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初風(駆逐艦)

はつかぜ

旧日本海軍に存在した駆逐艦名。陽炎型7番艦の1代のみ。
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※「艦隊これくしょん」に登場する駆逐艦娘については、「初風(艦隊これくしょん)」を参照。

概要

1939年1月24日に神戸川崎造船所で進水し、1940年2月15日に竣工した陽炎型駆逐艦の七番艦。
就役後は同型3番艦「黒潮」、8番艦「雪風」と第十六駆逐隊を構成し第二水雷戦隊に所属し、10月11日に実施された紀元2600年記念行事である紀元2600年特別観艦式で第16駆逐隊司令艦として式典に臨んだ。

11月には「黒潮」が第15駆逐隊に転属となり、その穴を埋める様に同型9番艦「天津風」と10番艦「時津風」が漸次16駆に編入され、第二水雷戦隊第16駆逐隊は司令官渋谷紫郎大佐指揮下のもと、この陽炎型4隻編成で開戦を迎えた。

開戦当初は「神通」「天津風」「初風」で第四航空戦隊の空母「龍驤」航空隊のダバオ空襲を支援。その後はレガスビー、ダバオ、メナド、ケンダリー、アンボン、クーパンの各攻略作戦に参加。1942年2月27日には、あのスラバヤ沖海戦にも参加している。
また6月上旬のミッドウェー海戦では攻略部隊を乗せた輸送船の護衛も務めている。

その後は艦隊再編成によって第16駆ごと第十戦隊に編入され、呉で修理の後に瑞鶴を護衛しながらトラックまで進撃した。

1943年1月10日、「初風」は第六次ガダルカナル島輸送作戦(鼠輸送)に参加したが、そこで米軍魚雷艇と交戦し魚雷1本を左舷艦橋附近に被雷。戦死者8名・負傷者12名を出して大破。通信装置と操舵装置が故障し一時行動不能に陥る。これに第二水雷戦隊司令官「小柳富次」少将は「初風」の自沈を検討するも第4駆逐隊司令官「有賀幸作」大佐と討議の後、「初風」を「嵐」「江風」「時津風」に護衛されて約16ノットで退避。翌日夕刻にショートランド泊地へ無事到着した。この「初風」以下4隻の帰還は小柳司令官に大きな感銘をあたえたとされている。

4月に呉に帰投した「初風」は、7月12日まで本格修理に当たり、8月より再びトラックへ進出、以降はトラック泊地を中心に各地への船団護衛に従事する。

艦首切断の末、総員戦死!!

11月1日、「初風」は第十戦隊第二警戒隊旗艦「阿賀野」の指揮下でブーゲンビル島沖海戦に重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻の編成で参加した。
結局この逆上陸作戦は輸送隊の準備は遅れたことや米軍機の触接を受けたことから中止。せめて米軍輸送艦隊だけでも叩こうと第十戦隊は進軍するが、それにはアーロン・S・メリル少将率いる巡洋艦4隻・駆逐艦8隻の艦隊が迎え撃った。
11月2日、第一警戒隊の「時雨」の敵艦隊発見報告をきっかけに、約2時間におよぶ夜戦がはじまる。最初に米艦隊と交戦したのは「川内」率いる第一警戒隊で、残りの隊は回避行動に専念していた。だが旗艦「川内」が大破したことで前線の第一警戒隊が混乱。続いて「妙高」とともに本隊を形成していた「羽黒」が米海軍のレーダー射撃によって被弾してしまい、これによって本隊も混乱してしまったため、指揮系統が破綻。暗い夜闇の中、各艦の位置を見失った「初風」は同じく彷徨っていた「妙高」と激突事故を起こしてしまう。これによって「初風」は艦首大破・切断の後に航行不能に陥る。ちなみに「妙高」の方はほとんど無傷だった。
結局、この混乱から立ち直ったのは敵艦隊発見報告から約30分後のことだったため、第五戦隊司令官「大森仙太郎」少将は反撃を断念。航行不能になった「川内」「初風」を救援する暇もなく追撃する米軍から撤退してしまった。
これによって取り残された「初風」は追撃艦隊の総攻撃を受けて轟沈。艦長以下164名は総員戦死してしまった。

戦後、この名を継いだ海自艦はないものの、航空自衛隊には練習機として「はつかぜ」の名が存在した。米国製プロペラ機T-34メンターの空自での名称がそれにあたる。最終的に154機が導入され1953~83年にかけて活躍した。

関連項目

陽炎型駆逐艦妙高型重巡洋艦

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