概要
サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle)はイギリスの小説家。なお、Sirの称号は1902年にイギリス軍を擁護するパンフレットを出版し、国家の名誉に貢献したことで与えられたもの。
1859年5月22日生まれ。イギリス スコットランド エディンバラ出身。
1930年7月7日没。享年71歳。
世界一有名な名探偵シャーロック・ホームズの生みの親で、ミステリーというジャンルの礎を築いた一人。
本業は医師だったが、それが儲かっていたらホームズは生まれなかった。
「緋色の研究」に始まるシリーズの大ヒットはドイルに巨万の富をもたらし、ホームズは名探偵の代名詞となり、現代においても数多の熱狂的ファンを生み出し続けている。
しかしドイルは”ホームズ物”を「所詮は娯楽小説に過ぎない」と見做し、収入のためと割り切って執筆していた。ついには書くのが嫌になって、作品の中でホームズの抹殺を図ったものの、ファンからの抗議と出版社からの要望に負けて復活させたという逸話が残る。
ドイル自身は、より高尚と考えた歴史小説での成功を望んでおり、いくつかの作品を出したが、残念ながらホームズほどの成功を収めることはできなかった。
経歴
両親
ドイルの母メアリーは、遡ればプランタジネットに繋がる家系の出であることを誇りにしていた。そのためメアリーは、息子アーサーに騎士としての精神を叩き込み、常に紳士として振る舞うよう言い聞かせて育てた。この教育方針が、後々彼の性格形成に大きな影響を与えることになる。
父チャールズの家系は美術に才能のある一族で、祖父ジョンは風刺画家となり、その長男ジェームズは画家、次男リチャードはイラストレーターで、特に魅力的な妖精画で知られている。三男ヘンリーも美術館の館長として成功をおさめたが、五男であるチャールズはこうした才能を発揮できず、遂には失望からアル中に陥って精神病院に入院してしまった。そのためドイル家は貧しかったが、アーサーは裕福な伯父の支援により、寄宿学校ストーニー・ハースト校へ入学することができた。
学生時代
アーサーはスポーツ万能で、高校ではクリケット部の主将も務めるなど活躍したが、一方ではストーニーハーストの旧態依然とした体罰主義や保守的な教育方針にうんざりし、反発を覚えていた。
やがて医師を志すようになったアーサーは、エジンバラ大学の医学部に進学。ここで二人の個性的な恩師と巡り合った。シャーロック・ホームズのモデルとなった外科のジョウゼフ・ベル教授と、チャレンジャー教授のモデルとなったウィリアム・ラザフォード教授である。
特にベル教授からは「ただ見るのではなく、観察することの重要性」を教わった。ベル教授の、患者自身が説明するよりも早く、その経歴までも言い当ててしまうという異能は、この鋭い観察眼によるものだった。
アーサーは勉学の傍らスポーツに励み、ボクシングやラグビーで鍛える一方、読書にも没頭した。この頃の経験が、後の小説家ドイルの下地を作り上げたと言える。
また実家への送金のためアルバイトに励み、捕鯨船に乗り込んだのもこの頃である。スポーツで培われた体力がここで大いに役立ち、アーサーは捕鯨を男らしい仕事として喜び、称賛した。
はやらない医者と売れっ子作家
医師の資格を取得し、大学を卒業したアーサーは船医としてスタートを切るが、アフリカ航路でマラリアとの戦いに苦しみ、危うく自分も死にかけたため退職。大学の同窓生と共同で診療所を立ち上げるが、アーサーの外科ははやらず、やがて友人と決裂してポーツマスで独立開業する。
しかし同地では医者余りの状態にあり、アーサーは常にヒマで貧乏だった。そこでこの時間を活用して小説を大量生産し、片っ端から雑誌社に送りつけた。ほとんどは相手にされなかったが、やがてぼちぼちと買い取ってもらえるようになった。
シャーロック・ホームズの第一作として有名な『緋色の研究』(Study in scarlet)もこの頃の作品で、ビートン誌に掲載されたが反響はあまり得られなかった。
このポーツマス時代に医院を訪れた数少ない患者の一人、ホーキンズの姉ルイーズと、アーサーは1885年に結婚することになる。患者は運ばれてきた時点ですでに手遅れの状態にあり、残念ながら救うことはできなかったが、最後まで懸命に手を尽くしてくれたアーサーの姿に、ルイーズは感動し、感謝していた。
アーサーの小説が初めてまともに評価されたのは、ホームズ物ではなく「モンマスの反乱」を描いた歴史小説『マイカ・クラーク』だった。アーサーも自分の本分は歴史小説にあると信ずるようになる。この姿勢は生涯変わることはなかった。
その後、ホームズ物の第二作『四つの署名』がなかなかの好評を得るが、本業のほうは鳴かず飛ばずで、儲かるときいた眼科への転身を試みるも結局うまくいかなかった。とうとうアーサーは医業をあきらめ、本格的に小説家として身を立てていくことを決心。
こうして、すでに評価を得ていたシャーロック・ホームズを主人公とした短編シリーズがスタートする。
1891年からストランド誌で連載開始され、1892年に『シャーロック・ホームズの冒険』(The adventures of Sherlock Holmes)として出版された単行本は大ヒットを記録、アーサーは一躍人気作家、コナン・ドイルとして知られるようになった。
人気の秘密
ドイルの筆運びは簡潔でわかりやすく、場面や物語の展開は素早かった。それまでの小説では、主人公が部屋の真ん中から窓に行きつくまでに2ページほども掛かっていたが、ホームズは同じページがあればもう事件に乗り出していた。
奇矯なスーパー探偵ホームズと、相棒の紳士ワトソンのキャラクター性も大受けした。
このキャラクター人気をさらに押し上げたのがシドニー・パジェットによる挿絵である。ドイルの想像ではホームズは、鷹のように鋭く小さな目と鷲鼻の、どちらかと言えば醜男だったが、パジェットの描いたホームズはすっきりとした美男子で、女性読者が大量にファンレターを出す原因の一つになった。
シャーロック・ホームズの抹殺と復活
ドイルの元にはシャーロック・ホームズ宛の依頼状まで届くようになり、当初はドイルも、ワトソンの名義で丁寧な断りの返事を出していた。しかしもともと生活費目的で描いたホームズばかりをやたらと求められたドイルは、次第にうんざりしていった。
そこでドイルはまず、ストランド誌に対していきなり原稿料の大幅引き上げを申し出た。しかしこれはあっさり了承されてしまい、かえってやめるにやめられなくなってしまう。
仕方なくさらにホームズ物を書き続けたが、敬愛する母への手紙でも、ホームズ物をやめてもっと有意義な小説を書きたいと漏らし、せっかく食べていけるようになったのにと諫められている。
それでもいいかげん、本分たる歴史小説に専念したいという思いは抑えられず、とうとう1893年の暮れに発表した『最後の事件』(The Final Problem)において、ドイルはホームズをライヘンバッハの滝に葬ってしまう。
この幕切れに対する反響は凄まじく、もはや国民的ヒーローとなっていたホームズの死をイギリス中が悼んだ。ロンドンシティのビジネスマンたちは喪章を着けて出勤し、ドイルの元には「この人でなし」で始まる手紙が届いた。
ドイルはその後歴史小説を書き続け、こちらもそれなりの人気を得たものの、ホームズの復帰を求める声が絶えることはなかった。
1901年、戦争で患った腸チフスの後遺症に悩み、療養の目的でノーフォークの温泉を訪れたドイルは、そこで思いがけず軍医時代の友人、ロビンソンと再会する。ロビンソンからダートムアの魔犬伝説を聞かされ、好奇心の塊となったドイルは現地で資料を収集し、伝奇小説を執筆したいと考えた。
しかしいざ小説に仕立てようとしたとき、その主人公としてふさわしいのはシャーロック・ホームズしかいなかった。ドイルは仕方なく、ホームズがライヘンバッハで最期を遂げる以前の物語として『バスカヴィル家の犬』(The hound of the Baskervilles)を書き上げる。
- ドイルは当初、この物語をロビンソンとの共著にするつもりだったが辞退された。ドイルは代わりに小説の前文にロビンソンへの献辞を捧げ、原稿料の30%を渡している。
陰鬱な雰囲気漂うダートムアの描写、奇怪な魔犬伝説の伝承と雰囲気たっぷりのこの物語は、緻密に張り巡らされた二重三重の伏線によって盛り上げられる。何より8年ぶりに登場したホームズが見せる、相変わらずの推理の冴えにファンは熱狂した。しかし同時に、あくまでホームズはライヘンバッハで死亡したことになっており、復活ではなかったことを知って落胆もした。
それでも『バスカヴィル家の犬』は長編本格ミステリとして非常に優れた一本であり、後年繰り返し映像化が行われることになる。
1903年、収まることのないファンの声(と出版社からの要望)に抗しきれず、ドイルはとうとうホームズの復活に踏み切る。ホームズの最期を直接目撃したものが存在しないという描写がここへ来て功を奏し、名探偵は『空家の冒険』(The Adventure of the Empty House)でいとも簡単にロンドンへ戻ってきた。
ルイーズとジーン
1897年、ドイルの妻ルイーズは、この時代、まだ不治の病だった肺結核に臥せっていた。ドイルは妻の療養のために新たな家を建て、献身的に妻を看護し続けていたが、そんな日々の中で新たな恋人、ジーン・レッキーと出会う。
しかしルイーズを気遣ったドイルは、ジーンとの関係をプラトニックなものにとどめ、ジーンが世を去るまで10年間にわたって妻をいたわり続けた。
愛国心と騎士道精神
ドイルは熱烈な愛国者でもあった。この頃(19世紀末~20世紀初頭)はまだ戦争を国家対国家のスポーツとして捉える思想が残っていた時代でもあった。愛国心とスポーツマンシップに燃えるドイルは植民地戦争(ボーア戦争)に兵士として志願し、あえなく年齢を理由に落とされ、やむなく軍医として参加した。
1902年、ドイルはイギリス軍の残虐行為を非難する国内外の世論に対し、反論する小冊子を執筆、これが政府に評価され、時の国王エドワード7世からナイト爵を賜る。
ドイルは、小冊子の執筆は見返りを求めての行為ではなかったため、辞退しようと考えていた。しかし敬愛する母に相談したところ、国王陛下を侮辱するつもりかと叱り付けられたため、叙爵してサーの称号を名乗ることになった。
- ドイルの政治思想は保守的であり、母親の騎士教育がそれに拍車をかけていた。ドイルは明らかに不当な迫害を受けている弱者には手を差し伸べ、女性に対しては紳士的であり続けた。しかしその反面、最後まで帝国主義者であり続け、男性の領分を侵すとして女性参政権には反対し続けた。
名探偵コナン・ドイル
翌1903年、バーミンガム近郊で家畜が何者かに次々惨殺されるという事件が発生し、ジョージ・エダルジという男がその犯人として逮捕される。しかしこれはインド人の血を引くエダルジに対する人種的偏見から来る冤罪だった。一方的に有罪とされ、重労働刑を架されたエダルジは憤激し、仮釈放後の1906年に自らの身の潔白を訴える投稿を新聞社に寄せる。
この投稿を読んだドイルは事件に興味を持ち、事件の調査を開始、エダルジにも面会した。そしてかつて眼科医を志したドイルは、その知識からエダルジが強度の近視かつ乱視であることを見抜き、事件の状況から彼が犯人たり得る可能性はないと確信する。
ドイルはさらに綿密な調査を重ねて冤罪の証拠を集め、それらをまとめた書籍を出版した。これが契機となって政府も事件の再調査を決定するが、警察の隠ぺい体質を覆すことはできず、エダルジの完全無罪を勝ち取ることはできなかった。
憤懣やるかたないドイルは、この件をイギリスの歴史に残る汚点として厳しく批判している。
エダルジの事件が一応の決着を見、先妻ルイーズを看取ったドイルが、ジーンと二度目の結婚をした、その翌年。
1908年の暮れ、グラスゴーに住むマリオン・ギルクリストという老女が、無残な撲殺死体となって発見され、犯人としてユダヤ系ドイツ人のオスカー・スレイターが逮捕された。
スレイターは非常に素行の悪い人物で、事件の直後にギルクリストの部屋から盗まれたと思われるダイヤモンドのブローチを入質しており、そのうえ偽名を使用して出国していたため、警察の格好の標的となった。
実際にはブローチは盗品とは別物で、おまけに事件前に入質されたものだったが、人種差別による偏見はこの事件でも幅を利かせていた。
警察は事件の発見者を脅迫することさえ行った。きちんと調べられれば、すぐ無罪が証明されるだろうと考えてのこのこ戻ってきたスレイターは、あっという間に犯人に仕立て上げられ、死刑判決を受けて絶望の淵に叩き落とされる。
さすがにこの成り行きには世論の同情が集まり、辛くもスレイターは刑の執行直前に終身重労働刑に減刑された。
エダルジ事件で嫌気がさしていたドイルは、当初、この事件に関わるつもりはなかったものの、母親から叩き込まれた彼の騎士道精神は、哀れなスレイターを捨てておくことを許さなかった。結局ドイルは調査に踏み切り、1912年、調査結果をまとめた小冊子を出版してスレイターの冤罪を訴え、この事件にあらためて世間の注目が集まった。
こうした流れの中、良心の呵責に耐え兼ねた担当刑事、ジョン・トレンチ警部補が証拠のねつ造について告白。しかし裁判所も警察もこれを認めるどころか、トレンチ警部に圧力をかけ、解雇したうえ年金を打ち切るという暴挙に及ぶ。
あきれ果てたドイルはこの司法の腐敗ぶりを罵り、引き続き再審請求運動を行うが、門前払いの状況が続いた。
結局この事件は実に18年後となった1927年、スレイターの支援者たちがジャーナリストのウィリアム・パークを動かし、あらためて事件を世に問うたことがきっかけで解決へ向かうことになる。ドイルも協力したパークの著作はマスコミの報道合戦を呼び、批判を受けることを恐れたイギリス政府はスレイターを釈放。ようやく再審も行われ、スレイターは無罪を勝ち取った。
しかし補償金の額はあまりにも少ないもので、スレイターは彼の支援者たちに対する諸費用の返却を拒否。ドイルは手弁当で彼のために働いた人々への忘恩だとしてスレイターを批判している。
ロンドンオリンピックにて
ドイルの騎士道精神とスポーツマンシップは、イタリアのマラソン選手ドランド・ピエトリのエピソードでも知られている。
1908年7月24日、ロンドンオリンピックに出場したピエトリは、運悪くロンドンには珍しいほど上がった気温に苦しめられながらも走り続けていた。彼は1位ランナーとなったが限界が訪れ、スタジアムに入ったときには進む方向もわからなくなるほどの状態になっていた。
それでも競技を続けようとするピエトリに胸をうたれた係員たちは、何度も彼を助け上げた。結局ピエトリは4度倒れてそのたび係員に抱き起され、なんとか1位でゴールしたものの、2位でゴールしたアメリカチームに異議を唱えられ、失格となってしまう。
このとき、医師として参加していたドイルも、ピエトリの奮闘を見守り続けていた一人だった。ゴール直後に崩れ落ちたピエトリを抱きとめたドイルは、彼の姿勢に感銘を受けていた。エドワード7世の妻アレクサンドラ妃は、ピエトリに銀のカップを授与することを決定したが、ドイルはただカップを渡すのではなく、授与式を行うよう提案した。また、個人的に純金製のシガレットケースをピエトリに贈っている。
- 余談ながら、この大会でのマラソン競技の距離は、ウィンザー城からシェファードブッシュ競技場の26マイル、42km弱のはずだった。しかしアレクサンドラ妃が宮殿の庭をスタート地点とし、競技場のボックス席の前をゴール地点にするよう希望したため、385ヤード延長され、42.195kmという何とも中途半端な距離になった。このためアレクサンドラ妃はピエトリに対し、健闘を称えるばかりでなく、申し訳なく思うところがあったのかもしれない。このときの距離が、現在まで続くマラソンの競技距離のスタンダードとなっている。
晩年
ドイルは心霊主義への傾倒でも有名である。
ただし19世紀末から20世紀半ばに至るまで、心霊主義は最先端の科学として多くの学者が取り組んでいた研究対象であり、このことを以って医師・科学者としてのドイルを批判するのは誤りである。ドイルの心霊主義に対する興味はそれ以前からのものであり、ベル教授の薫陶に持ち前の旺盛な好奇心も手伝って、何でも見てやろうという気概に裏打ちされていていた。
ドイルが心霊主義に身も心も捧げるようになったのは最晩年の時期であり、身内を立て続けに亡くしたことが影響していた。特に息子キングスリーを亡くしたことは、彼の精神に大きなダメージを与えた。
- 妖精を撮影したとされる写真の真偽を巡り、ドイルが後々揶揄される原因となった「コティングリー妖精事件」もこのころの出来事である。
ドイルは持病の心臓病が悪化していたが、それにも拘らず心霊主義を守るための活動に駆け回り、体力を使い果たした。
1930年7月7日、ドイルは愛する家族に見守られつつ、静かにその生涯を閉じた。71歳だった。
世界中のファンから弔電が寄せられ、またドイル家へ送られる花束があまりにも多すぎたため、特別列車が仕立てられた。4日後に行われた葬儀は、霊の不滅を信じた心霊主義者らしく、涙のない明るいものだった。
その墓標には騎士らしく「鋼鉄のごとく真実で、刃のごとくまっすぐな」という言葉が刻まれた。
余談
- ドイルは若き日の経験から、捕鯨や漁業を「魂が躍るエキセントリックな経験だ」と述べている(この発言が、捕鯨に反対している海外の一部シャーロキアンを失望させていると言う証言がある)。また、世界最初のボディビル・コンテストに、審査員の一人として参加した事がある。
- モーリス・ルブランが『アルセーヌ・ルパン』シリーズで、ホームズとワトソンをマヌケな敵役として登場させたことにドイルが怒ったため、ルブランが慌ててエルロック・ショルメスとウィルスンに変えたという逸話がある。ただしドイル自身、『緋色の研究』の作中でホームズにデュパンとルコックの悪口を言わせている。
- 『名探偵コナン』の主人公・江戸川コナンこと工藤新一は熱狂的なホームズファン=シャーロッキアンという設定である。またコナンの名前は、コナン・ドイル、及び江戸川乱歩を由来としている。
代表作
シャーロック・ホームズシリーズ
『緋色の研究』1887年
『四つの署名』1890年
『バスカヴィル家の犬』1901年
『恐怖の谷』1914年
他、長短編合わせて60編
その他
『失われた世界(ロストワールド)』1912年
他多数
創作でのコナン・ドイル
コナン・ドイルを題材にした人物、またはモチーフにしたキャラクターが登場する作品。
- 『ラヴヘブン』
乙女パズルゲームの攻略キャラクター。
童顔だが実は鍛え上げた肉体の持ち主で、主人公からの勧誘に喜ぶ。
異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。
詳細はコナン・ドイル(文豪とアルケミスト)へ。
関連タグ
シャーロック・ホームズ ジョン・ワトソン モリアーティ教授 シャーロキアン