最上」「時雨」を残して壊滅しており、「不知火」達はスリガオ海峡で真っ二つになって炎上する戦艦扶桑を視認し、撤退。
10月27日、レイテ沖海戦で損傷した「鬼怒」の救助に向かったが発見できず、代わりにセミララ島の浅瀬へ擱座した「早霜」を発見。先方の警告を無視して沖合1000メートルに停止して救助活動を開始するが、作業を始めた直後、案の定敵機が来襲。不知火は急いで離脱を図ったものの、速力が上がらないままに艦中央部へ爆弾が直撃。爆発と同時に大火柱が噴き上がり、全艦猛火に包まれつつ真っ二つに折れて轟沈するという凄惨な最期を遂げた。
余りに凄まじい爆沈であったためか、第18駆逐隊司令、艦長以下乗組員全員が脱出する暇もなく戦死を遂げたとされる。
他方、鬼怒の乗組員はこの時すでに大発により救助されていた。
それから73年後の2017年。
不知火の艦名は、日本海軍の後継組織にあたる海上自衛隊の最新鋭護衛艦「あさひ」型の2番艦「しらぬい」として受け継がれた。
関連項目
不知火(艦隊これくしょん)、不知火(アズールレーン)・・・擬人化キャラクターについてはこれらの記事を参照。