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さいとう・たかを

さいとうたかお

日本の漫画家。さいとうプロは分業により漫画を制作するプロダクション制のはしりとなった。
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本名:斉藤隆夫(1936年11月3日~2021年9月24日)


劇画界を代表する作家のひとり。「さいとう・プロダクション」を設立し、日本では極めて珍しいスタッフの分業体制により作品を制作するという方式を確立した。


来歴編集

1936年(昭和11年)、5人兄弟の末子として和歌山県に生まれる。のちに大阪府堺市に移り住む。

さいとうが小さい時に父親が家を出たため、母親が理髪店を営みながら女手一つで5人を育てた。


子供の頃から映画好きで、手塚治虫の漫画を読んで「紙で映画をしてる」と感じてファンになった。

当初は手塚タッチの絵だったが、日の丸文庫貸本短編集『影』に執筆していた漫画家たちと交流を深めることにより現在の絵柄に変化した。

辰巳ヨシヒロ石川フミヤスらとともに劇画工房に参加し、辰巳ヨシヒロの考案した新しいジャンル「劇画」を名乗り注目を集めた。しかし、劇画工房は仲間割れにより短期間で解散を余儀なくされた。


1960年にさいとう・プロダクション設立。同年『台風五郎』の大ヒットにより注目され、後に同プロダクションに加わった石川や武本サブローらとともに、劇画の大量生産を無理なく請け負う分業体制を確立した。

また同プロダクションには出版部門も設け、連載作品を独自に単行本化、のちにリイド社として分離独立した。1968年には、さいとうの代表作である『ゴルゴ13』の連載を開始した。


1960年代まで、漫画界では漫画は作家の手のみ、どんなに忙しくても知人の漫画家や家族に手伝ってもらうだけにとどめるべきであるという風潮が根強かった。晩年に「バーゲンセールするほどアイデアはある」と吹聴していた手塚は、初のアシスタント制を導入して可能な限りそのアイデアの消費をすることに努めたのだが、同業者や批評家からは「自分で描いていない」と否定的に捉えられた。

手塚のアシスタント制は、前時代的徒弟制の気風を残しつつも現代では当たり前のものになったが、さいとうはより企業化・システム化に努めて「いずれ独立するプロ志望の修業の場」ではなく「中長期で働くプロの仕事場」を構築、手厚い好待遇と分業体制に裏打ちされた漫画の安定量産に成功した。この試みは「眼だけ描く」という心無い揶揄をされたこともあったが、さいとうの成功によりこれを模倣する漫画家も多く出現することとなる。


80歳を超えた最晩年も『ゴルゴ13』『鬼平犯科帳』2作品に絞り、新作を送り出していた(『ゴルゴ13』のような現代劇よりは時代劇の方が本人は得意だと述べていた)。


2021年9月24日、膵臓がんにより死去(享年86歳・満84歳)。故人の遺志により『ゴルゴ13』はさいとう・プロダクションと脚本スタッフたちが協力して連載が継続される事が発表された(生前に「私がいなくなってもゴルゴ13の物語は続いていくでしょう」とも述べていた)。


2010年に叙勲旭日小綬章)。また死去に伴い、正六位に叙された。情報公開された中では、漫画家に位階が授与されたのは史上初である(先人には、さいとうより高いクラスの勲章を授かった事例はあるが、位階を授けられたかどうかは不明)。


人物編集

小さいころから図工と喧嘩が大好きで、漫画家になるちょっと前までは喧嘩三昧な生活を送っていた。

ゴルゴ13が背後に立っている人間をいきなり殴るという習性は、子供の頃に一番上の兄が映画館から出ていきなり後ろの人を殴ったことに由来する。この人は大変な乱暴者で、小学校に入ったさいとうは長兄に恨みを持つ者たちからいじめを受けたが腕力に自信をつけてからは報復して行き、中学校時代には不良グループを率いるようになった。


さいとうの父親は自ら営んでいた理髪店の経営を放り出し、漫画家写真家などを志して芸術関係に手を出し、その全てに失敗した末に出奔してしまった。

母親はこの経緯から芸術を人一倍嫌悪するようになり、父親が残した絵を何の躊躇も無く無言で竃に投げ捨てて燃やしながら「男が芸術で食べて行けるわけが無い」と吐き捨てた。小学生時代のさいとうが金賞を取った絵も即座に竈に入れられて燃やされたとの事。

漫画家となるために実家の理髪店を辞めた際には大激怒され、以来母親は漫画と漫画家を親の仇の如く憎悪するようになったという。さいとうが漫画家として大成した後も送ったゴルゴ13の単行本を見もせずに即刻焼却し、その挙句、死の床にあっても単行本に指一つ触れようとしないどころか視界から背け、さいとうの事を最期まで認めず、同時に許さなかった。

このことはさいとうも気にしているようで、執筆室には仕事をしているさいとうに向かい合うように亡母の写真が飾られている。


手塚治虫へ会いに手塚の家へ訪問した際、居留守を使われたことがある。この事がきっかけで「打倒!手塚」を掲げるようになった。その対抗意識は手塚本人のみならず彼の弟子である新漫画党にも向けられ、彼らの拠点であるトキワ荘を物陰から睨みつけているさいとうの姿が度々目撃されていた。そして、不審に思ったトキワ荘住民に声をかけられると、「君たちは子供向けの漫画を描いているらしいが、俺は大人のための漫画を描く」と啖呵を切って去って行ったという。

劇画というジャンルを確立した頃にはトキワ荘グループでさいとうとは面識のない寺田ヒロオから説教の手紙を送りつけられた。

しかし藤子不二雄A石ノ森章太郎つのだじろうらとは後に仲良くなり、ゴルフ仲間でもあった。石ノ森については早くからその天才ぶりを認めており、個人の力量で勝負するのを諦め、分業による制作を考えるきっかけとなった。


80歳を超えても1日40本を吸う(これでも大分減ったらしい)チェーンスモーカーで、タバコの火を器用に操って原稿に描いたインクを早く乾かすといった珍技を持っていた。

何度か禁煙を試みたが、仲間の副流煙を吸って挫折したり、禁煙中に描いた絵の評判が悪かったために試しに喫煙を再開してみたところ絵が戻ったため、禁煙はあきらめた。

「喫煙文化研究会」のメンバーの一人である。


趣味はテレビや映画鑑賞、そこからネタ探しすることもある。若い頃から大相撲ファンでもある。 1980年代にはゴルフに熱中しており、山梨県富士野屋別館には石ノ森章太郎・北見けんいちちばてつや・つのだじろう・藤子不二雄A・古谷三敏と書いた寄せ書き額縁入りで飾られている。

井上純一の「中国嫁日記」より。(石和温泉郷新婚旅行事件第12回第13回


能見正比古の提唱した血液型性格診断の熱烈な信奉者であり、血液型の著書を複数出している。


関連イラスト編集

※pixivで確認できる作品タグのみ記載。





関連タグ編集

劇画 さいとうたかを


藤原芳秀 - さいとうプロの現作画スタッフ(ふじわら・よしひで名義)

この他、藤原の双子の実兄・藤原輝美や漫画家としてデビューした木村周司上農博昭上農ヒロ昭)、松森茂嘉などもいる。

スタッフ一覧


さいとうプロの元作画スタッフ

※漫画家としてデビューした人物のみ。

川崎のぼる 小山ゆう 神江里見 伊賀和洋 神田たけ志 叶精作 やまさき拓味


さいとうプロの元脚本スタッフ

小池一夫


外部リンク編集

さいとう・プロダクション 公式サイト

インタビュー記事

Wikipedia

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