最上(重巡洋艦)
1
もがみ
最上型軽巡洋艦(後に最上型重巡洋艦)のネームシップ。
アジア太平洋戦争開戦時には南方に投入され、インドネシア攻略戦時に発生したバタビア沖海戦にて、敵艦隊に向けて発射した魚雷が命中せずにそのまま味方の輸送船団に侵入。先述の誤射事件に発展させた。
直衛についていた海軍掃海艇1隻および輸送船1隻撃沈、陸軍揚陸艦「神州丸」を含む3隻が大破着底。
1942年にはミッドウェー海戦に投入されたが、「三隈」との衝突により艦首大破。さらに度重なる米軍の攻撃で多数の艦上の構造物と乗員を喪失する。
本土に回航された最上は、修理と沈没した空母4隻の補填を兼ねて、航空巡洋艦への改装が行われる事となった。翌年4月に戦線復帰するも、肝心の航空機は機体・乗員の確保に難航し、定数11を満たした事は一度も無かったと言われている。
最後の作戦参加は1944年のレイテ沖海戦で、いわゆる「西村艦隊」に組み込まれてスリガオ海峡に突入するも、米軍の激しい迎撃により部隊は壊滅し、最上も満身創痍の状態で離脱する。
そこに後続「志摩艦隊」の重巡「那智」が追い付いてしまい、これと衝突。さらに米軍の追撃が加わった事でついに航行不能となり、志摩艦隊中の駆逐艦「曙」に生存者を移乗させた上で雷撃処分が行われる事となった。10月25日、除籍。
なお、那智も衝突によって艦首を切断する大破をしており、それを理由として志摩艦隊はスリガオ海峡への突入を取り止めている。
その時点でのスリガオ海峡は、真珠湾攻撃による損傷から復帰してきた艦を含む大艦隊が有利な陣形で待ち構える魔窟と化しており、志摩艦隊が突入していたとしても間違いなく西村艦隊の二の舞にしかならなかった。
それを考えると、両者に多大な損傷を負わせた衝突は、代償に那智ら志摩艦隊の命を守ったとも言えるのかもしれない。
関連記事
親記事
兄弟記事
コメント
コメントが未記入です