陽炎型駆逐艦4番艦。
艦名は、千島列島から北海道・東北沖を流れる海流「親潮」(別名 千島海流)に因む。南シナ海から日本列島南岸沖を流れる黒潮(日本海流)と対になる海流である。
日本艦艇の「親潮」としては初代であり、2代目に海上自衛隊初の単艦建造潜水艦「おやしお」、3代目におやしお型潜水艦「おやしお」がある。
舞鶴海軍工廠で1938年3月29日に起工。同年11月29日に進水。1940年8月20日に竣工。呉鎮守府所属となり、同時期(1940年8月31日)に同時竣工した同型艦「早潮」「夏潮」と共に第15駆逐隊を編成する。
1940年11月15日、第15駆逐隊は第二艦隊第二水雷戦隊に編入。同時に第16駆逐隊に所属していた姉妹艦「黒潮」が第15駆逐隊に編入され、第15駆逐隊は「夏潮」を旗艦とする「親潮」「黒潮」「早潮」の陽炎型4隻編制となる。
1941年12月8日に太平洋戦争が開戦。親潮ら第15駆逐隊はダバオ、ホロ攻略作戦に参加した。それ以降、メナド攻略作戦、ケンダリー攻略作戦、アンボン攻略作戦、マカッサル攻略作戦、クーパン攻略作戦、ジャワ南方機動作戦と歴戦。
1942年2月8日、輸送船団護衛中に第15駆逐隊旗艦「夏潮」が米潜水艦「S-37」に雷撃され航行不能となる。「親潮」が護衛する中で「黒潮」による曳航が実施されたが、天候の急変や被害認識の甘さによりこれ以上の曳航は不可として「夏潮」は奮闘むなしく2月9日に自沈。陽炎型はじめての喪失艦となった。その後第15駆逐隊は旗艦を「親潮」に変更し、作戦を続行する。
3月15日、夏潮が沈没したスラウェシ島を出港し呉まで空母「加賀」を護衛。
4月18日の太平洋戦争初となる本土空襲「ドーリットル空襲」に対する反撃に参加するも戦果は空振り。その後第15駆逐隊はフィリピン、カガヤン攻略作戦に参加。
5月10日、第15駆逐隊はマニラを出港し、大破修理のために本土回航中の空母「翔鶴」及びその護衛駆逐艦「夕暮」「漣」と合流、5月17日呉軍港に到着。
6月上旬、ミッドウェー海戦に際してはミッドウェー島占領部隊輸送船団の護衛を担当。水上機母艦「千歳」の護衛任務に就いた。
7月にはペナン沖で対潜警戒活動を実施。
7月5日、アリューシャン方面作戦に従事していた第18駆逐隊が米潜水艦「グロウラー」によって壊滅させられる事態が起こる。第18駆逐隊で唯一、偶然修理のために別行動で無事だった陽炎型1番艦「陽炎」は15駆に編入する事になり、7月20日付で第15駆逐隊は陽炎型4隻編制(親潮、黒潮、早潮、陽炎)となった。ただし「陽炎」自体は別任務などで別行動することが多かった。
8月7日以降、第15駆逐隊3隻(親潮、黒潮、早潮)はガダルカナル島の戦いにおける輸送作戦『鼠輸送』に従事する。ちなみに編入されたはずの「陽炎」は第二水雷戦隊旗艦「神通」の護衛として別行動中。
10月13日、戦艦「金剛」「榛名」ら第三戦隊を中心としたガ島ヘンダーソン飛行場基地に対する艦砲射撃に参加し、成功を収める。その後は南太平洋海戦に参加。
11月中旬の第三次ソロモン海戦では第二水雷戦隊の旗艦となった僚艦「早潮」と共には輸送船団11隻を護衛して作戦に参加。だが米軍機の空襲により輸送船10隻喪失、輸送船1隻大破という大損害を受けて作戦は失敗した。
11月24日、ニューギニア島のラエ輸送作戦にも参加したが、僚艦「早潮」がB-17型爆撃機の空襲を受けて沈没。
11月30日、ルンガ沖夜戦に参加し勝利を収めるものの、この夜戦にて夕雲型駆逐艦「高波」が航行不能に陥る。ただちに「親潮」「黒潮」が救援に向かうも米艦隊の接近に邪魔され、撤退。「高波」は自沈処置を行うも、直後に撃沈されてしまった。
12月3日以降、何度かガ島へのドラム缶輸送に参加するも、失敗。
1943年1月3日、度重なる輸送作戦失敗の中、親潮は機関故障により作戦を離脱。当時二水戦旗艦を務めていた「黒潮」を残し、「陽炎」と共に9日から特設水上機母艦「山陽丸」を曳航する給油艦「鶴見」を護衛してショートランド泊地を出発。17日にトラック泊地に到着し、1月17日からトラックで機関応急修理を受ける。
2月1日、応急修理を終えた親潮は「箱崎丸」を護衛してトラック泊地を出発し、2月9日に呉へ到着。2月21日には空母「隼鷹」を護衛していた第15駆逐隊(陽炎、黒潮)が呉に到着し、合流を果たす。さらに呉工廠において3月22日まで本格的な修理を実施した。
4月4日、駆逐艦「漣」「響」「黒潮」と共に空母「大鷹」「冲鷹」、重巡「鳥海」を護衛して横須賀を出発。途中で米潜水艦「タニー」の襲撃を受けるもこれを撃退。10日にトラック泊地に到着して後は周辺の対潜掃蕩を実施し、4月24日附で親潮ら第15駆逐隊は白露型駆逐艦「海風」と共に南東方面艦隊に編入され、26日にラバウルへと向かった。
1943年4月下旬にコロンバンガラ輸送が実施され、親潮は4月29日の第一回、5月3日の第三回に参加。ただしこの作戦は同じ航路を繰り返し使用した上、航路の安全確保を行っていなかったためにアメリカ軍に察知され機雷を敷設されてしまう。そうとは知らず、5月7日に第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)はブインから第五回の輸送に出発。
無事に輸送を終えて帰還者と共に帰路に付く途中、まず「親潮」が触雷、航行不能に陥る。これを潜水艦の襲撃だと勘違いした「陽炎」「黒潮」はすぐさま対潜警戒をするも、続けざまに触雷し全隻航行不能となる。特に黒潮は当たりどころが悪かったのか、あっという間に沈没してしまった。直後にそれを待ち構えていたアメリカ軍の航空隊に襲撃されるも、これをなんとか退ける。だが破損状況は芳しく無く、親潮はしばらく漂流の後、陽炎とともに沈没した。
生き残った第15駆逐隊司令「牟田口」大佐や「東日出夫」中佐(親潮艦長)ら乗員は近くの島に向かい、そこで陸軍の救助されたという。この時の親潮乗員の死者は91名であったとされる。