概要
- 神風型駆逐艦(初代)に分類される駆逐艦。「子日」としては初代。1905年8月30日進水。1924年12月1日掃海艇に編入。1928年4月1日除籍。
- 初春型駆逐艦2番艦。「子日」としては2代目。「子ノ日」と書かれることも。本項で説明する。
なお、名前の由来である『十二支の子にあたる日の、特に正月の最初の子の日』という意味の語句は、一般的には「子の日」という表記である。
大日本帝国海軍の艦艇には基本的にはひらがなを使わないため、「の」を省略したと言われている。
艦歴
1931年12月15日、浦賀船渠で仮称第60号駆逐艦として起工。
1932年8月1日、「子日」の艦名が与えられる。なおこの時同時に姉妹艦の1,3番艦にも「初春」「若葉」の名が与えられた。
1932年12月22日進水。
1933年9月30日竣工。1番艦の「初春」も同日附で竣工し、2隻で第二十一駆逐隊を編成。
1934年、3番艦「若葉」、4番艦「初霜」も竣工し、第二十一駆逐隊へと編入。同隊は定数を揃えた。
1942年7月5日、北方での任務に従事中、米潜水艦トライトンからの魚雷が命中し轟沈。初春型駆逐艦最初の沈没艦となった。
1942年7月31日除籍。
エピソード
建造当初は吹雪型駆逐艦よりも小型の船体(吹雪型118m、初春型109m)に、ほぼ同じ武装を詰め込んでいだ。しかし、初春が転覆寸前に陥るほどのトップヘビー状態が確認された事や、同じくトップヘビー状態だった水雷艇が沈没する(友鶴事件や第四艦隊事件)といった事態が発生したため、初春と同じく2度の大改装を受けての就役となった。ちなみに、進水は1番艦の初春よりも早かった(初春1933年2月27日/子日1932年12月22日)。
開戦前は、現在のベトナムである仏印(フランス領インドシナ/現在のベトナム、ラオス、カンボジアを合わせた地域)にて軍事監視団として派遣されたが、開戦後は第二一駆逐隊として方々で活躍する事となる。
1942年5月には、「那智」旗艦の北方部隊に編入。アリューシャン方面作戦に従事することになった。同年6月上旬「阿武隈」と第二十一駆逐隊は「アッツ攻略作戦」に参加した。
その後は、「子日」は水上機部隊を護衛し、アッツ島湾外の哨戒活動を行うことになった。
6月21日、「子日」は油槽船「富士山丸」に横付けして補給を開始しようとしたところ、敵潜水艦を発見して直ちに爆雷攻撃を行い、撃沈確実を報告した。
7月には前述の沈没潜水艦の捜索命令を受け、単独で行動することになる。潜水艦から機密文書を回収することを目的としていたが結局潜水艦を発見できなかった。
1942年7月5日、捜索を切り上げ水上機部隊と合流するためアッツ島の隣の島であるアガッツ島南方を北上する。当時のアッツ島方面は濃霧のため、水上偵察機の発進もできなかったという。
この時、アガッツ島サバック岬沖にて米潜水艦トライトンに捕捉され、魚雷を受けて船体が折れ、わずか7分で沈没。 初春型で最初に戦没した艦船となった。
200名以上いた乗員は北方の低温のため188名が戦死し、36名の生存者はアガッツ島に上陸し、翌日、駆逐艦電によって発見・救助された。
1942年7月30日除籍。
関連項目
同型艦…初霜(駆逐艦)