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初霜(駆逐艦)
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「初霜」とは、旧日本海軍が保有していた駆逐艦である。

概要

「初霜」は、浦賀船渠で1933年1月31日に起工し、1933年11月4日進水ののち1934年9月27日に竣工・就役した初春型駆逐艦の4番艦。艦名は初代神風型駆逐艦に続き2代目。

当初、初霜の進水式は10月31日に行われる予定だったが、進水式の最中に事故が発生、浦賀船渠は進水を中止、11月4日に進水式をやりなおした。その建造途中で1番艦「初春」の復元性能不良が判明したことから、改善工事を施した状態で竣工させた。

戦歴

第二次大戦参戦時には第21駆逐隊(初春、子日、若葉とで構成)に所属。1942年1月、軽巡「長良」を旗艦とる艦隊とともにケンダリー攻略作戦に参加したのが初陣である。この艦隊は第15駆逐隊(夏潮、黒潮親潮、早潮)、第16駆逐隊(雪風時津風天津風初風)、第二航空部隊(千歳瑞穂)等も含まれていた。その後、マカッサル攻略作戦、バリ島攻略作戦、アリューシャン作戦などに参加する。

1943年には、アッツ島沖海戦、キスカ島撤退作戦に参加するが、キスカ島撤退作戦において、航行中に濃霧のため若葉と衝突。幌筵で応急修理を受けた。

1944年には、まずマリアナ沖海戦に参加し、次のレイテ沖海戦では、戦没した若葉の乗員を救助、のちに第2次多号作戦に参加する。その際マニラ湾空襲により初春を失い、ほどなく第1水雷戦隊解散、第2艦隊第2水雷戦隊所属となる。

1945年には、まず伊勢日向らとともに北号作戦に参加。損害なしで完全成功を収めた。その後、第7駆逐隊よりが第21駆逐隊に編入される。

大和最後の戦いになったことで知られる4月の坊ノ岬沖海戦では、初霜は無傷で生還し、2水戦司令・古村啓蔵少将を含む矢矧浜風の乗員救助および2水戦将旗の収容をおこなった。第2水雷戦隊の解隊式が行われたのも、この初霜の艦上である。

6月15日に宮津湾に回航され、翌日に第21駆逐隊が解隊されたため、初霜は第17駆逐隊に編入される。

初霜はその後、7月30日に米軍機の空襲を受け、対空戦闘中に触雷。同艦最後の艦長となった酒匂雅三少佐の指示で、沈没を免れるため海岸に擱座、そのまま終戦を迎える。

1948年から51年にかけて浮揚作業が行われ、舞鶴に曳航ののち解体された。解体が行われたとされる旧舞鶴海軍工廠は、現在のジャパンマリンユナイテッド舞鶴事業所である。

戦記『戦艦大和ノ最期』内で語られる初霜

大和の元乗組員である吉田満氏によって書かれた『戦艦大和ノ最期』には、初霜乗員が蛮行を働いたとの記述がある。

それは、「救助艇にすがりつく生存者の手首を初霜乗員の下士官が軍刀で切り落とし、時に蹴って海中に突き落とした。」というものである。

多数の生存者が数少ない救助艇に殺到した為、転覆を防ぐためにこのような行為に走ったと結論づけられているが、これは完全に事実無根である

初霜乗員だけでなく、雪風乗員、大和乗員からも明確に否定されており、全く根拠の無い話である。

というか、「救助艇に軍刀は持ち込まないし、下士官はそもそも軍刀を持たない」「狭くバランスも悪い救助艇(内火艇)の上で軍刀を振り回すことなどできない」など、議論の余地すらなく物理的に不可能である。

しかし、『戦艦大和ノ最期』が大変著名な書物であり、後世で映画化されるなど、抜群の知名度に加え、「戦時中ならありえる」とのイメージから、このエピソードは非常に良く知られる事となってしまった。

なお『戦艦大和ノ最期』の映画化作品である『戦艦大和』では脚本にはこの描写があったものの、映倫から「残酷感を弱めるような演出と描写をのぞみたい」と指摘が入り、最終的に丸ごと削除されている。

『戦艦大和ノ最期』出版当初から改善の訴えがあったようで、原作者の吉田氏は了承自体はしたものの、結局改定されることのないまま病没してしまった。

2005年には朝日新聞がこのエピソードを戦争の残虐性を表すとして「真実であるかのように」紹介したが、直後に産経新聞より反論記事が掲載された。

寄稿者は初霜救助艇指揮官を務めていた「当事者」であり、実際の状況を元に手首斬りが無かった事を主張している。

そもそも記録によると初霜が救助したのは前述したとおり矢矧や浜風の乗員であり、大和の乗員は救助していない。

なお、GHQによって発禁処分となった初稿には初霜(原文では朝霜となっているが、朝霜は落伍したところを撃沈され全員戦死してるので初霜の誤字である可能性が高い)救助艇艇指揮のセリフとして「船べりに手を掛けて離れない人が居たから引き上げてやったが、とても苦労した」と書かれている。

ちなみに、実は現行法下においてもこのような状況で過剰に殺到する要救者を突き落としたとしても基本的に無罪である(刑法第37条「緊急避難」)。これに類する有名な創作物としては『金田一少年の事件簿』「悲恋湖殺人事件」がある。

また有名な「船長の最後退船義務」は現行の船員法では削除されている。これは運行の現場責任者が死亡してしまうと事故原因の解明に支障を来たすばかりか、より高位の運行責任者が現場責任者に責任をおっかぶせて事故の過失を逃れる事例が目立ったため。ただしこのきっかけをつくったのは船舶ではなく国鉄である(北陸トンネル列車火災事故)。

主な登場作品

前述の『戦艦大和』を初め坊ノ岬沖海戦を題材にした作品で登場することも多いが、それらの作品はおおむね戦艦大和を中心に描かれている関係上描写は少ない。

キスカ島撤退作戦に参加した駆逐艦として登場。

関連タグ

初春型駆逐艦初春/子日/若葉(駆逐艦) 有明(駆逐艦)/夕暮(駆逐艦)

初霜(艦隊これくしょん) 本艦をモチーフとした艦隊これくしょんのキャラクター(艦娘

概要

「初霜」は、浦賀船渠で1933年1月31日に起工し、1933年11月4日進水ののち1934年9月27日に竣工・就役した初春型駆逐艦の4番艦。艦名は初代神風型駆逐艦に続き2代目。

当初、初霜の進水式は10月31日に行われる予定だったが、進水式の最中に事故が発生、浦賀船渠は進水を中止、11月4日に進水式をやりなおした。その建造途中で1番艦「初春」の復元性能不良が判明したことから、改善工事を施した状態で竣工させた。

戦歴

第二次大戦参戦時には第21駆逐隊(初春、子日、若葉とで構成)に所属。1942年1月、軽巡「長良」を旗艦とる艦隊とともにケンダリー攻略作戦に参加したのが初陣である。この艦隊は第15駆逐隊(夏潮、黒潮親潮、早潮)、第16駆逐隊(雪風時津風天津風初風)、第二航空部隊(千歳瑞穂)等も含まれていた。その後、マカッサル攻略作戦、バリ島攻略作戦、アリューシャン作戦などに参加する。

1943年には、アッツ島沖海戦、キスカ島撤退作戦に参加するが、キスカ島撤退作戦において、航行中に濃霧のため若葉と衝突。幌筵で応急修理を受けた。

1944年には、まずマリアナ沖海戦に参加し、次のレイテ沖海戦では、戦没した若葉の乗員を救助、のちに第2次多号作戦に参加する。その際マニラ湾空襲により初春を失い、ほどなく第1水雷戦隊解散、第2艦隊第2水雷戦隊所属となる。

1945年には、まず伊勢日向らとともに北号作戦に参加。損害なしで完全成功を収めた。その後、第7駆逐隊よりが第21駆逐隊に編入される。

大和最後の戦いになったことで知られる4月の坊ノ岬沖海戦では、初霜は無傷で生還し、2水戦司令・古村啓蔵少将を含む矢矧浜風の乗員救助および2水戦将旗の収容をおこなった。第2水雷戦隊の解隊式が行われたのも、この初霜の艦上である。

6月15日に宮津湾に回航され、翌日に第21駆逐隊が解隊されたため、初霜は第17駆逐隊に編入される。

初霜はその後、7月30日に米軍機の空襲を受け、対空戦闘中に触雷。同艦最後の艦長となった酒匂雅三少佐の指示で、沈没を免れるため海岸に擱座、そのまま終戦を迎える。

1948年から51年にかけて浮揚作業が行われ、舞鶴に曳航ののち解体された。解体が行われたとされる旧舞鶴海軍工廠は、現在のジャパンマリンユナイテッド舞鶴事業所である。

戦記『戦艦大和ノ最期』内で語られる初霜

大和の元乗組員である吉田満氏によって書かれた『戦艦大和ノ最期』には、初霜乗員が蛮行を働いたとの記述がある。

それは、「救助艇にすがりつく生存者の手首を初霜乗員の下士官が軍刀で切り落とし、時に蹴って海中に突き落とした。」というものである。

多数の生存者が数少ない救助艇に殺到した為、転覆を防ぐためにこのような行為に走ったと結論づけられているが、これは完全に事実無根である

初霜乗員だけでなく、雪風乗員、大和乗員からも明確に否定されており、全く根拠の無い話である。

というか、「救助艇に軍刀は持ち込まないし、下士官はそもそも軍刀を持たない」「狭くバランスも悪い救助艇(内火艇)の上で軍刀を振り回すことなどできない」など、議論の余地すらなく物理的に不可能である。

しかし、『戦艦大和ノ最期』が大変著名な書物であり、後世で映画化されるなど、抜群の知名度に加え、「戦時中ならありえる」とのイメージから、このエピソードは非常に良く知られる事となってしまった。

なお『戦艦大和ノ最期』の映画化作品である『戦艦大和』では脚本にはこの描写があったものの、映倫から「残酷感を弱めるような演出と描写をのぞみたい」と指摘が入り、最終的に丸ごと削除されている。

『戦艦大和ノ最期』出版当初から改善の訴えがあったようで、原作者の吉田氏は了承自体はしたものの、結局改定されることのないまま病没してしまった。

2005年には朝日新聞がこのエピソードを戦争の残虐性を表すとして「真実であるかのように」紹介したが、直後に産経新聞より反論記事が掲載された。

寄稿者は初霜救助艇指揮官を務めていた「当事者」であり、実際の状況を元に手首斬りが無かった事を主張している。

そもそも記録によると初霜が救助したのは前述したとおり矢矧や浜風の乗員であり、大和の乗員は救助していない。

なお、GHQによって発禁処分となった初稿には初霜(原文では朝霜となっているが、朝霜は落伍したところを撃沈され全員戦死してるので初霜の誤字である可能性が高い)救助艇艇指揮のセリフとして「船べりに手を掛けて離れない人が居たから引き上げてやったが、とても苦労した」と書かれている。

ちなみに、実は現行法下においてもこのような状況で過剰に殺到する要救者を突き落としたとしても基本的に無罪である(刑法第37条「緊急避難」)。これに類する有名な創作物としては『金田一少年の事件簿』「悲恋湖殺人事件」がある。

また有名な「船長の最後退船義務」は現行の船員法では削除されている。これは運行の現場責任者が死亡してしまうと事故原因の解明に支障を来たすばかりか、より高位の運行責任者が現場責任者に責任をおっかぶせて事故の過失を逃れる事例が目立ったため。ただしこのきっかけをつくったのは船舶ではなく国鉄である(北陸トンネル列車火災事故)。

主な登場作品

前述の『戦艦大和』を初め坊ノ岬沖海戦を題材にした作品で登場することも多いが、それらの作品はおおむね戦艦大和を中心に描かれている関係上描写は少ない。

キスカ島撤退作戦に参加した駆逐艦として登場。

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