概要
代表作は『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』など。キャラクターデザイナーとしての代表作は『ドラゴンクエスト』シリーズなど。
愛知県名古屋市出身、生涯の大部分を同県清須市(旧西春日井郡清洲町)で過ごした。血液型はA型。かつての愛称は「トリさ」。
ジャンプ黄金期を代表する漫画家の一人で、当時の週刊少年ジャンプの1000票アンケートで815票を獲得した(フリーザ編において記録)という伝説を持っている。
この815票がどれくらい伝説的な数字かというと、同時期に連載されていた『スラムダンク』や『幽遊白書』などが、比較すると30票程度しか獲得できなかったという意味になる。他に1位を取った作品で"圧倒的"とされる結果でも2割(200票)程度との事。
なお、これを超える記録は以降のジャンプ連載作品でも当然生まれておらず、現在においても1000票アンケートの最高記録となっている。
彼の生み出したドラゴンボールを始めとした代表作の数々は、国境を超えて世界中の人々に愛されるまでに至っており、日本のサブカルチャーのいちジャンルに過ぎなかった漫画を、アメコミやバンド・デシネと並ぶ世界三大漫画文化の一角「MANGA」に押し上げた立役者のひとりとして、日本の文化に多大な貢献を果たした作家とも評されている。
ドラゴンボール完結後は短編作品やイラストレーター、キャラクターデザイナーとしての活動が主になっている。
一方でその知名度に反してマスコミや読者などの前に顔出しすることを好んでおらず、自作中への登場や、メディア露出の際は代わりにトレードマークであるガスマスク姿の自画像を掲載することが多かった。他にマスクと眼鏡を付けた自画像も存在する。
生涯
貧乏な家庭に育った。そのため欲しいものがあっても手に入れることが出来ないことが多く「欲しいものの絵をひたすら描きまくる」ことで気を紛らわせていた。
多種多様な生き物、乗り物などの機械、お城などの建物などと、とにかく色々欲しかったらしく、かたっぱしから描いたとのこと。
幼少期、ウォルト・ディズニー製作の「101匹わんちゃん」(日本では1962公開)を観てアニメーションのクオリティの高さに衝撃を受けたといい、以降も度々感銘を受けた経験として言及している。
(「鳥山明○作劇場VOL.2」20頁)
小学校に入り、友達の少女の家にたくさんの漫画本が置いてあったことから漫画にのめりこんでいくようになった。
初めて読んだ漫画は「少年」で、とりわけ手塚治虫の作品に傾倒していた。中でも、「少年」に連載されていた「鉄腕アトム」をめっぽう気に入り、毎日のように似顔絵を描いていたという。
(「ユリイカ詩と批評 2 特集手塚治虫 現代マンガの新展開」52頁)
小学校時代は漫画に熱中していたが、中学校に入ってからはめっきり読まなくなってしまった。これについては上述の「ユリイカ」の中で「とくに理由があるわけではありません。なんとなくです」と記しており、「VOL.2」(94頁)の中では「たぶん映画やテレビのほうに夢中になってしまったせいだと思う」と推察している。
またお金をかけた遊びが出来ないので、学校が長期休みになると自転車をこいで町中の映画館に行って1日入り浸り、同じ映画を何度も観て過ごしたりしていた(かつては映画館は入れ替え制がなく、同じスクリーンなら何度も観れた)。
こうした少年時代が知らず知らずに「絵を描くことが好き」という自分の糧になっていたと語っている。高校時代は漫画研究同好会の会長をしていたが、読む専門であり当時は漫画を描くことはなかったという。
高校卒業後、進学か就職かの分かれ道で勉強がイヤだったことから就職を選び、1974年に地元のデザイン会社に就職した。曰く「わしの絵ならすぐにでも実践で通用するぜ!と思ったのだ。なまいきなガキであった」。この会社は厳密には本社が京都にあり、その支店に相当していた。なお当該企業は死没時まで現存しており、没後にコメントを発表している。
しかし、ラフな服を常時着ていてしょっちゅう注意されたり、朝が苦手で遅刻を頻繁に繰り返すなど勤務態度はあまり熱心ではなく、次第にサラリーマン生活に嫌気が差し2年で退職。ただし、本人はこの頃の仕事については良い経験だったとしており「今にして思えばわずかでも世間の仕組みを知ることができたのでムダではなかった。学生からいきなりマンガ家になってしまうとどうしてもその辺りが理解しにくいのである」と振り返っている。(「VOL.2」166頁)
また、在籍時の「伝説」は今でも社内で語り継がれているらしい。
その後、現代で言うニートのような生活をしていたが23歳の頃になると遊ぶ金がなくなり、賞金目当てに少年ジャンプに投稿したところ、集英社の編集者鳥嶋和彦に「何とかなるかもしれないから、もっと描いて送ってよ」と見い出され、1978年「ワンダー・アイランド」でデビューに至った。なお、この作品は当時まったく人気が出ず、アンケートでは鳥嶋曰く「はっきりいってドべ」と散々な有様だった。
(「鳥山明○作劇場VOL.1」20頁)
その後1年近く鳥嶋の下で執筆に勤しむも、掲載された作品はどれも不発であり、500枚ぐらいボツが続いたという。ある日鳥嶋から女の子を主人公にするようにと指示されて描いた「ギャル刑事トマト」が読者の間で支持を集め、その後本作の流れを汲んで少女型ロボット則巻アラレを主人公に据えた「Dr.スランプ」を連載し、日本全土を巻き込んだ特大ヒットとなり、一気に注目を集めることとなった。
デビュー当時、予想以上の売り上げにより思わぬ大金を手にして使い方が判らず、札束を冷蔵庫に隠してカップラーメンをすすっていたと言う逸話を持つ。
このことからか財務関連は、ほとんど無頓着かつ面倒くさがりなので人に任せているらしい。タックスヘイブン関連で鳥山の名前が出た節税疑惑の際は、本人はそんなことになっていたのを本当に知らなかった様子であり(前述したように財務管理はプロに任せているので、そちら側の対応であったのも想像に固くない)、当時のファン達も今回ばかりは曲げて大目に見てくれという声があった。
なお普段メディアにはほぼ顔を出さない鳥山氏だが、この件は社会的責任を伴う内容であったのでしっかりとインタビューを受け説明をしていた。
デビュー当初から一貫してペンネームではなく本名で活動しているが、これは漫画家活動開始当時「どうせ売れる訳がない」という理由で本名で活動していたのがそもそもの始まり。
後に鳥山は「本名を使ったことが漫画家になって一番後悔したこと」と語っている(後にイタズラ電話などに悩まされたとのこと)。
なお、自分の漫画にはプロポーズの練習してたらバレて結婚した人、食べ物かなんかと勘違いしたまま結婚した人が登場しているが、当の本人は菓子パンをかじりながら電話で世間話してたついでにプロポーズというさらに味気ない結婚の仕方をしている。
担当編集の鳥嶋との駆け引きの逸話も様々あり、『Dr.スランプ』には鳥嶋をモデルにしたマシリトだけでなく、編集者としての鳥嶋も度々登場するほか、親交のある桂正和も登場している。『ドラゴンボール』においてもピッコロ大魔王のモデルは実は鳥嶋だったりする。
地元への愛着
鳥山から在住地の愛知県や清須市にもたらされる税収(本人の所得税とバードスタジオの法人税、他諸々)は凄まじいらしく、「編集部へ送る原稿を空港まで持っていくのが面倒だと言う彼の言葉をうけて、鳥山宅から名古屋空港までの直線道路が引かれた」と言ういわゆる「鳥山ロード」の噂も出るほど。
なお本人は「そんな訳ない」と否定していた(元ネタである「角栄道路」は本人や会社の納税額ではなく、政治家(総理大臣)としての権力によるものである)。
他には「税収が同地に所在する大手ビールメーカー製造工場のそれを上回っている」「隣接する名古屋市がこの税収を目当てに合併を画策したが清須市がこれを蹴り飛ばした」などの噂も。
作中に名古屋弁を話すキャラクターを登場させたり、登場人物が中日ドラゴンズを応援するシーンがあるなど、作品内で地元愛を強く残している。
訃報
2024年3月1日、急性硬膜下血腫(※)により死去。68歳没。葬儀は近親者のみで執り行われた。
元アシスタントのまつやまたかしによれば、2024年2月に「脳腫瘍の手術を受ける」「(位置は)外側だから大丈夫」などと語っていたという。
※急性硬膜下血腫は頭部の外傷などで、脳と硬膜のすき間に血がたまって脳を圧迫する疾患。重篤な場合には脳が腫れ、意識がなくなったり発語に異常をきたす。治療には難易度の高い手術を受ける必要があり、それでもなお死亡率は6割を超える。
ボクシングなど激しいスポーツで発症するケースが代表的だが、転倒や事故で発症する他、まれに脳内の血管の異常で発症する場合もある。鳥山の場合締切が近付くと1日100本はタバコを吸うほどのヘビースモーカーでもあり、それが原因で脳の血管が脆くなっていた可能性はある。
3月8日、ドラゴンボール公式サイトで逝去したことを公表。同時に集英社系4誌の公式サイトで少年ジャンプ+編集部との5編集部連名で、堀井雄二ら4名のコメントを添えてリリースを発出(うち週刊少年ジャンプのものはこちら)。お別れ会は現在のところ未定との事。
上記の通り顔出しするのはやめていたが、テレビ朝日系では『徹子の部屋』の映像が、フジテレビ系列では『3時のあなた』に登場していたためその映像が使用された。
その訃報は日本のみならず、世界中で大きな衝撃を与え、世界中の政府要人(特に勲章を与えているフランス)や企業、トップレベルのプロスポーツ選手やチームからも悼まれた。
世界各国でファン達による数千~一万人規模の追悼集会が開催された他、ペルーの首都リマでは鳥山明の功績を讃えるため、国立スタジアムの正面壁に、長さ110m、高さ6.6mに及び、45人の画家達による鳥山明キャラクターのイラストを描いた。
※元々壁画は200年前のペルー独立解放戦争時の英雄・偉人を描いていたが、経年劣化に伴い描き直す予定だった時に鳥山死去の報を聞いた画家達が、政府に嘆願して特例として描いたものである。
家族
妻には元少女漫画家の「みかみ なち」がおりかめはめ波の名付け親でもある。
- みかみは同じ名古屋市出身であり、QueenやKISSやBAY CITY ROLLERSなどの海外ロックバンドを漫画にするほどのロック好きである他(白泉社 花とゆめコミックス『上を下へとロックンロール』に収録)、あまり外出したがらない鳥山の散髪も担当していた。
子供は息子1人と娘2人に恵まれた。息子の「鳥山佐助」は幼児の頃、単行本帯コメント(旧版)に赤ちゃんの頃の写真が写っており、後に鳥山の補助として、映画『スーパーヒーロー』の制作などに携わっていたことが担当編集より明かされている。娘の1人「鳥山きっか」はイラストレーターとして活躍していたが、現在は新規の依頼は受け付けておらず、各種SNSも削除されている。
人物
自他共に認める面倒くさがりな性格。漫画を描く際に最初はネームを描かずにいきなり下書きから描き始め、スクリーントーンも貼るのがめんどくさい……というか好きではないのでほとんど使用していなかった。『Dr.スランプ』の舞台を村にしたのも背景を描くのが面倒だったからとのことである。ちなみにセルの模様は面倒くさいものだったらしく、後に「失敗した」と思いながら毎回描く際はそこが大変だったらしい。
「ドラゴンボール」の作中においても
背景描くのめんどくさい
→バトル中に街の建物を全部吹き飛ばしてまっさらな更地に
髪の毛塗るのめんどくさい
→金髪にしてベタ省略
などがある。
なお晩年『ドラゴンボール』は実は作画にはまったく力を入れておらず、むしろ手抜きだったため画集を出すのが申し訳ないという驚愕の発言を遺していた。
自動車やバイク、銃、ロボットなどのメカが大好き。『Dr.スランプ』では本筋とは関係なく、扉絵に車ばかり描いていたことがあった。のちにメカへの思いは『SANDLAND』で発揮され、特に戦車戦ではそのこだわりが描写されている。
動物も好きで、単行本内の作者コメントでは自身の飼う犬猫のエピソードを語っており、漫画内にも擬人化した動物が多く登場する。
また映画ファンであり、どんな構図でも資料を見ずに頭の中にイメージしただけで描けるのは、幼い頃に映画を見まくった恩恵であるとしている。画面構成だけではなく、『ターミネーター2』→人造人間編のように、好きな映画のネタやパロディをそのままストーリーに反映することも多い。ちなみに『ドラゴンボール』のタイトルも『燃えよドラゴン』に由来している。
なお、日本のサブカルチャーではウルトラシリーズ、東宝怪獣、ガメラといった怪獣映画を超が付くほど愛好しており、(当時は著作権の意識が希薄だったらしく)『Dr.スランプ』ではデフォルメされたキャラクターが高頻度で登場していたり(※1)、『DB』におけるチチの幼少期の武装がウルトラセブンのパロディだったりした…が、前者は愛蔵版出版に際して修正されることになった。(※2)
今では円谷プロの公認ネタになっており、2009年にはコラボグッズが期間限定で販売されている。(…と円谷プロに関しては丸く収まったが、ゴジラシリーズの版権を持つ東宝やガメラシリーズの版権を持つ角川との現在の関係は不明である。)
彼がモンスターデザインを得意としているのも、こうした趣向の影響なのかもしれない。ちなみに84ゴジラでは、新宿の広場に集まる群衆の中に、堀井雄二、さくまあきらと3人で混ざっているという。
(※1)作中で確認できるキャラクターは初代ウルトラマン、ウルトラセブン、ウルトラマンタロウ、バルタン星人、ゴジラ、キングギドラ、モスラ(幼虫)、ガメラ、ギロン。
(※2)円谷プロは海外で版権問題に苦しめられた事情もあって、版権に厳しい会社だった。仮にもし、円谷プロダクションが当時の彼を訴えていたら、今のドラゴンボールシリーズは無かったのである。
また、かなり忘れっぽいところもあり、ドラゴンボールのコミックス旧カバーにおいてヤジロベーをうっかり2回描いてしまったり、桃白白などキャラの存在を忘れたり、アニメに感動して原作漫画にアニメオリジナルキャラであるバーダックを逆輸入させたことをすっかり忘れていたり、最近では『ドラゴンボール』の前日譚である短編『ドラゴンボールマイナス』において本編と辻褄が合わない部分がいくつもあったり、PS2版『ドラゴンクエストⅤ』のパッケージに描かれているスライムを「スライムの配色を忘れた」と緑色に配色したり(参考)とネタに事欠かない。
逆にそれが鳥山の魅力に一役買っていると言えなくもない。
2013年の『ドラゴンボールZ 神と神』の制作で、ドラゴンボールシリーズのリブートが開始されて以降は、自身の原作漫画を読み返して記憶を思い起こし、その後3作の劇場用作品において脚本も担当する際にもそこ(自身の作品)から着想を得て完成させていったと語っている。
『Dr.スランプ』連載時は、あまりの天然っぷりを保存しなければという理由から、ファンクラブには「鳥山明保存会」という名称が付けられた。
寒いのが苦手であり、冬よりかは夏が好きだと語っていた(描く漫画なども夏や暑い場所が舞台の事が比較的多い)。
鳥山は上記の『徹子の部屋』に出演するなど80年代は顔を出していたが、元来あまり表に出るのが好きではなかったことと(結構人見知りな性格だという)、スーパーに買い物に行ったときにサイン攻めにあったのが作者の心を痛めたことが原因で、近年は顔を出していない。『ブルードラゴン』のCMにも出演したが、その時も本人の顔はしっかりと伏せられていた(先述した節税疑惑が出たときに顔を醸されてしまった例外もある。)。
たまに近所のラーメン屋や喫茶店などで外食することもあり、近所の方々など事情を知っている者達はあえて関わらないことが暗黙の了解となっている。
『Dr.スランプ』の漫画内には、たびたび作者本人として登場しているが、その容姿は一定ではなく、人間の姿であったり、ロボットの身体であったり、擬人化した鳥のような姿のこともある。
趣味
意外と知られていないが、立体造形物を作るのも得意で、プラモデルを買い漁っているものの執筆で忙しくて作る機会が無く、積み重なる一方だと苦笑している他、タミヤの模型コンテストで何度か入選(1986年には金賞を受賞)したことがある程の腕前の持ち主だったりする。面倒くさがり屋なのに。 ついにはその趣味が高じて長年懇意にしているファインモールドより第二次世界大戦の兵士をモデルにした「ワールドファイターコレクション」のデザイン、監修を担当した。
- ドラゴンボールの連載が終了した後は趣味に講じる時間ができたと模型製作に没頭するようになり、模型関係のイベントで出展するようになる。
※ちなみに2012年のタミヤモデラーズギャラリーではプラ板とプラ棒のみでフルスクラッチの戦車と兵士を出展しており、偶然にも同じ漫画家の藤島康介と望月三起也も出展していた。
のちにアシスタントとして事務所に入社するまつやまたかしの勧めもあって自動二輪車の免許を取得。以降は見聞を広めるために全国各地をツーリングするようになり、時には訪れる料理屋や道の駅などに置かれている「旅の落書き帳」に軌跡としてイラストを遺すようになる。
ちなみにこのまつやまたかしは模型製作の有名モデラーとしても知られており、模型誌でまつやまの凄腕を知った鳥山がアシスタントのオファーを出したという経緯がある。
2005年当時、タカラトミーがEV部門で「チョロQモータース」を設立(現在解散)して1人乗りEV『QVOLT』を開発した際に鳥山も車体のデザインを担当した。価格は199万円(税抜)で9台限定販売(完売)。ボンネットには鳥山の直筆サインが耐水コーティングで書かれている
作風
漫画の神様と呼ばれた手塚治虫に「ちょっと上手すぎるよね」と言わしめた程の画力の持ち主。その絵柄を『スラムダンク』の井上雄彦からは「同業者から見ると魅力的すぎる」『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦からは「同業者からするとちょっとした発明のようなもの」と評されている。
これは鳥山がデザイナー業から漫画家に転身したのも大きな理由と思われ、それまでの日本の漫画には無かった新たな画風を生み出した。このため柴田亜美のような絵柄のフォロワーも生み出している。「鳥山明風」という概念も存在するほど。
なお、江口寿史は、鳥山明の初期の画風に関して、アメコミ(「マイティ・ソー」など)や剣と魔法もの(「英雄コナン」など)のパルプ・フィクションの挿絵などを描いていたイラストレーターであるフランク・フラゼッタから影響を受けた可能性を指摘している。
デフォルメに関してもかなり上手いのだが、駆け出し漫画家の頃はデフォルメのコツが掴めてなかったらしく、さくまあきらから教えて貰った。なお、さくま曰く「コツを教えたら、いつの間にか教えた自分以上にデフォルメが上手くなっていた」との事。
元デザイナーの気質からか、1人で原稿を仕上げないと気が済まない性分で、『Dr.スランプ』の連載初期は1人で仕上げまで行っており、睡眠時間は3日に1回、時には6日間徹夜をしたこともあり、過労で倒れることを危惧した鳥嶋をはじめとするジャンプ編集部の説得によりアシスタントを雇うこととなる(それでも1人だけしか雇わない)。
ドラゴンボール終了後は主に1人で短期集中連載を執筆。短期だと構図を考える時間ができてストレスを抱えることなく執筆できると大抵10話構成(単行本一巻分)で構図をまとめてから執筆している。
のちにその内の一作『SANDLAND』が約20年の時を経て劇場アニメ化並びにテレビゲーム化になり、その報を聞いた時は大層驚いた模様。
高い画力を持ちながら、その一方でキャラクターデザインはシンプルで洗練されており、『ドラゴンクエスト』のスライムなど一目で印象に残るものが多い。特に人間よりもお化け・怪物・珍獣・機械・アンドロイドなどの人外のデザインを最も得意とし、それらを描かせたら文句なしに世界一の画力を誇る(逆に、彼よりも人間を上手く描けるデザイナーは普通に大勢いる)。これが起因してなのか、日本のみならず世界中からの老若男女な鳥山ファンが数え切れないほど存在している。
画力もさる事ながらコマ割りやアングルも秀逸であり、『ドラゴンボール超』を執筆しているとよたろう曰く、格闘シーンでは自身が10コマで考えている事を、鳥山は半分の5コマで、キャラのアングルや動きで、かつ集中線や効果線を活用して断然素晴らしくまとめているとの事。
逆に苦手なものは、本人曰く「上手く描けないから永遠の課題」としている女子(女体)だそうで、特に脚に関しては運動選手や格闘家などの脚は問題なく描ける一方で、『色っぽい脚』に関しては特にふくらはぎから足首辺りが難しいとの事。絵だけではなく女子心理を描くことを大な苦手としている。
生き生きとしたキャラクターによるダイナミックな描写を得意とする一方、細かい機微といった人間ドラマの描写は不得手であり、本人もこのあたりに真面目に取り組むことからは逃げ回っていた。特に男女の色恋の描写は大の苦手であることから、恋愛や夫婦愛は頭の中でストーリーこそ出来ているものの、漫画では力技または流し気味な描写で済ませていることから、その手の話を好む読者層からはドライに取られやすく、この点だけはラブコメ描写を好む鳥嶋とは折り合いがつかなかったという(例として『ドラゴンボール』における一家の主にして父親達)。
なお恋愛の描写が少ないことに関しては、(鳥山が直接手掛けないこともあってか)作品のアニメ化の際にアニメオリジナルのエピソードや描写で詳しく補完されることも多い(たとえば悟空とチチの新婚旅行や、このへんやこのへんなど)。
とはいうものの、各キャラクターの個性がハッキリしている為か恋愛描写の少なさは逆に読者の想像を掻き立てることに成功しており、基本的に公式カップルは読者に受け入れられている。
一方、女性キャラの刺々しい性格はリアルな女性描写だという評価もある。この辺は夢ではなく稼ぎのために漫画家を志した現実主義的な志向が現れていると言える。
ちなみに『Dr.スランプ』の漫画内にキャラクターとして登場した作者自身は、未来のペンギン村のカップル達が、皆そのまま結婚しているのを見て「単純なやつら」という感想をもらしている。
しかしこのような苦手な部分を持ちつつも名物編集者・鳥嶋和彦(現ブシロード社外取締役)のサポートを受け、立体的でアクロバティックなアクションや構図、シュールかつ不条理なギャグなど、突出したセンスと構成力でこの欠点をカバー、上記の大ヒットに至っている。尾田栄一郎や真島ヒロなど彼に影響を受けた漫画家は数多く、世界的な知名度も高い。
フランス政府からは芸術文化勲章を授与されている。
上記のように漫画家・イラストレーターとして重要視されるキャラクター描写、構図の巧みさ、デッサン力、伝達能力といった複数の要素を高い水準で兼ね備えている様は「ワクワクするシーンを切り取る名人」とも言いかえられ、読者・クリエイター問わず多くの人間に影響を与えてきた作家である。
鳥山の死後も『ドラゴンクエスト』や『ドラゴンボール超』の公式コンテンツや作画は引き続き制作が続けられているが、鳥山の監修が入らなくなったためか、出来上がった作品の画風こそ彼のものだが、「作品に込められた唯一無二のワクワク感が足りない」という声も散見されており、ブランドイメージだけに留まらない影響力の大きさを物語っている。
執筆した作品の多くが映像化されてきたが、元々本人はアニメの制作については基本的にノータッチだった。しかし、名前が売れてからは活動の幅を広げるようになり、1983年の安彦良和監督映画「クラッシャージョウ」ではゲストデザイナーとして協力したり、1989年のジャンプ・アニメ・カーニバルで上映された「小助さま力丸さまーコンぺイ島の竜ー」では原作、脚本、キャラクター&カラーデザインを担当、他にも「ドラゴンボール」シリーズのアニメオリジナルキャラクター(ブロリーなど)のデザインを手掛けたりするなど、アニメの仕事にも深く携わっている。
また映画『ドラゴンボールZ 神と神』ではストーリープロットの9割以上を手掛けた事で、続編『ドラゴンボールZ 復活の「F」』『ドラゴンボール超 ブロリー』『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』で全てストーリーと脚本を担当している。
声優に纏わるエピソードには、「Dr.スランプアラレちゃん」の放送当時にアニメスタッフや声優陣らと共に旅行に行った話や、「ドラゴンボール」の中盤でメインキャラのクリリンが死亡したため、担当声優の田中真弓に配慮した鳥山がヤジロべーの声優に「クリリンと同じでいい」と自ら指名した話などがある(田中真弓談)。
また、主人公を含む多数のメインキャラを演じた野沢雅子とは長年良好な関係にあり、鳥山没後の野沢の話によると、顔を会わせる度に「悟空をお願いします」と言われたのだという。
鳥山作品の常連声優には野沢雅子を筆頭に、内海賢二、小山茉美、古谷徹、郷里大輔、永井一郎、大竹宏、玄田哲章、杉山佳寿子、青森伸、古川登志夫、江森浩子、佐藤正治、島田敏、龍田直樹、千葉繁、八奈見乗児、三田ゆう子、塩屋浩三、里内信夫、柴田秀勝、田中真弓、屋良有作、銀河万丈、戸谷公次、中尾隆聖、飯塚昭三、青野武、宮内幸平、渡辺菜生子らがいる。
鳥嶋和彦氏・担当者との逸話
鳥嶋を始めとした担当編集にメインに据えるキャラクターの選定でダメ出しを喰らい、軌道修正をさせられたというエピソードも残っている。
『Dr.スランプ』は則巻アラレを主人公としたギャグ漫画として大ヒットしたが、当初の構想では則巻千兵衛が主人公だったのを鳥嶋の提案で変更させられた経緯がある。タイトルにDr.(博士)が入っているのはその構想の名残である。
『ドラゴンボール』の人造人間編でも当初は19号と20号のみであった所を、続けて登場させた17号&18号と合わせてボスキャラらしくないと鳥嶋からダメ出しを受け、最終的にセルを登場させる運びとなった。
そのセルも当初は変身する想定ではなかったが、第一形態と第二形態のデザインを2代目担当の近藤裕から酷評されたことを受け、完全体が出来上がったという。
いずれも鳥山本人すら気付かなかった、魅力的なキャラクター造形の方向性を担当編集が引き出した形であり、これらのキャラクターは今でも根強い人気を誇っている。
ドラゴンボールのセル編の頃に武田冬門が担当編集として就任する際、鳥山はドラゴンボールを完結させる予定だった事もあり恐縮していたが、元々鳥山は美形キャラ以外にもコミカルなキャラクターも描きたかったと看破し、小さい頃から鳥山のファンだった武田は「最後くらい描きたいものを好きなだけ描いて物語を完結させましょう」と必要最低限に原稿の描き直しを指示しないと、自身が全ての責任を負う覚悟で提案した。結果として様々なキャラクターや世界観が誕生し、連載終了後も『ドラゴンボールGT』『ドラゴンボール超』のきっかけになった。
『ドラゴンボール』は次第に週刊少年ジャンプそのものを背負ってしまい、社会的影響は既に集英社、フジテレビ、バンダイの各事業にも関わる規模となっており、自分一人の都合では連載終了できない作品と化していたため、わざと荒唐無稽な内容にしてつまらなくすることで打ち切りを狙っていたが、結果的に何でもありの作風になってしまったことで人気が益々出てしまったという都市伝説がある(連載終了時の申し出の際に3社の間で話し合いがあった事は事実)。
地元への貢献
都会が苦手らしく東京もしくは近郊の関東圏に進出せず、生涯を故郷の愛知県で過ごしたのもその為である。田舎の地元にいた生き物達が大人になるにつれ(都市化のために)姿を消していくのが悲しかったという趣旨を語ったりもしている。生き物好きなため、虫の類は全く平気で害虫だろうと特に怖くないが、ネズミが家に住み着くのだけは嫌だし怖い、という趣旨のことも語っている。
ただし晩年は加齢に伴い身体が衰えてきた事から、医療施設、交通機関、福祉対応の充実度から、東京まで行かずとも都会に住む事で、健康と生活を維持できるメリットを語っていた。
- 集英社側も、本来なら東京に事務所を構えてくれた方が有難かったが本人のインスピレーションを無碍にはできないと、折半した末に『一回でも原稿を落とした(休載した)場合は已む無しで東京に事務所を移転してもらう』という条件で契約した。なお鳥山はこれに発奮したのか、Dr.スランプ連載開始からドラゴンボール完結までの約15年間、一度も原稿を落としたことが無かったという。
- 一方で親交の深い桂正和とは互いに地方在住だった為相手を田舎者扱いネタを色々とやっていた。
生前に多忙を極めた漫画家としてはこれといった健康問題エピソードがなく、冨樫義博や尾田栄一郎のような満身創痍エピソードに事欠かない漫画家と比べるとタフな体を持っていると評されていた。そのために、前述の訃報は余りにも突然の出来事として世間に大きな衝撃を与えることとなった。
一方で先述の通り、重度のヘビースモーカーとして知られており、1日3箱、〆切前の追い込みに100本喫煙するほど。その喫煙っぷりはDr.スランプの則巻千兵衛に反映されている。死因もこのかつての重喫煙が遠因ではないかと言う声もある(喫煙は脳出血などのリスクも高める)。生前の鳥山は元々たばこ代を稼ぐ為に漫画家になったと語っている。
- 上述の腫瘍手術の予約の際に医者から禁煙を厳命され、周囲の説得もあって禁煙を決意する。その際に周囲には「タバコを吸えないのは辛いな。」とぼやいていた。
ちなみにお酒のほうは下戸で、コップ一杯のビールでも酔うほどだった。
漫画作品
個人
読み切り・短期連載
鳥山明○作劇場シリーズ
VOL.1収録
VOL.2収録
VOL.3収録
合作
漫画家・桂正和との合作。短編『さちえちゃんグー!!』、『JIYA -ジヤ-』が収録されている。
脚本は2人で作成し、漫画は桂正和1人が担当している。この2作品は銀河パトロールシリーズと名付けられ、『JIYA -ジヤ-』はその銀河パトロール隊員が主人公であり、この銀河パトロールの設定は後の『銀河パトロールジャコ』に繋がることとなった。
- ドラゴンボール超(漫画版)
漫画家・とよたろうとの合作。ドラゴンボールの魔人ブウ編のその後が描かれる。
脚本を担当しており、それをとよたろうが漫画にし独自のオリジナル要素を入れることもある。ネームの段階からチェックが入っており、時には自らネームに手を加えたり修正を入れることもある。Vジャンプにて絶賛連載中。
とよたろうについては鳥山曰く「なかなかいないんですよ! 僕の絵に似ている人はいるかもしれないけど、お話としてもっていける作家さんというのは! ネームがしっかり描けているのが素晴らしい! オリジナルな部分が加わるともっとおもしろくなりそう!」とのこと。ついで『「すごい!鳥山先生、最初から考えてたんだー!」ってなると、僕がすごーくカッコいいかんじになる』とも話している。
※詳細は【集英社運営・VジャンプWEB『ドラゴンボール超インタビュー「とりとよ放談」inVJ』】(外部リンク)の公式情報を参照の事。
ゲームイラスト・キャラクターデザイン
※立体造形のデザイン、絵本の製作など活動は多岐に渡る。
なお集英社との専属契約の関係により(このあたりの契約の仕組みは「週刊少年ジャンプ」の項を参照)、鳥山のイラストを掲載できるのは、一部を除いて原則集英社からリリースされたものに限定されるため、例えばドラゴンクエストシリーズの公式ガイドブックに必要とされる挿絵やサブキャラクターのデザインなどは、鳥山に近いタッチで描けるデザイナーが手掛けることが多い。
代表的な例を挙げると中鶴勝祥や村上ゆみ子、かねこ統などが有名か。
変名?
『桃太郎電鉄2017』のキャラクターデザインについて多数のイラストレーターの参加が発表されたのだが、その中の一人に「なごやあきら」なる人物がいることがニンテンドーダイレクトで判明する。
そして『2017』でのキングボンビーのデザインがその「なごやあきら」によってリニューアルされたことも発表されたが、そのタッチが鳥山の画風とそっくりなのである。
仮に鳥山が参加しているとして何故変名参加なのかは現段階でも不明。一説では上述の通り、現在も集英社専属漫画家にあることから権利関係・さくまあきらとの個人間の依頼である可能性から変名表記だとの噂もある(ちなみに『大乱闘スマッシュブラザーズSPECIAL』で『ドラゴンクエスト』の勇者(ファイター)が参戦した時はスタッフクレジットで鳥山の名前と集英社がクレジットされている)。
なお、ニンテンドーダイレクトに寄せたさくまのメッセージでは「古くからの友人」との事。ちなみに鳥山は過去に『スーパー桃太郎電鉄DX』の頃に「メカボンビーRX」のデザインを手がけた経歴がある為、仮に本人だとすると二度目の参加と言うことになる。
関連タグ
ムーチョ:鳥山自身の自画像によく似ている。
田中久志(ひすゎし):元アシスタント。(『Dr.スランプ』の後半まで)
まつやまたかし(現:イラストレーター):元アシスタント(『ドラゴンボール』の後編まで。以後アシスタントは使わず一人で描いている)。
とよたろう:『ドラゴンボール超』作画担当。訃報に際し、X上に追悼コメントをポスト。
カサイユージ:『スーパードラゴンボールヒーローズアバターズ!!』作画担当。4巻の巻末漫画に「たくさんの思い出と感動をありがとうございます」と追悼コメントを残した。
古澤純也:鳥山の影響を受けたのかリルトの誓い1巻の背景に孫悟空を登場させたり、登場人物たちのデザインがドラゴンクエストやドラゴンボールの登場人物たちとよく似ている。