ここでは史実での扶桑型戦艦について取り扱う。
『アズールレーン』に登場する扶桑型は扶桑型(アズールレーン)を参照。
概要
金剛型巡洋戦艦に引き続き建造された、日本で最初の超弩級戦艦である。
しかしながら、金剛型と同様、扶桑型の設計はイギリスから輸入した設計を参考とした面が多く、建艦技術を日本自身のものとしたとは言い難かった。
また主砲装に起因すると思われる問題を有しており、防御を犠牲にして攻撃に重点を置きながらも、その攻撃力を発揮できなかったということから、欠陥戦艦と呼ばれたことで知られている。
同時期の戦艦はクイーン・エリザベス級(英)やペンシルヴェニア級(米)、プロヴァンス級(仏)、カイオ・ドゥイリオ級(伊)、ケーニヒ級(独)、インペラトリッツァ・マリーヤ級(露)など。
扶桑型は主砲として45口径35.6㎝砲12門を連装砲塔6基に搭載し、金剛型と比べて砲塔基数が大幅に増加しているものの、
船体長は金剛型よりも短くされていたため、上部構造物の配置は非常に窮屈なものとなった。
(※金剛型は巡洋戦艦として建造されたため、高速力を得やすい縦横比の大きな船体を有していた。)
扶桑型が14インチ砲12門艦となった背景には、日本海軍の主要仮想敵国であったアメリカが、14インチ砲10門搭載ネバダ級や同12門搭載のペンシルヴェニア級を建造しており、これらの戦艦との対抗上、主砲門数を減らすことは受け入れがたいという事情があった。
主砲塔配置に関しては、主砲門数の増加に対して砲塔基数の増大を回避するため、英ヴィッカーズ社からの日本向け提案書には三連装砲塔搭載案があったが、
日本海軍は「命中率や機構的信頼性を考慮すれば連装砲式が望ましい」とする独自の判断に基づき、主砲塔6基を中心線上に配置することとした。
(※扶桑型の設計時にはすでに超弩級艦時代が到来しており、全主砲塔を中心線上に置くことが望ましいとされていた。)
(※連装砲塔形式が望ましいとされた一因として、英国式の尾栓形状は水平開閉式であったため、三連装化した場合には装填機構が左右非対称となり、揚弾機の配置が困難となることが予想されたからとする意見がある。)
こうした配置は、独立して旋回可能な砲塔を増やすことで、指向可能な目標数を多く確保できるという目論みもあっての事であったが(主砲塔を6基搭載した理由として、交互射撃時に公算射撃に必要な門数を確保するためとする意見も存在する。なお後述の通り、新造当時は12門の斉射は困難だった。ただし交互撃方でも、当時公算射撃に最低限必要とされていたらしい5~6門の発射と言う基準はクリアしている)、
公試での主砲横斉射実験時には、爆炎が照準を妨げたり、爆風の衝撃で船体が捻じ曲がるという、初期設計の甘さを露呈する結果になった他、
当時の他の日本戦艦にも言えることだが、搭載砲の動力機構が水圧を利用する形式であったことが災いし、一斉射撃時には発砲の反動吸収に動力の大半を要し、発射速度や旋回能力が著しく低下するという欠陥が判明しており、以後主砲発砲は交互射撃が主流となった。
(砲熕公試ではブラストスクリーンの装備などの対策が挙げられているが、他に問題はあまり報告されておらず、演習で好成績を収めていることから、爆風の影響は問題ない範囲であったという意見もある。)
また砲塔が多数ある分だけ防御範囲は長大となったが、武装重量に多くを要して防御重量は小さくせざるを得なかったため、
装甲厚は超ド級戦艦のアイアン・デューク級などと同等だったが、ネバダ級やケーニヒ級などと比較すると舷側装甲などが劣っていた。
その後は度重なる改修によって徐々に問題点を是正していったが、
詰め込み過ぎた設計のために拡張性が乏しく、満足のいく改装が施せなかったのも扶桑型が欠陥戦艦と呼ばれる所以である。
本来は4隻建造する予定だったが、3番艦予定の伊勢が予算不足のために建造が遅れに遅れ、お陰で扶桑型の欠点をある程度克服した伊勢型として改めて就役した。
ただし根本的な問題は大和型まで解決していない。
なお、この4隻の艦名は
からそれぞれ名付けられており、当時どれだけ期待されていたかがよく分かる。
見分け方
竣工時は二艦とも瓜二つだが、艦尾のスターンウォークの有無で区別可能(ある方が山城、無い方が扶桑)。
第二次改装後は、扶桑は三番砲塔が前向きに、山城は後ろ向きについている点で区別が可能。
また、扶桑は上記の改装により、不安定な外観の艦橋を持つことになってしまったため、この点で二艦を完全に見分けることができる。
余談
速力についてだが、実は日本海軍の戦艦はもとより、他国の戦艦と比べてもさほど遅くはない。
当時の戦艦は大体24~25ノット(扶桑型は24.5ノット、因みに太平洋戦争中の長門が25ノット)のモノがほとんどで、新鋭艦である大和型(日)、サウスダコタ級(米)、キングジョージ5世級(英)も概ね27~29ノット程度であり、30ノットを超えられた戦艦は数えるほどしかいない。
むしろダンケルク級やアイオワ級のように戦艦でありながら30ノット以上の速力を出せる方が珍しいのである。
竣工時の扶桑型の速力の22.5ノットは当時の戦艦では優速の部類に入る。(ネバダ級で21ノット程度。)
実際、問題となったのは機関室が前後に分かれており、後の改装で大型の機関を積むスペースが充分にないことにある。
山城の艦長たちの記録によれば、「長門達と艦隊行動をとっても支障がなかった」「主砲斉射を行っても特に異常は見当たらなかった」という記録があり、実はいうほど欠陥ばかりでもないのかもしれない。
扶桑型の問題点は山城の進水前に発覚したため、実は山城にも伊勢型同様の改善を施す案もあった。だが当時の戦艦運用では同型艦二隻1セットによる運用を前提としていたため、扶桑の相方として山城はわざと扶桑型の欠点を残したまま建造続行されたという話もある。
現代においては、その特徴的な艦橋がインパクト抜群であるためか、海外の軍艦ファンから高い人気を誇る一面もある。
その人気は世界最大の戦艦であった大和型戦艦にすらなんら劣らぬ勢いである。
同型艦
No | 艦名 | 工廠 | 起工 | 進水 | 竣工 | 戦没 |
一番艦 | 扶桑 | 呉 | 1912/03/11 | 1914/03/28 | 1915/11/08 | 1944/10/25 |
二番艦 | 山城 | 横須賀 | 1913/11/20 | 1915/11/03 | 1917/03/31 | 1944/10/25 |
関連タグ
日本初の超弩級艦:金剛型巡洋戦艦