概要
睦月型駆逐艦は、日中戦争~アジア太平洋戦争の時期に活躍していた、旧日本海軍の駆逐艦の艦級のひとつで、全部で12隻建造された。その名称が「睦月」から始まったため残りの姉妹も旧暦にちなんだ名称だと思われがちだが、その慣例は九番艦の菊月までの上、何故か9月が2隻もあり(8番艦の長月と9番艦の菊月)、8月の「葉月」はハブられ、10番艦は「三日月」、11番艦は「望月」、12番艦は「夕月」である。
一説では、「葉月」は「破月」に繋がって不吉とされたことや、「神の無い月」と取れる10月の「神無月」を入れたくなかったためだとされている。12月の「師走」もない。
11月の「霜月」は、後の秋月型駆逐艦に使われている他、先に述べた葉月も、建造中止になったものの秋月型駆逐艦に使われる予定であった。
ちなみに彼女らは八八艦隊計画における規格型駆逐艦として大量建造される予定だったため、艦名が不足することから当初は艦名がなく、“第○○駆逐艦”と番号が振られることになっていた。しかし、ワシントン海軍軍縮条約の結果12隻で建造が打ち切られることになり、それと同時に12隻には従来どおり個別の艦名が与えられたのである。
睦月から卯月までは第一九号、第二一号、第二三号、第二五号と奇数の番号が振られていたが(当初は奇数が一等駆逐艦、偶数が二等駆逐艦として区分されていた)、皐月から最終艦の夕月までは全て一等駆逐艦として第二七号から第三四号(正確にはさらに次級の特I型第四四号=浦波)までの通しの番号となっていた。
なお日本海軍の駆逐艦が“超小型巡洋艦”とも言えるような個艦高性能主義に陥っていくのはこれがきっかけで、特型駆逐艦へとつながっていく。
ゆえに睦月型は61サンチ魚雷を搭載したことが特筆されるものの、建造の容易性も考慮されたため、構造的には従来型の峯風型・神風型(二代目)駆逐艦の延長線上に過ぎない。
そのため強度的には不安があり、第四艦隊事件で睦月が波浪で艦橋圧壊という事態に陥り、航海長が即死してしまっている(この時、1人の水兵が後部にある応急操舵所で三時間もの間舵を握り、無事帰投している)。
この教訓から、睦月型は艦橋が全金属製に改められ、魚雷発射管にもシールドが装備された。
睦月型は日本海軍の駆逐艦としては、初めて本格的に国産化された艦本式タービンが搭載された。
しかし、外国製タービンとの比較調査も兼ねて、弥生にはメトロポリタン・ヴィッカース式、長月には石川島・ツェリー式のタービンが搭載されていた。
これは日本海軍の駆逐艦としては最後の外国製タービン搭載例となった。
速力に関しては最大37ノットと、むしろ日本駆逐艦の中でも高速の部類に入る。
航続距離は巡航速度(14ノット)で4000海里と、陽炎型などと比較すると劣っているが、そもそもプレ・特型駆逐艦としては異常に長いと言っていい。
これは日本海とそれに接続する海域が時化やすいという日本独特の条件から、早期のうちから駆逐艦にも高い陵波性が求められたためで、そのための船体構造からくる余禄であった。
(これは駆逐艦以外にも共通する。そしてもちろん戦後にも引き継がれている)
参考までに、陽炎型とその次級の夕雲型は巡航速度(18ノット)で6000海里、吹雪型は14ノットで4500海里、白露型は18ノットで4000海里である。
2隻が座礁状態で終戦を迎える
睦月型駆逐艦の泣き所は、航空攻撃に対して絶望的なほどに脆弱な点で、睦月型12隻中10隻が航空攻撃によって失われている(残り2隻は卯月が魚雷艇の雷撃で、水無月が潜水艦の雷撃で失われている)。
1943年頃から残存していた睦月型は対空兵装の強化が行われ、12cm単装砲を一部撤去して25mm三連装機銃を装備し、13号対空電探も装備された。
更に戦局が進むと、後部魚雷発射管及び缶(ボイラー)一基を撤去した「輸送駆逐艦」として運用されるようになった。
睦月型駆逐艦は1944年、最終12番艦の夕月が戦没したのを最後に書類上はすべて除籍されたが、これより先に除籍された長月と菊月の2隻が座礁状態で終戦を迎えており、長月は1975~84年の間に自然風化で海没したものの、菊月は現在も水上にその残骸が残されている。
関連項目
睦月(駆逐艦) 卯月(駆逐艦) 皐月(駆逐艦) 長月(駆逐艦) 菊月(駆逐艦)