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陽炎(陽炎型駆逐艦)

かげろう

旧日本海軍が運用していた陽炎型駆逐艦のネームシップ。

※下記以外の用例は→陽炎

2代目「陽炎」の説明

本艦は舞鶴海軍工廠で1937年9月に起工、1939年11月に竣工した陽炎型駆逐艦の1番艦。
実は2代目で、先代に東雲型5番駆逐艦「陽炎」がある。
竣工ののち同型艦「不知火」、朝潮型」「」と共に第18駆逐隊に編入された。

太平洋戦争開戦時には第17駆逐隊と共に機動部隊の警戒隊に属し、真珠湾攻撃、ラバウル攻撃、ポートダウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦、セイロン沖海戦に参加した。

ミッドウェー海戦の攻略隊の護衛として参加後、整備と補修のために呉にて入渠。だがその間に属していた第18駆逐隊が米潜水艦「グロウラー」に壊滅的打撃を与えられたため、解隊。偶然入居中で無傷だった「陽炎」は陽炎型4隻(黒潮親潮、早潮、夏潮)からなる第15駆逐隊に、撃沈された「夏潮」の補充として編入された。

ガダルカナル島の戦いでは陽炎型6隻(嵐、萩風、陽炎、浦風、谷風浜風)と共にガダルカナル島上陸作戦を支援。その後、駆逐艦5隻(旗艦/睦月弥生江風、陽炎、磯風)でガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地を砲撃。ただしこの砲撃の成果は殆どなかったとされている。またこの時、米潜水艦1隻の撃沈を報告している。
その帰路において第二水雷戦隊の旗艦「神通」が米爆撃機の攻撃によって大破。二水戦司令官「田中頼三」少将は傍に居た「陽炎」に移乗し、「陽炎」を一時的な第2水雷戦隊旗艦とした。その後「陽炎」は燃料不足の「海風」を率いてショートランド泊地へ向かい、そこで二水戦旗艦を重巡洋艦「衣笠」に移した。
その後はガダルカナル撤収作戦、鼠輸送などに参加した。

第三次ソロモン海戦では、戦艦霧島と戦って敗走中の米戦艦サウスダコタに遭遇するが、陽炎は当初霧島ではないかと疑って発砲しなかった。
識別信号を送っても返事がなく、そうこうするうち1000メートルまで近づいてようやく米戦艦だと判明したが、すでに魚雷の射点を過ぎてしまっていた。
(主砲を撃てばよかったとも思えるが、見境なく乱射して回った「夕立」が例外なのであって、駆逐艦の主砲のような豆鉄砲を大型艦に撃つという発想はそもそもなかったそうである)
陽炎は慌てて反転して後を追ったが、辺りに硝煙が厚く立ち込めていたため見失ってしまっている。

ルンガ沖夜戦では輸送隊として参加、ドラム缶投入のため速度を落としていたという不利な条件を覆し、「長波」「黒潮」「涼風」らとともに米重巡1隻撃沈、3隻大破の大戦果をあげた。
さらに陽炎はこの時、撃沈した敵艦めがけ探照灯を照射して戦果確認という荒業をやってのけている。

1943年にコロンバンガラ輸送に参加し、その第1、3、5陣として兵員や物資を輸送を担当した。だが5月7日の5陣の時点ですでに航路は米軍に察知されており、航路上に機雷を敷設されてしまう。そしてそれに気づくことなく、「陽炎」「黒潮」「親潮」の第15駆逐隊3隻は触雷。「黒潮」はそのまま沈没し、残る二隻は航行不能に陥る。そこに米軍の航空攻撃部隊が殺到したが、荒天のためにこの時は損害軽微ですんだ。
しかし二隻はその後漂流し、ブラケット水道の西口にて相次いで沈没。第15駆逐隊はその日の内に全滅してしまった。
生存者はコロンバンガラ島の陸軍によって救出され、死者18名を除いた海軍兵618名と陸軍兵153名が生存したという。

関連項目

陽炎型駆逐艦 睦月型駆逐艦 白露型駆逐艦 朝潮型駆逐艦
夕雲型駆逐艦 川内型軽巡洋艦

陽炎(艦隊これくしょん) 陽炎(アズールレーン)

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