概要
水雷戦隊の旗艦に適した高速軽巡洋艦として1920年12月14日に三菱造船長崎造船所で起工。1922年2月16日 に進水し、1922年9月15日就役。艦尾の航空作業甲板の拡張方向が他の姉妹艦と違ってなぜか反対(左舷側を拡張)になっている。
第2艦隊第2水雷戦隊(司令官館明次郎少将)や第2遣支艦隊第5水雷戦隊(司令官原顕三郎少将)や第2南遣艦隊第16戦隊(司令官 原顕三郎少将)など数々の水雷戦隊の旗艦を務め、戦前から中国方面や南方方面などに派遣艦隊の一角として参加しており、戦中もインド洋警戒、上陸作戦援護、後衛部隊の護衛などかなり重要な役回りを担っていた。
アンボン灯台近海にてアメリカ潜水艦トートグの執拗な雷撃を受け、後部切断に戦死7名、負傷12名を出した。ただしトートグに二回発見されているもののどちらも14cm単装砲で海面に攻撃を加え撤退させている。その後はシンガポールで応急修理後、舞鶴にて本修理と改装を受ける。この改修時に、7番主砲を12.7cm連装高角砲に換装、5番主砲を撤去、前部魚雷発射管2基を撤去し前部ウェルデッキを閉塞、後部魚雷発射管2基を四連装(酸素魚雷)発射管に換装の他、機銃の多数増備などが行われた。魚雷発射管の撤去及び換装については、従来は行われなかったとの説があったが、現在では行われたとの説が有力である。
その最期
修理を終えた後の1944年8月18日、比島からパラオに作戦輸送を行っていたが、サマール島東方水域で米潜水艦「ハードヘッド」 の雷撃を受け沈没した。
久保田智艦長以下550名(便乗者含む)が戦死。松永市郎次席将校以下生存者183名はカッター(短艇)3隻に分し、13日間300海里を漕ぎ続け、13日目の朝にミンダナオ島スリガオに入港した。
その中のある士官は五十鈴と足柄にも乗り込むが撃沈され漂流、しかし鮫の出る海域を泳ぎ切って生還。戦後は警察幹部や会社社長にまでなるが…一部では乗艦の運を吸っていたのではとさえ揶揄されている強運の持ち主である。
また前述の松永次席将校は、このカッター行を『先任将校-軍艦名取短艇隊帰投せり』などの手記にまとめている。本艦の生き残り乗員の生還劇は戦後米国にも伝わり、松永次席将校は本艦戦没時のハードヘッドの艦長と文通するようになった。この文通から生まれた出版物が『米潜水艦ハードヘッドvs軍艦名取短艇隊』『次席将校-「先任将校」アメリカを行く』である。
ちなみに歴代艦長には後の戦艦「武蔵」艦長猪口敏平がいる。だが「奇人」有地十五郎 、「南洋王」中原義正などとても個性的な面々である。