那智(重巡洋艦)
なち
那智とは妙高型重巡洋艦の2番艦、呉海軍工廠にて建造されている。1番艦である妙高 よりも8ヶ月早い、1928年11月26日 就役している。艦名は和歌山県の那智山に由来しており、艦内神社も熊野那智大社から分祀されている。
就役直後の1928年12月に行われた昭和天皇即位記念の大観艦式において、那智は最新鋭巡洋艦として世界に紹介されたのを皮切りに、翌年の昭和天皇行幸において長門と共に御召艦の栄誉ある任務を与えられている。1930年の観艦式においては、姉妹艦全員が先導艦(足柄)や供奉艦(妙高、那智、羽黒)の任に就いている。
1932年の第一次上海事変で警備に従事し、日中戦争時には1937年の上海上陸作戦に参加している。
1941年12月に太平洋戦争が始まるとパラオに進出し、妙高と羽黒と共にダバオ、メナド、アンボン島、マカッサルなどの攻略作戦を支援する。1942年1月にB-17の空爆で損傷した妙高が修理のために佐世保へ回航することになり、第五戦隊旗艦を引き継いでいる。
スラバヤ沖海戦では羽黒と共に第二水雷戦隊を率いて連合軍艦隊(ABDA艦隊)と交戦し、オランダ海軍軽巡「デ・ロイテル」と「ジャワ」および駆逐艦「コルテノール」を撃沈する。しかし、損傷を恐れた日本海軍側がアウトレンジ戦法に専念したことから命中弾が極端に少なく、結果として砲弾が不足する事態となった。
その後、援軍として妙高と足柄を中核とする艦隊が駆けつけて、イギリス海軍重巡「エクセター」および、駆逐艦「エレクトラ」、アメリカ海軍駆逐艦「ポープ」を撃沈している。この海戦とバタビア沖海戦の勝利によりジャワ島近海の制海権を日本海軍が掌握したことから、孤立したオランダ領東インドを守備していた連合軍は降伏することとなる。
余談ながら、スラバヤ沖海戦後に漂流している連合国兵士の救助活動が雷、電と始めとした各艦で行われているが、那智は救助した捕虜に対してかなり冷淡な対応(他に駆逐艦「曙」も漂流者を無視していた)をしていた。「対応に困るから海に叩き落してもいいでしょうか?」と、甲板士官が何度か意見具申していたという副長の証言が残されている。
1942年3月に那智は北方方面へ配置換えとなり、第五戦隊旗艦を妙高に戻すと、佐世保での修理及び改造を経て4月に厚岸に入港して第五艦隊旗艦となった。5月には北太平洋からの長距離爆撃対策と、ミッドウェー海戦支援の陽動を兼ねたアリューシャン作戦に参加している。この作戦でダッチハーバーのアメリカ海軍基地爆撃と、アッツ島およびキスカ島の占領に成功する。
翌年3月にアッツ島占領部隊への増援輸送部隊を高雄型重巡摩耶ともに率いて進出するものの、それを阻止しようとするアメリカ艦隊との間で遭遇戦(アッツ島沖海戦)が発生している。この海戦は両軍ともに航空機および潜水艦の活動がない典型的な水上戦闘であり、戦力は日本側が優勢であったものの、消耗や損害を嫌った第五艦隊司令部が長距離での砲雷撃戦に終始したことと、空襲の危険性があったことから輸送作戦を中止して撤退している。これによりアッツ島への増援は結局行われず(後にアッツ島玉砕の原因の一つとなる)、増援阻止というアメリカ側の作戦目標は達成されることとなった。この海戦のあと、第五艦隊司令長官は戦意不足の故をもって更迭された。
この後、北方方面では大規模な海戦は発生していないが、1943年9月に那智は米潜水艦から夜間雷撃を受けている。魚雷が2発命中したものの、2発とも不発弾だったため、わずかな損傷と若干の浸水のみだけであった。
マリアナ沖海戦後の1944年6月に、サイパン島突入作戦が立案された際に那智は第五艦隊を率いて内地に戻り出撃準備を行っているが、作戦は中止されている。
1944年10月15日、台湾沖航空戦での過大な戦果報告により大損害を与えた(と考えられた)米機動部隊(の残存艦)の掃討と味方機搭乗員の救助のため、重巡洋艦足柄などとともに瀬戸内海から出撃する。だが実際には残敵掃討どころか、米側は罠(損傷艦で囮艦隊を編成し、それに喰いついてくるであろう日本艦隊を返り討ちにしようというもの)を仕掛けて待ち構えていた。敵の通信の傍受や敵機の動きから、米機動部隊が依然健在と判断した第五艦隊司令長官・志摩清英中将は全艦隊の北上を命じ、那智以下第五艦隊はすんでのところで虎口を脱した。
レイテ沖海戦では米軍攻撃のため第二遊撃部隊(上記の第五艦隊のこと。いわゆる志摩艦隊)旗艦として出撃したものの、先行する西村艦隊と指揮系統が全く違った(西村艦隊は栗田艦隊の一支隊、志摩艦隊は南西方面艦隊の指揮下にあった)ことから情報交換が行われず、進撃の歩調が合わせられなかった。そのためスリガオ海峡に到着したときには西村艦隊は既に壊滅しており、大破した重巡最上と、辛うじて脱出に成功した駆逐艦時雨の2隻のみが残存していた。絶望的な状況下で那智は足柄とともに雷撃戦を敢行するものの、これは電探に反応した島の影を敵艦と誤認したものと思われる。この雷撃後に最上(何とか自力航行可能だった)と衝突した那智は艦首を損傷し、スリガオ海峡突入を断念してやむなく撤退している。
レイテ沖海戦後の第五艦隊は多号作戦によるレイテ島への輸送作戦を指揮するが、敵制空権下のために損害が続出することになる。10月29日には米機動部隊から発艦した艦載機による空襲を受けて、魚雷が誘爆するなどの被害を受けている。11月1日には那智所属の水上偵察機がセミララ島の浅瀬で座礁している駆逐艦早霜を発見し、乗組員から、早霜の救援活動に向かったが消息を絶った指揮下の第十八駆逐隊の駆逐艦不知火の最後などを聞き出している。
11月5日、マニラ湾でアメリカ空母「レキシントン」からの艦上機による空襲を受け、多数の魚雷と爆弾を受けて沈没する。この空襲で大型艦であった那智は格好の標的となっていたが、艦長・鹿岡圓平大佐が「ここで敵機を引きつければ、必ず神風特攻隊が仇を討ってくれるぞ!」と鼓舞激励し、援護のために単艦駆けつけた曙と共に奮戦するも、弾薬庫の誘爆により船体が3つに折れて沈没した。
1945年1月20日、除籍。
太平洋戦争開戦からレイテ沖海戦まで生き抜いた妙高型重巡洋艦の、最初の喪失艦である。