概要
「満潮」は藤永田造船所において建造され、1935年11月5日に起工、1937年3月15日に進水ののちに同年10月31日に竣工した、朝潮型駆逐艦の3番艦。初代艦長は、吹雪型駆逐艦・暁の前の艦長でのちに朝潮と運命を共にする佐藤康夫中佐(当時)である。
僚艦を相次いで失う
初陣は1942年2月、バリ島攻略に伴って発生したバリ島沖海戦である。本艦はアジア太平洋戦争勃発前に朝潮・荒潮・大潮とともに第8駆逐隊を組成しており、このバリ島沖海戦でも8駆を組んで参加した。輸送船の揚陸作業が終わり次第退避することになっていたが、作業が長引き、本艦はやむなく朝潮と大潮を現場に残し、荒潮とともに退避した。
そこへ米蘭連合艦隊が突入し、朝潮と大潮がわずか2隻で奮闘し、一度は圧倒的優勢な敵艦隊の前に徐々に苦境に立たされつつあったところへ、本艦は荒潮とともにすぐさま救援に取って返し、4姉妹力を合わせて敵艦隊撃退に成功したのだった。この際、救援に来た満潮と荒潮は挟撃を受ける形になってしまい、満潮は米海軍の旧式駆逐艦相手に多数被弾、大破、航行不能となる。それでもこのまま漂流しつつ哨戒にあたることにした本艦ではあったが、荒潮が曳航しつつ退避する途中、さらに敵B-17爆撃機の空襲を浴びて大浸水、これを機に日本海軍は、ダメージコントロールに非常に熱心に取り組むようになっていった。
蛇足だが、このバリ島沖海戦で満潮に猛攻撃を浴びせ大破に至らしめた米駆逐艦の1隻である「スチュアート」は、のちに日本に接収され第102号哨戒艇となっている。
その年の11月、一度修復された本艦はさらに鼠輸送作戦中に敵機の攻撃を受けて中破し、内地に戻され、翌年11月まで横須賀で修理を受けることになるが、この間に8駆の僚艦3隻が全滅。1隻だけ残された満潮は、第24駆逐隊(涼風・海風)に編入されるが、そちらでも僚艦を相次いで失い、続いて第4駆逐隊(野分・朝雲・山雲)に編入され、この編成でレイテ沖海戦に挑む。
ああ無情・・・敵艦の流れ弾に沈む
このレイテ沖海戦が満潮最後の戦いになった。
1944年10月25日未明、レイテ湾入り口に差し掛かった西村艦隊に対し、米駆逐艦隊は本格的な雷撃戦を開始。満潮は山雲・朝雲・時雨とともに、巧みな艦隊運動により魚雷を回避し続けたが、進路をサマール島(の中心都市・カトバロガンがある方向)に戻し、単縦陣へと隊列調整をしているところに左舷方向からさらに多数の魚雷が襲来。緊急一斉回頭の号令が出るも時すでに遅く、時雨は逃げ切ったが、山雲が魚雷命中により轟沈してしまう。朝雲もまた艦首を切断され漂流状態となり、満潮も左舷機械室に魚雷を受け、一度航行不能となってしまう。懸命の修理作業によりこれを脱した満潮は、よろめきながらも朝雲と共に南へと退避行動を開始したが、そこへ米駆逐艦ハッチンズが放った魚雷が命中、大爆発を起こして轟沈。ハッチンズのターゲットは別の艦だったため、流れ弾を浴びて沈んだということになる。乗員230名のうち、最後の艦長になった田中和生少佐ら数名が米軍に救助され、奇跡的に生還したことが戦後に確認されたほかは、全員戦死してしまっている。
水底に活路を見出した満潮の名
悲劇的な最期を遂げた満潮。その名は戦後、海上自衛隊の潜水艦として2度受け継がれ、2代目にあたるSS-564「みちしお」は奇しくも初代と同じ「あさしお」型潜水艦(旧)の3番艦だった。
そして3代目が現在活躍中の「おやしお」型潜水艦(新)の2番艦・SS-591「みちしお」である。こちらでは陽炎型駆逐艦の黒潮を初代に持つ、SS-596「くろしお」が同型の7番艦として在籍している。