概要
中村八大とは、日本の作曲家である。代表作に「上を向いて歩こう」など。
永六輔との「六・八コンビ」あるいは坂本九を加えて「六・八・九トリオ」と呼ばれた。
プロフィール
来歴
青島の日本人学校の教師の子として生まれ、自宅には蓄音機やレコード、ピアノがあるという恵まれた環境で育つ。
音楽の素養を認めた父の勧めで1940年に日本に留学。新宿の国民学校に通いつつ東京音楽学校(現:東京芸術大学)の付属児童学園でピアノと作曲の英才教育を受ける。しかしハードな教育方針に疑問を抱き次第にサボるようになり、新宿や浅草の劇場に足しげく通った。
1942年にドーリットル空襲に遭ったことから音楽留学を中断し、1943年に帰国。その後一家で両親の故郷である久留米市に引き上げ、そこで終戦を迎えた。
1948年に当時の人気作曲家利根一郎が北九州の炭鉱で慰問巡業を行うことになり、一座に加わっていた兄・二大の誘いで巡業に参加、基本的に見学だけだったが時にはピアノを演奏した。
1949年に上京し早稲田大学高等学院の3年に編入。生活費や学費を得るためにキャバレーでジャズピアノの演奏のアルバイトを始める。
1950年に早稲田大学に進学。二大から紹介された渡辺晋の誘いで松本英彦、南廣、安藤八郎らとバンド「シックス・ジョーズ」を結成。バンドは全国的な人気となったが芸術性を追求する中村とエンターテイメント性を追求する渡辺の間で衝突が発生。松本と共にバンドを脱退してしまった。
1953年にふたりはジョージ川口、小野満と「ビッグ・フォア」を結成。1954年には文化放送でレギュラー番組「トリス・ジャズ・ゲーム」を持つ。ここで放送作家として関わっていた永六輔と出会う。
しかし1950年代後半にはジャズブームは下火となりロカビリーが躍り出る。そのブームを牽引していたのはかつて衝突した渡辺晋が率いる渡辺プロダクションだった。
莫大な借金を抱え一時は薬物依存にまで陥った中村だったが、少年時代に見た劇場を思い出し「音楽は観客と遊離するべきではない」と考え直す。
渡辺に頭を下げて和解し、ロカビリーに挑戦することになる。作詞家のツテがなく困った中村だったが、偶然永六輔と再会。放送作家だった永に作詞の経験はなかったが中村からの依頼を二つ返事で引き受け、徹夜で10曲を作詞作曲した。
このとき手掛けた10曲のひとつ「黒い花びら」は映画『青春に賭けろ』の挿入歌として採用され、第1回日本レコード大賞の大賞に選ばれた。
こうしてふたりは「六・八コンビ」として数々のヒット作を生み出したが、1963年秋に過労がたたって十二指腸潰瘍で入院。11月に「こんにちは赤ちゃん」が第2回日本レコード大賞に選ばれた後、1964年夏からニューヨークで1年間過ごして世界の音楽を学んだ。
このころにはシンガーソングライターも台頭し始め、永は放送作家へと返り咲き、中村も「すべての音楽の集大成」として交響曲を取り組む。完成した交響曲はリサイタルで披露され、中村も満足の出来栄えだったが、その後1971年頃に糖尿病を発症。
晩年は闘病生活から作曲から距離を置き、1992年6月10日に心不全で死去。
代表作
- 上を向いて歩こう(sukiyaki)
1961年7月21日に開催された中村八大リサイタルにて初公演。
もともとこのリサイタルのために中村が永六輔に作詞を依頼した曲であったが、曲直瀬信子の勧めで坂本九のシングル曲としてレコーディングされることとなった。
坂本のもとに譜面が届いたのはなんとリサイタルの2時間前。ぶっつけ本番の初披露で4ビートの譜面を8ビートに即興アレンジして歌ったといわれている。
2年後の1963年にアメリカで「Sukiyaki」というタイトルで発売され、全米チャートで1位を獲得。世界的ヒット作となった。
ちなみにタイトルが「Sukiyaki」になった理由は1962年にイギリスのディキシーランド・ジャズ・トランペッターであるケニー・ボールが演奏した際、レコード会社の社長が日本語が読めずに「日本で一番印象に残った料理」であるすき焼きの名前を付けたとされている。しかしケニー・ボールの証言では「上を向いて歩こう」ではタイトルが長いという理由で短い日本語の名前を付けたかったが、知っている日本語が「すき焼き」と「さよなら」ぐらいしかなかったので「Sukiyaki」になったという。
「Sukiyaki」がタイトルになったのはアメリカとイギリスだけで、ベルギーやオランダでは「忘れえぬ芸者ベイビー」、そしてフランスでは原題の「上を向いて歩こう」で発売されたという。
- 明日があるさ 青島幸男が作詞。
- 見上げてごらん夜の星を 永六輔が作詞。
- 世界の国からこんにちは 島田陽子が作詞。
- こんにちは赤ちゃん 永六輔が作詞。
- 笑点のテーマソング
- 遠くへ行きたい 永六輔が作詞。
- 帰ろかな 永六輔が作詞。