概要
早稲田大学を卒業後、フリーライターとして『週刊少年ジャンプ』などに記事を書いていた。
1981年にパソコンを購入しPCゲームの虜となり、後にプログラミングを習得しゲームを自作し始めた。
1982年に『週刊少年ジャンプ』の編集者である鳥嶋和彦からエニックスの「第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」の取材を依頼された際、自作の『ラブマッチテニス』を応募して入選プログラム賞を受賞する。
この時の受賞者には『森田将棋』で優勝した森田和郎や、後にチュンソフトを設立する中村光一がいた。
これが切っ掛けで本格的にゲーム製作を始める。
1983年にアドベンチャーゲーム『ポートピア連続殺人事件』を開発。その後アドベンチャーゲームを幾つか手掛けた後、当時マイナーだったRPGに目をつける。
そして、1986年にファミリーコンピュータ用ゲームソフト『ドラゴンクエスト』を発表する。
その後、ドラゴンクエストシリーズは国民的RPGとして人気を博し、
現在までにシリーズ累計出荷数と配信数は7,500万本を超えている(2017年時点)。
ゆう帝名義で1985年から1988年頃までジャンプのファミコン紹介記事「ファミコン神拳」にゲームの裏技やレビュー等を載せていた。
ゲーム作家(ゲームデザイナー)という職業を確立させた草分け的存在であり、テレビゲーム業界へ強い影響をもたらした人物の一人として高い評価を得ている。
メディア上での活動
元々「ゆう坊」というペンネームで活動していたが、
ゲームデザイナーへ転身した後、週刊少年ジャンプ上で連載されていた
ファミコン神拳コーナーにて、1985年から「ゆう帝」というペンネームでライターを兼業している。
後述するインタビューや配信出演時もそうであるが、とても謙虚な人柄と
ユーモアある語り口で知られる一方で、1人のプレイヤーとしてゲームを見る目線は非常にシビアで
上記の「ファミコン神拳」にて、紹介するファミコンソフトの内容に粗が多い時は
容赦なくそれを指摘したりもしている。独断で採点するというコーナーでも
メーカー側に一切の遠慮なく点数を付けたりしていた。
こうした厳しい姿勢は
「よその雑誌みたいに面白くないものをメーカーに遠慮して面白いと言うと騙されて買った人はがっかりする」
「つまらないゲームがそうやって売れてしまうと本当に面白いゲームがどんどん出にくくなったり、せっかく出ても問屋さんが仕入れなくなってしまう」
という担当者3人の共通見解から出ていたものらしく、当時ファミコンブームに乗って
所謂クソゲーの氾濫が起こっていた事や、それによる問屋の買い控え、
そしてクソゲーを掴まされるプレイヤー達の事を憂慮しての事だったようである。
また、上記のファミコン神拳から派生して公式攻略本執筆にも携わっていたが、
その際には多くの人にじっくり自分のペースで遊んでもらう事、
謎を説いた結果を見る楽しみはプレイヤー自身のものであるとという事をとても重要視しており、
「ヒントは書いても結果は書かない」という方針で、原稿は全部チェックして
プレイヤーが先にネタバレを知ってしまう事がないように徹底していたそうである。
DQ7では開発終盤に広報をエニックス任せにしてしまった為に
氏の考えるセーフラインを越えたネタバレが事前に出てしまい、激怒したというエピソードもある。
シリーズの生みの親として度々インタビュー企画が組まれたり、講演会に呼ばれたりもしている。
これらのインタビューや講演会では度々ユーモアのある作りと
マニュアルを読まずにプレイし始めても自然と理解できる流れの重要さを説いており、
周囲のスタッフにも特にゲームの導入部分で初めてのプレイヤーが迷ってしまう事が無いように口を酸っぱくして言っているそうである。
こうした氏の姿勢は世の中でユーザービリティという概念が広く知られるようになると、
ゲームという分野を飛び出して他のアプリやインターフェイス設計などでも引き合いにだされるようになった。
2010年以後になると、ネット上のドラクエ関連の配信に度々出演している。
DQ10ではゼネラルディレクターの立場で参加しており、
同作の生放送にもちょくちょく出演。ユーモアあふれる語り口で
直接プレイヤーへ情報を届けたりもしているが、やはりここでも上記の
ゲームに対するシビアさは健在で、DQ10スタッフはしばしば詰めの甘い所を指摘されるらしい。
主な作品
関連タグ
ゲームクリエイター
小池一夫:師匠@劇画村塾
さいとう・たかを/ゴルゴ13:脚本家「本田一景」として参加
さくまあきら:同門の強敵(とも)
もょもと:出し方は・・・?
ファミコン神拳メインライター