概要
1922年11月、日本海軍の5500トン型軽巡洋艦である長良型の5番艦として神戸川崎造船所にて建造された。
その後は第2艦隊第5戦隊や第1艦隊第3戦隊、第2艦隊第2水雷戦隊に駆逐艦隊の嚮導艦として配置され、潜水戦隊の旗艦も務めた。
呉式二号二型射出機(艦橋格納庫から繋がる滑走台の強化版)の実験モデルとしても使用され、鬼怒で運用テストされたこの水偵射出機は後に単体の射出機である呉式二号三型改一として実用化され5500トン型軽巡各艦に装備される事となる。また、鬼怒と阿武隈はその上位版である二号五型射出機も搭載した記録が残っている珍しい艦でもある。(他の艦は二号三型止まりだった可能性が高い。)
レイテ沖海戦で没する
1944年、数度に分けて対空兵装の強化改装が行われ、5番主砲の撤去、7番主砲の撤去と跡に12.7cm連装高角砲を配備、水偵射出機の撤去と共に25mm三連装機銃を配備、25mm機銃を三連装・連装・単装各種の多数設置などが行われた。
なお、鬼怒への酸素魚雷搭載については計画自体はあったものの魚雷発射管の換装や改造も行われず、戦没まで九〇式空気魚雷を使用し続けていた。
5月末から6月にかけて渾作戦に参加。渾作戦は成果無く終わる。
10月18日、捷一号作戦により栗田艦隊とともにリンガ泊地から出撃し、途中のブルネイでレイテ島への兵員輸送「鈴二号作戦」に従事するため重巡洋艦「青葉」、駆逐艦「浦波」からなる第16戦隊と共にマニラへ向うが、その途中で青葉がアメリカ軍の潜水艦ブリームの雷撃により損傷。鬼怒は航行不能となった青葉を曳航してマニラに到着した。
その後は浦波と共にミンダナオ島カガヤンからの歩兵第41連隊340名を乗せ兵員輸送を開始。無事にレイテ島オルモックに送り届けるものの、その帰りにパナイ島とマスバテ島の間に達した頃からアメリカ第7艦隊の護衛空母搭載機による攻撃を受け、まず浦波が沈没。続いて鬼怒も航行不能となり、1944年10月26日17時30分頃に沈没した。
後続の兵員輸送艦が2隻の生存者を救助し、輸送艦第9号が鬼怒乗組員129名、輸送艦第10号が第16戦隊司令官左近允尚正中将以下350名以上を救助した。