長良(軽巡洋艦)
ながら
※「艦隊これくしょん」に登場する艦娘については、「長良(艦隊これくしょん)」を、「アズールレーン」の方については「長良(アズールレーン)」を参照のこと。
本艦は1920年に起工、1922年に就役した長良型軽巡洋艦のネームシップ。
最大速36ノットの高速艦である。うしぶか海彩館の[軍艦長良記念館]に記載されている公式資料に拠れば、武装は「14cm砲7門、8cm高角砲門、初めて61cm発射管を搭載」とある。また零式三座水上偵察機、90式2号2型水偵搭載との記述もある。
アジア太平洋戦争時にはすでに就役から20年近く経ていたがミッドウェー海戦、南太平洋海戦、第二次・第三次ソロモン海戦にも参加した。第三次ソロモン海戦では戦艦霧島や駆逐艦夕立・綾波に比べて目立たないながらも2度の夜戦で駆逐艦1隻大破、1隻撃沈の戦果を上げている。
また1943年末クェゼリンにおいて空襲を受けた際には前部魚雷が誘爆して多数の死傷者を出した。軍艦長良記念館所蔵手記 〔天草の沖〕]によれば、「艦内電源が止まって主砲が外舷を向いたまま動かなくなった。その時航海長として乗務していた海軍少佐・小暮正一の『旋回できなくても撃てます』という進言に西村友晴砲術長が従い、射撃を敢行したところ、米機に対する牽制の効果があったらしく沈没を免れた」とある。西村砲術長は後に幕僚長となったが、小暮航海長はクローカーに撃沈された際に水兵にドラム缶を譲り、長良と運命を共にした。
1944年8月7日、沖縄からの輸送船の護衛任務を終え、鹿児島から佐世保に向かう途中、天草諸島牛深の沖合で米潜水艦「クローカー」から1発目0:22、2発目0:40の2発の雷撃を受け沈没。「船体が箸のように折れ曲がり、水柱が36mほども上がった」と、目撃していた漁師が証言している。搭乗員583名のうち235名は地元漁師らにより救助されたが、348名は本艦と運命を共にした。水深127mの砂地の海底で、船首を上に向けて沈んでいる姿が確認されている(ちょうど大島の影になっているため、牛深からは沈没地点を望みにくくなっている)。クローカーの乗員はこのときの様子を「長良は潜水艦を警戒して高速でジグザグ航行していたが、魚雷が進んだコースに『運良く』舵を切ってくれた。偵察機の哨戒も駆潜艇の反撃も貧弱であった」と記録している。また撃沈時の様子は映像でも記録され、ワシントンで上映された(〔軽巡二十五隻/原為一[編]〕)。
ちなみに、長良型6隻の中で日本本土近海で戦没したのは本艦のみである。
その後しばらく、救助者は牛深と不知火海を挟んだ反対側・出水海軍航空隊の武道場に移されていた。密かに話を聞きにいった下士官によれば「天草まで来ればもう大丈夫。『酒保開け』と皆で一杯やっているところをやられた」と述べていたという。
熊本県天草市牛深町、鯔山の頂上に地元で商店を営んでいた佐々木ツルが行商で得た私財や寄附により建てた慰霊碑がある。かつては区の共同墓地にあったが、苦情を受けて昭和45年10月、現在地に移設した由。
現在は毎年8月7日、社会福祉協議会により慰霊祭がとり行われている。これはよく牛深港に寄港していた長良に乗船したいと言ったツルの娘・カナエの要望を伝え聞いた乗員が特別に招待し(当時の艦長はカナエの学年から、米池三郎大佐だったと推測される)、土産にキャラメルなどを持たせるなどして歓待し、強く母娘の印象に残ったためだといわれている。
カナエは夭逝したが、ツルと長良に関しては、以下の逸話も残されている(〔天草灘にひびけ鎮魂の譜/島一春[著]、河出書房新社〕より)。
- 長良沈没地点は〔軍艦曽根〕と呼ばれ、漁礁となっていた。沈没地点での海上供養の際、ツルは懇意で地元の漁師に連れて行ったもらったのだが、この漁船はよく大漁に恵まれた。
- 沈没時の艦長の夫人・中原ふき江氏が献花をした際、いつもであれば軽さのために潮に乗って流れてしまうはずの花や煙草が、全て海中に飲み込まれた。
- 昭和28年、初めて長良の供養をした二日後、ツルは宇城市三角港から熊本市にトラックの荷台に載せてもらって行商に向かっていた最中、川尻で事故に遭う。事故の瞬間「立派な軍服を着た海軍の軍人さんが何十人何百人も立っていた」夢を見たツルはほぼ無傷だったが、同乗者と運転手は死亡した。