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概要編集

本名:寺田博雄。愛称は「テラ(寺)さん」。


手塚治虫らと共に戦後の漫画業界の夜明けに活躍した漫画家の一人。

トキワ荘に有望な若手漫画家を集められたのは彼の提案だったと言われている。

作品が積極的に単行本化されるようなタイプの漫画家ではなかったため、『まんが道』やトキワ荘関連の書籍で名前がよく出てくるのに、肝心の作品自体は殆ど読む手段がないという状態が続いたこと、晩年の寂しい最期から一時期は幻の作家のように扱われていた。2009年から「寺田ヒロオ全集」として作品が刊行され、現在ではかつてよりは読む手段がある。


代表作は、「背番号0」、「スポーツマン金太郎」、「暗闇五段」等。


経歴編集

1931年8月4日、新潟県西蒲原郡巻町に生まれる。

新潟県立新発田高校在学中から漫画を書き始める。高校卒業後は新潟県警察の職員(警察官ではないので念のため)から電電公社の職員を経て、22歳の時に上京。しばらくしてトキワ荘に住み始める。

実は高校球児でもあり、社会人になってからも上京するまでは野球を続けていたという。しかも都市対抗野球への出場経験もあるとか。


トキワ荘に集まった漫画家達のリーダー格で、仲間と共に「新漫画党」を結成した。

トキワ荘のメンバーである藤子不二雄の自伝的漫画「まんが道で頼もしい兄貴分として描かれている様に面倒見のいい先輩であった事が関係者の話で伝わっている。事実、原稿を落とした事で一時期干された形になった藤子不二雄コンビを助け、中々芽が出なかった赤塚不二夫が漫画家をやっていく事を諦めかけた時も励ましたりと後に彼らが大御所として大成する道を歩むか否かのターニングポイントのキーマンとなった人物でもある。その為、トキワ荘を語る上では漫画の神様こと手塚治虫に次いでトキワ荘伝説の最重要人物の一人となっている。

ただ、真面目で困った人間を放っておけない性格のためにかなり心労を重ねていた部分もあったようで、そういったつらさを語れた親友は、漫画家仲間のひとりであった棚下照生しかいなかった(柳下は寺田と対照的に酒と無頼を愛したが、2人の親交は深かった)。

戦後のエンタメ界に偉大な足跡を残した作曲家のひとり、中村八大と義兄弟(妻の兄)であった。


漫画界の潮流が週刊誌になってゆくと、元々速筆ではないうえに心労を抱えていた寺田はさらに負担が増え、徐々に時代から取り残されていった。

加えて寺田は子供の読む漫画は健全で明朗でなければならないと言う確固たる信念を持っており、その信念と真逆の殺伐とした刺激的なものが描かれる劇画を批判していた。自分の漫画が掲載されている雑誌に劇画が掲載されると雑誌の編集部に劇画の掲載停止を訴えたり、さらには直接面識の無いさいとう・たかをに説教の手紙を送りつけたこともあったほどである。

こうした寺田の信念(悪く言えば神経質で潔癖症的な気質)は、子供向け漫画を得意としており安直な劇画ブームに批判的だったトキワ荘メンバーにも当初受け入れられていたが、会うたびに劇画批判しかしなくなる寺田に対して徐々に不安や頼りなさを感じるようになってゆき、まんが道でも満賀(藤子A)があれだけ兄貴分として慕ってきた最も近い存在だった寺田と自分達に距離感が出てきていた事を寂しく思っていた事を描かれている。


寺田の努力は世には受け入れられず、手塚の牙城を脅かすまでに成長した劇画ブームに沸く漫画界についてゆけずついに1973年に断筆。手塚も長期休養を勧めたというが、寺田の決心は固くトキワ荘の仲間たちと関わる事もほとんどなくなった。トキワ荘が取り壊される事になった際にかつての住人たちが集まった時も姿を見せなかった(ただしNHK総合テレビのインタビューには答えてはいる)。さらに1989年には「1985年頃に風邪をひいて以来体調が崩れ気味になってしまった。手塚さんのお葬式にも参列出来なかったくらい酷くなってしまった」と語っていた。

そのような時期でも、自宅に押し掛けた漫画家志望の若者には親身になってアドバイスをしたり、本(『漫画少年』の歴史を描いた「『漫画少年』史」)を著すなどしており、漫画界との関係は完全には切れてはいなかった。


1990年6月にトキワ荘の仲間を集めて宴会をしたのを最後に一切世間との交わりを絶ち、妻や子供達とすらほとんど顔を合わすこともないほどの世捨て人のような生活を送った。その断絶振りは仲間との宴会の翌日にお礼の電話を掛けてきた藤子Aに対しても出る事は無かったほどだったという。ちなみに宴会が終わり仲間たちが帰っていくのを姿が見えなくなってもなお手を振っていたとのこと。宴会直後、家族に対し「もう思い残すことは無い」と呟いていたという。また、断絶後もその仲間たちと楽しく過ごした宴会の光景を撮影したビデオを何度も何度も見ていたとされる。


1992年9月24日、自宅の離れで亡くなっているのが発見された。なお、その死に関しては、妻、棚下、そして藤子不二雄Aは、ニュアンスは違えど異口同音に自殺同然であったと語っている。体調が悪くなっても病院に行くのを拒絶し、棚下等に電話をかけることはあっても会おうという呼びかけには断固拒否していたという。


映画「トキワ荘の青春」は本木雅弘演じる寺田が主人公となり、トキワ荘での生活、そして時流に取り残されていく寺田の姿が描かれている。


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