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磯風(駆逐艦)

いそかぜ

本記事では大日本帝国海軍が建造した一等駆逐艦陽炎型の12番艦・2代目「磯風」について説明する。
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艦隊これくしょん」に通常する駆逐艦娘については、「磯風(艦隊これくしょん)」の記事を参照。

概要

磯風は大日本帝国海軍が建造した一等駆逐艦陽炎型の12番艦である。開戦から戦没まで第十七駆逐隊に所属し、アジア太平洋戦争の多くの大規模作戦に参加、最後は戦艦「大和」の水上特攻に随伴し沈没した。

艦暦

誕生

「磯風」は、第三次海軍軍備補充計画、通称マル3計画により計画され、1938年11月25日に佐世保海軍工廠で起工。1939年6月19日に進水し、1940年11月30日に竣工した。

開戦、そしてミッドウェー

開戦時は「浦風」「浜風」「谷風」とともに第十七駆逐隊を編成し第一水雷戦隊に所属。真珠湾攻撃には阿武隈第十八駆逐隊秋雲らとともに南雲機動部隊の護衛として参加する。

その後も空母機動部隊に随伴して東~東南アジアにおける各作戦に参加。蘭印作戦では撃墜した飛行艇の乗員を救助、余裕を見せて高待遇としたため「赤城」に移送された際「磯風が甘やかすから捕虜が贅沢を言う」と苦情を受けるといったこともあった。1942年4月、第十七駆逐隊は新設された第十戦隊に転属し、機動部隊の護衛としてミッドウェー作戦に突入する。

1942年6月、ミッドウェー海戦で南雲機動部隊は主力空母4隻被撃沈という大損害を出し惨敗、「磯風」も急降下爆撃を受けて航行不能に陥るもなんとか復旧に成功。「浜風」とともに「蒼龍」乗組員の救助にあたった。

ガダルカナル争奪戦とニューギニア戦線

1942年8月、第十七駆逐隊はニューギニア・ソロモン方面を担う第八艦隊に編入。アメリカ軍のガ島上陸により鼠輸送に従事することとなった。また同時に行われていたポートモレスビー作戦に僚艦「浦風」「浜風」「谷風」が参加しており、同作戦の頓挫をうけて「磯風」も撤退作戦に参加した。

1942年10月、第十七駆逐隊は第十戦隊の指揮下を離れ機動部隊前衛に編入、南太平洋海戦に参加した。この海戦において海軍は勝利を収めたものの、ガ島の陸軍は飛行場の占領には失敗、また多くの熟練搭乗員を失い、参加した5隻のうち4隻の空母が作戦行動を継続できなくなった。第十七駆逐隊は損傷して内地へ回航される重巡洋艦「筑摩」を護衛、横須賀からラバウルへの物資輸送を行った後、再びソロモン・ガ島方面へ進出した。

ソロモン・ガ島方面からの撤退

第十七駆逐隊は1943年に入ってからもガ島方面への鼠輸送に従事していたが、日本軍は劣勢に追い込まれたガ島からの撤退を決定、ケ号作戦を発動し第十七駆逐隊も参加した。磯風は第三次作戦で大破したが生還、作戦は成功し約13000人の将兵が脱出に成功した。その後磯風は呉に戻り、7月まで修理を行う。
戦線復帰後は水上機母艦「日進」、「萩風」、「」とともにブインへ物資輸送に向かうが米軍機の空襲により「日進」を喪失。第一次ベララベラ海戦後レカタ基地、コロンバンガラ島、ベララベラ島からの撤退作戦に参加する。1943年10月、ニューアイルランド島のカビエンに向かう輸送部隊の護衛をすることになったが、カビエン入港時に触雷し小破、呉に戻り、12月まで修理を行うことになった。

僚艦の喪失

1944年1月、「磯風」はトラックに移り、翌月には敷島部隊としてリンガ泊地へ進出した。3月、パラオで船団護衛に従事し、またパラオ大空襲から退避する戦艦「武蔵」の護衛を行った。また第十七駆逐隊には「雪風」が編入された。5月、マリアナ沖海戦を前にタウイタウイに進出するが、6月の対潜掃討任務中に僚艦「谷風」が敵潜に撃沈されてしまう。マリアナ沖海戦には空母「大鳳」の直衛として参加するが、同海戦において「大鳳」と「翔鶴」は敵潜の雷撃を受け沈没する。

8月まで南方の物資輸送に従事し、シンガポールで電探を装備、9月には呉へ帰還した。その後第十七駆逐隊は戦艦「扶桑」「山城」で編成された第二戦隊を護衛してリンガ泊地へ向かった。

10月、第十七駆逐隊は栗田艦隊に編入されレイテ沖海戦に参加する。10月22日ブルネイ泊地を出撃するが、翌23日には敵潜の雷撃で重巡洋艦「愛宕」「摩耶」が沈没、「高雄」が大破、24日には米艦載機の猛攻で戦艦「武蔵」も波間に消えた。25日、サマール沖海戦においては8本の魚雷を米空母に向け発射し、正規空母1撃沈を報じたが実際には戦果はなく、28日にブルネイに帰投した。

11月15日、第十戦隊は解散し所属艦は第一水雷戦隊へ編入。その後第十七駆逐隊は軽巡洋艦「矢矧」と共に呉へ向かう戦艦「大和」「長門」「金剛」の護衛任務に就くが、11月21日、台湾海峡で米潜水艦「シーライオン」の雷撃により「金剛」と僚艦(第十七駆逐隊の司令駆逐艦でもあった)「浦風」が沈没、「浦風」は乗員全員が戦死した。呉入港後、第十七駆逐隊は「長門」を護衛し横須賀へ向かう。

横須賀到着後、第十七駆逐隊はこんどは呉へ向かう空母「信濃」の護衛に就く。しかし「信濃」は米潜水艦「アーチャーフィッシュ」の雷撃で沈没。各艦は「信濃」乗員の救助にあたった。

第十七駆逐隊は1945年1月まで船団護衛に従事した後、4月まで船体の整備、補修を行う。

運命の坊ノ岬沖海戦

1945年4月6日、「磯風」「浜風」「雪風」の第十七駆逐隊は、「朝霜」「」「初霜」の第二十一駆逐隊、「涼月」「冬月」の第四一駆逐隊とともに、第二水雷戦隊旗艦「矢矧」に率いられ、第二艦隊旗艦である戦艦「大和」を護衛し徳山を出撃、最後の襲撃訓練を行い、沖縄に向け進撃を開始した。
翌4月7日早朝零戦20機の護衛がついたが、しばらくして九州に帰ってしまった。
8時ごろ、大和以下の第二艦隊は米軍偵察機に発見される。10時ごろ、米機動部隊からから約340機の攻撃隊が発進。
12時32分、米軍攻撃隊の第一波が到達。この攻撃で12時49分「浜風」が轟沈、「矢矧」が航行不能、「朝霜」が沈没(日本側でその最期を看取った者がいないので、正確な沈没時刻は不明)、「涼月」が大破、「大和」被弾の被害を受けた。「磯風」はこの空襲を乗り切ったが、航行不能となった「矢矧」から二水戦司令部移乗の要請があり、速度を落とし矢矧に横付けしたところで第二波が襲来した。「」が直撃弾で航行不能、「矢矧」は14時05分沈没、「磯風」も速度が上がらぬまま回避運動を開始するが第二波、第三派の断続的な攻撃で至近弾をうけ機関室に浸水、機銃掃射で死傷者多数を出した。
14時23分、ついに力尽きた「大和」は転覆し大爆発の後、波間にその姿を消した。16時57分には、航行不能となった「霞」が「冬月」により雷撃処分された。
その後「磯風」は自力で北方への退避を始めるが、機関室の浸水を止められず、まもなく航行不能に陥り、「雪風」が曳航を試みた。しかし「初霜」に救助された二水戦司令官・古村啓蔵少将の命令により処分が決定。生存者移乗の後、22時40分、「雪風」の砲撃によって沈没した。戦死20名、生存者326名。

戦没後

翌4月8日、生き残った4隻の駆逐艦「雪風」「初霜」「冬月」「涼月」は辛うじて佐世保に帰投する。「磯風」は5月25日付で第十七駆逐隊、帝国駆逐艦籍、不知火型駆逐艦のそれぞれから除籍された。
「雪風」ただ1隻となった第十七駆逐隊には「初霜」が編入されたが、7月末に触雷し宮津湾にて擱座した。
8月15日、第十七駆逐隊は解隊され、「雪風」は第四一駆逐隊に転出、「初霜」は第四予備艦となった。同日、日本陸海軍は降伏し、玉音放送が流れる。


1982年3月21日、呉の旧海軍墓地に『第十七駆逐隊之碑』が建立された。石碑には、所属した6隻とその乗組員の名前が記されている。

関連タグ

大日本帝国海軍 陽炎型駆逐艦 太平洋戦争

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