本名:角田次朗(1936年7月3日~)
概要
東京都出身の漫画家。
代表作に「忍者あわて丸」、「空手バカ一代」、「うしろの百太郎」、「恐怖新聞」、「5五の龍」、「学園七不思議」など。
趣味は将棋、スキー、書道、催眠術、空手、剣道、浮世絵、春画、落語など数多い。
来歴
1944年11月24日、アメリカ軍の東京空襲が始まる。福島県に疎開。
1950年、東京に戻り新宿に暮らす。近所のグラウンドで講談社チームの野球の試合があり、試合中、監督の島田啓三に自分の描いた漫画を見てもらおうとして「君、そういう用事なら家の方に来るべきだ」と怒られ、島田に師事するようになる。
1954年、島田に「漫画少年」(学童社)の編集長への紹介状を書いてもらい、漫画「新・桃太郎」を持ち込むが、その後は何の音沙汰もなかった。
1955年、突然、「漫画少年」に「新・桃太郎」が掲載されデビューとなる。「漫画少年」に投稿していた若手漫画家達と知り合い新漫画党に入党。自宅からトキワ荘に通うようになる。
1958年、「りぼん」(集英社)で「ルミちゃん教室」を連載。
1961年、「なかよし」(講談社)で「ばら色の海」を連載し、第2回講談社児童まんが賞を受賞。
1965年、「週刊少年キング」(少年画報社)で「忍者あわて丸」を連載。テレビアニメ化され1967年と1969年に「ピュンピュン丸」としてNET(テレビ朝日)系列で放映された。
1969年、「冒険王」(秋田書店)で「虹をよぶ拳」(原作:梶原一騎)を連載。
1971年、「週刊少年マガジン」(講談社)で「空手バカ一代」(原作:梶原一騎)を連載。ヒット作となり、テレビアニメ化され1973年にNET系列で放映された。
1973年、「空手バカ一代」の作画を途中で降りる。「週刊少年マガジン」で「うしろの百太郎」、「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)で「恐怖新聞」を連載しヒット。
1978年、「週刊少年チャンピオン」で「ゴッドハンド」(原作:大山倍達)を連載するが、梶原一騎の圧力により9週で打ち切り。「ビッグコミック増刊号」(小学館)で「魔子」、「週刊少年キング」で「5五の龍」を連載。
1986年、「サスペリア」(秋田書店)で「学園七不思議」を連載。テレビアニメ化され1991年に「ハイスクールミステリー学園七不思議」としてフジテレビ系列で放映された。
2013年、森下文化センターで開かれた講演会「『漫画少年』とトキワ荘の時代」で、「眼が悪くなったので漫画は引退した」と語った。
余談
- 名前の通り8人兄弟の次男。末っ子のつのだ☆ひろは疎開先で生まれたため、他の兄弟と出生地が異なる。長男の角田喜代一はトキワ荘出身者で構成されたアニメ制作会社「スタジオ・ゼロ」で唯一、クリエイターでない役員だった。安孫子素雄(藤子不二雄A)によれば、作家ばかりで営業のできる役員が誰もおらず、つのだの兄が電通に勤めているというので頼んで掛け持ちしてもらったという。また、喜代一は赤塚不二夫が描くキャラクターダヨーンのモデルでもある。
- 新漫画党の月例会が馬鹿話をするばかりなのに腹を立て、つのだは抗議文を書いた巻紙をたたきつけて去ろうとする。しかし藤本弘(藤子・F・不二雄)から「無駄なようにみえても、それが血肉になっている」と諭され詫びを入れる。その後は積極的に道楽に耽るようになり、藤本から「それまでつのだ君はクソマジメだったけど、その後はマジメがとれて、ただのクソになった」と言われた。
- 「空手バカ一代」の途中降板については、入稿前日にようやく原作の原稿が届く有様で多くのアシスタントが逃げてしまったためとしている。
- 「ゴッドハンド」打ち切りの後も梶原一騎と真樹日佐夫からの脅迫が続き、鬱憤晴らしに「魔子」の最終回で「カラワジ・イキツ・キマト・ワヒオサ・ハノクキョウ・ミツオ・レシモオイ…呪われよ!」「カチク・ツテバン・ダクリノノロイ・オウケミクニク・ルクシミ・クタルバ…呪われよ!」と書いたのが梶原兄弟に見つかり、監禁され、各方面への詫び状を書かされた(この呪文は「梶原一騎と真樹日佐夫は脅迫の罪を思い知れ」「近く天罰下り呪いを受け醜く苦しみくたばる」のアナグラム)。後年、梶原は暴行事件での逮捕をきっかけに明るみに出た所業で作品の評価が地に堕ち、膵炎で健康を損ない、9年後に50歳で亡くなった。