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本艦をモチーフにした「艦隊これくしょん」のキャラクターは、「朝雲(艦隊これくしょん)」を参照。


「西村少将ッ!!一生ついてまいりますぞォッ!!!」

「朝雲」は、神戸川崎造船所で1936年12月23日に起工、1937年11月5日進水ののち、1938年3月31日に竣工した、日本海軍の一等駆逐艦朝潮型(満潮型)の5番艦。

竣工とともに第41駆逐隊(同型艦の山雲夏雲峯雲で構成)に編入された。

同年12月15日、第三予備艦となり横須賀海軍工廠で朝雲型特有の欠陥蒸気タービン機関の改造工事を実施した。

1939年11月15日、所属の第41駆逐隊が第9駆逐隊と名称変更。

1940年11月15日、第9駆逐隊は第2艦隊・第四水雷戦隊に編入された。四水戦は「那珂」が旗艦を、西村祥治少将が司令官を務めており、この西村少将がのちに朝雲の最後となるレイテ沖海戦で西村艦隊を指揮した張本人であることから、朝雲とはこの頃からの縁となった。


「後ろを観るなッ!前へッッ!!」

太平洋戦争開戦時には第9駆逐隊(司令:佐藤康夫大佐)として、ビガン、リンガエン湾上陸作戦を支援。リンガエン攻略作戦では米潜水艦「S38」を攻撃するが取り逃がす。

12月下旬、僚艦「山雲」は触雷して損傷。修理のために回航し、そのまま1942年5月15日に除隊となった。

1942年1月よりタラカン、バリクパパン等の攻略作戦に加わり、2月にマカッサル攻略作戦にも参加した。


同年2月27日、第9駆逐隊第1小隊(朝雲、峯雲)は第四水雷戦隊各艦と共にスラバヤ沖海戦に参加。

この海戦では第五戦隊(那智足柄)、第二水雷戦隊(神通、第16駆逐隊)、第四水雷戦隊各隊が距離1万mの遠距離砲戦雷撃戦に終始する中、朝雲で指揮する佐藤大佐だけは「もうちっと、もうちっと」と言って魚雷発射許可を出さずひたすら敵艦に肉薄していった。たまりかねた艦長が反転離脱を進言すると、

「艦長! 後ろを観るなッ! 前へッッ!!」

と叫んでつっぱねたという。

結局5000mまで接近して魚雷を発射。だが朝雲と峯雲はそのまま離脱せず、まっすぐ真一文字に敵艦隊へと突撃していったのだ。

重巡「エクセター」に狙いを定めるも、駆逐艦「エレクトラ」、「エンカウンター」、「ジュピター」の3隻に阻まれ、結局距離3000mで3対2の砲撃格闘戦を展開した。

朝雲はエレクトラの砲撃を機関室に受けて電源停止。だが人力照準と峯雲の援護もあって駆逐艦「エレクトラ」の撃沈に成功している。

速力12ノットとなった朝雲は峯雲に護衛されて人力操舵で避退。途中で停泊して機関を応急修理し、28日に朝雲と峯雲は第四水雷戦隊および輸送船団と合流。駆逐隊司令艦は夏雲に変更され、朝雲は修理のためにバリクパパンに回航。さらにその後横須賀で本修理に入った。

なおこの海戦で第9駆逐隊の戦果報告は『駆逐1隻撃沈』ではなく『軽巡1隻撃沈』であり、戦果検討の席上で異存を唱える者もいた。だがこれに対し朝雲を指揮していた佐藤司令は、

「遠くに逃げていた奴にッ!なにがわかるゥッ!」

と怒鳴り、これには反論の仕様がなかったので第五戦隊は第9駆逐隊の報告を受け入れざるを得なかったという。


修理を終えた「朝雲」は旗艦「那珂」修理のために代理旗艦となった「由良」の下、6月のミッドウェー海戦に攻略部隊として参加。結果は惨敗であり、生き残った朝雲は追撃艦隊陽動のためにウェーク島の基地航空隊と連携し、偽電を交信するなど米軍機動部隊の誘引を試みたが、特に成果はなかった。

8月、第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は第4戦隊(愛宕高雄)を護衛してトラック泊地へ進出、24日-25日の第二次ソロモン海戦に参加する。その後、9月20日からガダルカナル島輸送に9回従事した。

10月5日、第9駆逐隊僚艦「峯雲」は空襲により損傷、戦線から離脱。10月12日にはサボ島沖海戦の損傷艦救援にむかった第9駆逐隊僚艦「夏雲」が空襲を受け沈没、「朝雲」は同艦乗組員の救助を行う。

10月25日、第四水雷戦隊旗艦「秋月」が被弾して中破、「秋月」以前の旗艦だった軽巡洋艦「由良」も沈没。高間完第四水雷戦隊司令官は一時「村雨」に将旗を掲げたのち、10月31日から旗艦を「朝雲」に変更した。


11月中旬、第四水雷戦隊旗艦「朝雲」は第2駆逐隊(村雨、五月雨夕立春雨)・第27駆逐隊(時雨白露、夕暮)を指揮し、第11戦隊(比叡霧島)を中核とする『挺身艦隊』に所属して第三次ソロモン海戦に参加する。


「比叡様ァァッ!霧島様ァァァッッ!!」

第三次ソロモン海戦では悪天候の中で何度も艦隊が反転したため四水戦の陣形は崩れ、警戒隊として先行するはずだった「朝雲」及び第2駆逐隊第1小隊(村雨、五月雨)は第11戦隊本隊と同行する事になり、第2駆逐隊第2小隊(夕立、春雨)のみ艦隊前面に突出する格好となった。

このような状況下ではじまった13日第一夜戦で、「朝雲」は敵艦隊に探照灯を照射し、「村雨」による米駆逐艦「バートン」撃沈をアシストした。だが挺身艦隊は駆逐艦「」沈没、旗艦「比叡」操舵不能、駆逐艦「夕立」航行不能、「」「天津風」中破、「村雨」「春雨」損傷という損害を受ける。

午前1時、「朝雲」は単艦奮戦によって炎上する「夕立」に接近。高間司令官は「夕立」乗組員に艦を放棄してガダルカナル島へ向かうよう命令した。救助用のカッターボートを降ろした「朝雲」は「夕立」を残して離脱。その後、「五月雨」が救援のために到着し、撃沈された夕立乗組員を救助している。「朝雲」は戦艦「霧島」を護衛して戦闘海域を離脱した。

この第一夜戦で「朝雲」は主砲88発・魚雷8本を発射、敵駆逐艦1隻撃沈を記録。一方、「雪風」、「照月」、「時雨」、「白露」、「夕暮」に護衛されていた「比叡」は空襲を受けて損傷が進み、13日夕刻になって放棄され沈没した。


日本海軍は艦隊の再編を行い、第一夜戦に参加した「朝雲」「五月雨」「照月」は旗艦「愛宕」(近藤信竹中将)の指揮下に入り、再びガダルカナル島へ向かう。これを米軍第64任務部隊(司令官ウィリス・A・リー少将)の米戦艦2隻(ワシントン、サウスダコタ)が迎撃し、第三次ソロモン海戦第二夜戦が始まった。

「朝雲」は「照月」と共に酸素魚雷を発射して命中を確認、他艦と共同によりノースカロライナ級戦艦1隻撃沈と記録した。同様に「愛宕」「高雄」も多数の酸素魚雷を発射して米戦艦撃沈を報告したが、実際には米駆逐艦の残骸に命中するか自爆しており、米戦艦に命中した魚雷は1本もなく、結局「愛宕」、「高雄」、「霧島」、「朝雲」、「照月」は米戦艦に決定的損害を与えられなかった。

その間に戦艦「霧島」は米戦艦「サウスダコタ」と史上初となる戦艦同士の砲撃格闘戦を展開。「サウスダコタ」を行動不能まで追い詰めるも、追撃する戦艦「ワシントン」によって撃沈されてしまう。

戦闘終了後、「朝雲」「五月雨」「照月」は沈没直前の「霧島」に接近して救助活動を実施。「朝雲」は「霧島」の乗員618名を救助しトラックに帰投する。激しい激戦であり、両軍ともに隊列の大きく乱れた大乱戦であったが、本海戦において「朝雲」が受けた被害は無かった。


11月下旬、四水戦旗艦は軽巡洋艦「長良」に変更。

12月中旬、「朝雲」「時雨」は横須賀からトラック泊地へ進出する空母2隻(龍鳳冲鷹)と駆逐艦2隻(時津風、卯月)をサイパン附近まで出迎える予定であった。

だが「龍鳳」は12日の米潜水艦の雷撃で中破、横須賀へ避退。「冲鷹」「卯月」のみ横須賀からトラックへ向かい、「朝雲」「時雨」はサイパン北西で2隻と合流した。この後も「朝雲」「時雨」は空母「冲鷹」の横須賀~トラック往復を護衛した。


「こんな無謀な作戦はッ!日本民族を滅亡させるようなものだァッ!!」

1943年1月21日、米潜水艦「シルバーサイズ」に撃沈された輸送船「明宇丸」救援のため「朝雲」はトラック泊地を出発し、「明宇丸」乗員を救助した。


2月上旬、「朝雲」はガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)参加した。

当初は支援部隊として行動していたが、第一次撤収作戦(2月1日)で第31駆逐隊「巻波」が大破、第10駆逐隊「巻雲」が沈没、その代艦として「朝雲」と「五月雨」は撤収部隊に編入され、ガダルカナル島方面に進出する。

第4駆逐隊「舞風」が損傷した第二次撤収作戦(2月4日)、第17駆逐隊「磯風」が損傷した第三次撤収作戦(2月7日)の両方に参加したが、ここでも持ち前の強運によって被害はなかった。


2月28日、朝雲は「白雪」「浦波」「敷波」「朝潮」「荒潮」「雪風」「時津風」とともに輸送船8隻を護衛する第八一号作戦に参加した。この作戦は最初から無謀なもので、制空権を完全に損失した状態で敵勢力下を通過するというものである。事前に敵航空戦力を空爆により弱体化させる計画もあったがこれは失敗している。

護衛部隊の第三水雷戦隊参謀であった半田仁貴知少佐が、八十一号作戦計画担当であった第八艦隊作戦参謀の神重徳大佐に「この作戦は敵航空戦力によって全滅されるであろうから、中止してはどうか」と申し入れたところ、神大佐は「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」と回答したという。

かくして3月3日、朝雲達輸送艦隊はクレチン岬南東沖でアメリカ、オーストラリア軍機の空襲を受け、新戦法の反跳爆撃で輸送船は全滅、護衛艦も「朝潮」「荒潮」「白雪」「時津風」が失われるという大惨事に見舞われる。これは後にビスマルク海海戦、通称「ダンピール海峡の悲劇」と呼ばれた。

朝雲は「雪風」「浦波」「敷波」および救援のために駆け付けた「初雪」と共に救助活動を行う。485名を救助。最後まで救助活動を行った「朝雲」、「敷波」、「雪風」は3月5日にカビエンに帰投した。

失敗すべくして失敗した悲惨な作戦であったが、ここでも朝雲は無傷で生き残った。

この作戦に対して朝雲艦長の岩橋透中佐は作戦終了後、

「こんな無謀な作戦はッ!日本民族を滅亡させるようなものだァッ!!よく考えてからやれィィィィ!」

と第八艦隊司令部に怒鳴り込んだという。

同日、コロンバンガラ島輸送作戦に従事していた駆逐艦「村雨」と第9駆逐隊「峯雲」は米艦隊の奇襲により一方的に撃沈される(ビラ・スタンモーア夜戦)。「峯雲」の喪失により第9駆逐隊は「朝雲」1隻となったが、4月1日附で駆逐艦「薄雲」「白雲」が編入されて戦力を回復した。なお朝潮型ネームシップ「朝潮」の沈没にともない、同日附で朝潮型駆逐艦は『満潮型駆逐艦』に改定された。


4月13日「朝雲」は第5艦隊第1水雷戦隊に編入される。

7月29日、キスカ島撤退作戦に加わり、以降10月末まで千島方面海域で対潜哨戒、船団護衛に当たった。

9月1日、第9駆逐隊に満潮型「」が編入されて4隻編制(朝雲、霞、白雲、薄雲)となる。

10月31日、「朝雲」は第9駆逐隊から除かれ、第3艦隊十戦隊の第10駆逐隊(風雲秋雲)に編入された。


艦首を飛ばされながらもなお戦い続け、朝雲、散るゥッ!!!

1944年に入り、4月11日「秋雲」が米潜水艦「レッドフィン」に撃沈され、同隊は「風雲」「朝雲」の2隻となる。

5月30日以降、第10駆逐隊は戦艦「扶桑」の護衛として渾作戦に参加。

6月8日、第10駆逐隊司令艦「風雲」が米潜水艦「ヘイク」に撃沈されて駆逐隊司令赤沢次寿雄大佐が戦死。「朝雲」は乗組員の救助を行った。

6月下旬のマリアナ沖海戦には機動部隊本隊に加わり、7月10日に第10駆逐隊は解隊されて「朝雲」は第4駆逐隊(野分、満潮、山雲)に編入、同隊は定数4隻を回復した。同隊の山雲とは太平洋戦争開戦時の第9駆逐隊以来の久しぶりの再会となる。


最後の戦いはレイテ沖海戦である。

10月中旬以降の捷号作戦で第4駆逐隊は分散配備され、「野分」のみ栗田艦隊・第十戦隊旗艦「矢矧」及び第17駆逐隊(浦風、浜風、雪風、磯風)と行動を共にする。

あとの3隻(満潮、朝雲、山雲)は戦艦「山城」「扶桑」、重巡洋艦「最上」、駆逐艦「時雨」と共に第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)に所属してレイテ湾突入を目指した。

だが山雲と満潮は敵駆逐艦隊の魚雷を横腹に受け、山雲は轟沈。満潮は航行不能になった後、そのまま沈没した。

朝雲は続く三隻目として仲間と共に被雷。艦首を吹き飛ばされ戦闘不能となる。なんとか海峡を離脱しようとしたが、艦首損失状態では思うように速力が出ず、結局米艦隊に追いつかれ巡洋艦「デンバー」「コロンビア」にとどめを刺され撃沈された。総員退去後、「朝雲」は米巡洋艦及び駆逐隊の集中射撃を受けて沈没。さらに米駆逐艦は「朝雲」から脱出した内火艇も撃沈、乗組員は漂着して捕虜となった。約200名が戦死。また生存者25名がマニラ地区地上部隊に編入されたという記録が残っている。

今まで数多の激戦を生き延びてきた朝雲も遂にその息の根を止められてしまったのだった。沈むその時まで反撃を続けた戦いぶりは米軍側からも賞賛されている。


戦後、艦名は海上自衛隊の「やまぐも」型護衛艦3番艦・2代目「あさぐも」として受け継がれた(1967~1998)。また現在は、自衛隊や安全保障を専門とする新聞の名前にもなっている。


関連項目

朝潮型駆逐艦 特型駆逐艦 白露型駆逐艦 夕雲型駆逐艦 秋月型駆逐艦

川内型軽巡洋艦 長良型軽巡洋艦

妙高型重巡洋艦 高雄型重巡洋艦 最上型重巡洋艦 金剛型戦艦 扶桑型戦艦

朝雲(新聞)






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