背景
1942年2月27日から始まったスラバヤ沖海戦にて連合国側(ABDA艦隊)は、劣勢の戦況を打破すべくインドネシア攻略に乗り出した日本陸軍輸送船団への攻撃に出撃する。しかし、護衛の日本海軍艦隊の反撃により司令長官カレル・ドールマン少将は戦死、ABDA艦隊も大損害を受けていた。
辛うじて戦線離脱に成功したアメリカ海軍重巡洋艦ヒューストン、オーストラリア海軍軽巡洋艦パース、オランダ海軍駆逐艦エヴェルトセンの3隻はバタビアへ入港する。しかし、日本軍の攻撃が迫っていたことから、南方への脱出を企図して僅か半日ほどで出港する。この際、エヴェルトセンのみ準備が間に合わず、後から追いかける形で出航した。
一方、日本軍は蘭印作戦発動によるジャワ島攻略に乗り出しており、今村均陸軍中将が率いる第16軍が50隻以上の輸送船団に乗船し、第五水雷戦隊(旗艦、名取)の護衛と第七戦隊の支援を受けて出撃していた。ジャワ島上陸作戦を開始したのは3月1日午前0時、奇しくも脱出を図る3隻の連合国艦艇の進路上に上陸地点を定めていた。
海戦
先行していた2隻の巡洋艦は進路上に日本軍の大規模な輸送船団を発見し、付近に護衛部隊が存在しないと判断して攻撃を決断する。しかし、実際には駆逐艦による哨戒網が張られており、2隻とも駆逐艦吹雪に発見されていた。吹雪から報告を受けた五水戦司令部は、哨戒のために散っていた指揮下の駆逐隊と最上、三隈に集結命令を出す。
続々と集結する日本艦隊に気付くことなく、2隻の巡洋艦は輸送船団への攻撃を開始するが、遠距離砲撃であったため命中弾は無かった。砲撃中にようやく吹雪の追跡を受けていることに気付いたものの、遅れていたエヴェルトセンとの同士討ちを恐れたことから対応が遅れ、至近距離から吹雪の砲雷撃を受けることになる。更に回避行動により混乱している隙に輸送船団の間に煙幕が張られたことから輸送船団への攻撃が不可能となり、五水戦の包囲下に置かれることとなる。
五水戦所属の駆逐艦は吹雪型や睦月型、神風型など旧式艦で編成されており、重巡であるヒューストンと軽巡のパースであれば強行突破も不可能ではなかった。しかし、スラバヤ沖海戦やそれ以前に受けた損傷による消耗と、戦場が幅25km程度かつ水深の浅いスンダ海峡であったことから身動きが取れず脱出は出来なかった。
水雷戦隊の数度にわたる波状攻撃と、戦場に到着した最上と三隈の砲雷撃戦を受けて2隻は力尽き沈没する。遅れていたエヴェルトセンはヒューストンとパース轟沈に気付き、進路を変更して離脱を図るものの発見されて攻撃を受ける。煙幕を張りつつ必死に逃走を続けたが、近くの島に座礁して行動不能となり後に爆発して失われた。
海戦後
同日昼頃にスラバヤ沖方面で続いていた海戦の結果、ABDA艦隊の残存艦も撃沈し、ABDA艦隊の主力は壊滅する。スラバヤ沖海戦前に損傷で退避した艦を除けば、連合国側で生還できた艦は殆ど無く、これにより東南アジア方面の制海権は日本軍が握ることとなる。
同士討ち
海戦の最中、輸送船団の護衛をしていた小艦艇に魚雷が命中して転覆したのを皮切りに、次々と輸送船に魚雷による被害が続出し、更には回避中に座礁して行動不能になる輸送艦も出た。また、上陸部隊司令部が座乗していた揚陸艦神州丸も大破着底し、今村中将も3時間に渡り重油まみれの海上で漂流する羽目になる。
海戦直後に日本海軍で行われた調査により、
- 連合軍艦艇から魚雷が発射された形跡も捕虜からの証言もない
- 損傷の度合いが日本海軍極秘兵器酸素魚雷級の爆発によるもの
- 最上が発射した魚雷のうち命中が確認できなかったものがそのまま進んだ場合、輸送船団への被雷時刻と方向が計算上一致する
- 陸軍上陸地点付近で酸素魚雷の残骸が発見
という事実が突き止められ、長大な射程距離を持つ酸素魚雷による同士討ちと判明した。
この結果に護衛隊司令部は総出で謝罪に出向いたが、人格者として知られる今村中将は「連合国側の魚雷艇か潜水艦、もしくは航空機からの攻撃によるもの」という形で収めることを提案し、事を穏便に決着している。その後五水戦司令は、魚雷を使用する際は射線方向の延長線上に味方が居ないことを確認する重要性を報告に記している。