日露戦争の時代に存在した初代霞については、暁型駆逐艦を参照のこと。
朝潮型駆逐艦「霞」の概要
本艦は浦賀船渠で建造され、1939年6月に竣工した朝潮型駆逐艦の9番艦。「霞」の名を持つ駆逐艦としては2代目にあたる。
就役とともに第18駆逐隊に編入され、太平洋戦争開戦時は同僚の霰や陽炎型駆逐艦の陽炎・不知火と共に機動部隊の護衛として数多くの作戦に参加している。
1942年6月28日、キスカ島沖にて濃霧で仮泊中に米潜水艦SS-215グロウラーの奇襲攻撃を受けて霰は轟沈、自身と不知火も大破という大損害を被る。
海軍内からは司令駆逐艦であった霞に対する非難の声が上がり、散々陰口を叩かれ続けた。
結果、霞に座乗していた第18駆逐隊司令宮坂義登大佐は責任を取って切腹自殺を遂げた(と最近まで思われていたが、最新の資料整理により、司令が座乗していたのは不知火であり、自決するも一命をとりとめ、内地で終戦を迎え、天寿を全うしていたことがわかった)。
この事件により第18駆逐隊は解隊となり、霞も修復後は悪化していく戦場の中、地味だが重要で過酷な輸送作戦などに従事する事となる。
レイテ沖海戦から戦没まで
戦況の悪化に伴い、1944年のレイテ沖海戦より再び水雷戦隊に編入。
第二次多号作戦において、一水戦を率いて輸送任務を輸送艦一隻のみの損失で成功させる。
その沈没する輸送艦の救助に旗艦自らが向かい、伴艦の艦長は甚く感銘を受けたという。
同12月26日、帝国水上作戦最後の勝利となった礼号作戦では重巡洋艦足柄を差し置いて旗艦を務めた。
これらの時の司令官が「帰ろう、帰ればまた来られるから」の名言で知られる木村昌福少将である。
この時の木村少将はミンドロ島の米軍上陸拠点攻撃成功後に他の艦へ帰還を指示し、霞と共に海域に留まって轟沈した清霜の乗員救出を敢行、感銘を受けた他艦の命令無視による防戦行動によって多くの乗員を救出して、無事帰還している。
その後、北号作戦の完部隊の一員として、戦艦伊勢などとほぼ無傷で内地にたどり着き、奇跡の作戦成功を果たす(途中で戦艦日向から燃料補給を受けようとした時に日向と衝突して、霞は軽微ながら損傷した)。
米艦載機の猛攻に対し奮戦したが被弾によって航行不能となり、4月7日、僚艦冬月の最初で最後の雷撃によって処分された。
奇しくも、この冬月の艦長は霞の前艦長であり、総員退艦時には霞乗組員は彼のことを艦長と呼んだとか。
関連項目
大淀(軽巡洋艦):礼号作戦に参加した軽巡洋艦。こちらは呉空襲で擱座するも終戦を迎えている。
夕雲型駆逐艦:旧日本海軍の駆逐艦において、朝潮型で試験的に採用された交流電源はこの夕雲型から本格採用された。霞とともに礼号作戦に参加した朝霜は16番艦、清霜は最終19番艦。