卯月(駆逐艦)
うづき
本艦は川崎造船所で建造され、1907年3月6日に竣工した旧神風型駆逐艦の26番艦。
第一次世界大戦に従軍し、そちらでは主としてシンガポール方面で警備に従事した。
1924年に除籍され、東京湾にて無線操縦の被操縦艦(言うなれば巨大なラジコンのようなもの)となったのち廃船。
こちらは東京石川島造船所にて建造され、1926年9月14日に竣工した睦月型駆逐艦の4番艦。竣工直後に佐世保鎮守府に配備される。
当初は「第二十五号駆逐艦」という艦名であり、一等駆逐艦に類別され1928年8月1日に「卯月」と改名された。
アジア太平洋戦争開戦時は第二十三駆逐隊に所属したが、1942年5月に第三十駆逐隊に編入。主に睦月や望月、弥生と行動を共にした。
ガダルカナル島攻略作戦では、沈没した加古の乗員を救助するも、後の第二次ソロモン海戦で爆撃により損傷、佐世保海軍工廠で修理を行った。
1943年頃から、貧弱な対空兵装を補うために、12cm単装砲を一部撤去して25mm三連装機銃や13号電探が装備された。また姉妹艦中で唯一、十三米特型運貨船を運用できるようになった。
その後に、後部魚雷発射管も撤去し「輸送駆逐艦」として運用されるようになった。
最後の戦いになったのは、レイテ沖海戦直後のオルモック輸送作戦第9次作戦である。1944年12月9日にマニラを出港し同作戦に参加するが、12日にオルモック湾で魚雷艇PT490等と交戦し、魚雷2本が命中し沈没した。
睦月型としては、夕月に次いで最後まで日本海軍籍を残した艦だったが、その夕月も卯月の後を追うようにその日のうちに空襲で沈没し、これを以って睦月型は全艦戦没と判定されている(ただし菊月と長月の船体が終戦時に残存していた)。
なお1943年にネームシップの睦月と弥生が除籍された(2番艦の如月はすでにアジア太平洋戦争が生起して間もなく戦没している)ことから、睦月型駆逐艦は本艦の名をとって「卯月型駆逐艦」と改定されている。