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ウォルト・ディズニー

ゆめのくにのかみさま

ウォルト・ディズニーは、アメリカのエンターテイナー、映画製作者にして、ディズニーグループの創始者。
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概要

アメリカ合衆国の漫画家、アニメ製作者、映画監督、実業家。本名、ウォルター・イライアス・ディズニー(Walter Elias Disney)。アイルランド系アメリカ人として、1901年12月5日にイリノイ州シカゴに生まれた。


世界的なエンターテインメント企業である「ウォルト・ディズニー・カンパニー」の創設者。生涯の友人であったアブ・アイワークスととともに、その代表的アニメキャラクター「ミッキーマウス」を生み出した。


夢の国で知られるレジャー施設「ディズニーランド」を作ったのも彼の発案である。


アニメーション、芸能、映画、レジャーなど、おそらく20世紀における文化面で卓越した功績を挙げた人物と言える。

略歴

1901年12月5日の日曜日、アイルランド移民イライアスと妻フローラの間にディズニー家の四男として産まれる。父の親友の牧師の名を取ってウォルター(ウォルト)と名づけられた【ゲイブラー:2頁】。


シカゴの治安悪化に伴い、4歳になったウォルトは家族と共にミズーリ州の田舎町マーセリーンに移り住む。緑豊かなマーセリーンでは鳥たちがさえずり、ウサギやリスやキツネが駆け回り、リンゴやブドウの実る果樹園に囲まれていた。幼いウォルトは初めて来た瞬間からその地を気に入り、そこでの体験全てに魅了され、絶大な影響を受けた。この頃から絵画に興味を持つようになり、農場の風景や動物達を描くのに熱中していたという。

ウォルトはシカゴ生まれだったが、マーセリーンこそが真の生まれ故郷だと常に公言しており、そこで過ごした5年間を生涯で最も重要なひとときだったと信じて疑わなかった【ゲイブラー:3〜11頁】。


しかし父のイライアスが農業で失敗した上にジフテリアにかかって衰弱し、働けなくなってしまったことから、1910年末に農地を売り払ってカンザスシティに引っ越すこととなる【ゲイブラー:11〜14頁】。

貧困から父と兄ロイ・O・ディズニーと共に9歳のウォルトも仕事に駆り出された。ウォルトはそこで新聞配達をさせられ、6年間ほぼ無休で働き詰めとなり、特に冬の仕事は極寒地獄だったという。この当時についてウォルトは父親からは執拗に虐待を受け続けてきたと述懐しているが、ロイや妹のルース曰く、そこまで酷い人物でもなかったらしく、ウォルト自身、曲がりなりにも父親を愛していたという。

ウォルトはこの期間が自身の性格を強靭にしたと語っているが、一方で40年経った後も新聞配達の悪夢にうなされるなど、大きなトラウマにもなった【ゲイブラー:19〜20頁】。


学校ではひたすら絵を描き続けていたといい、友人にパラパラ漫画を描いて見せたり、黒板にルーズベルト大統領そっくりの似顔絵を描いたり、教師からポスター作成を依頼されたりするなど、多くの人々から一目置かれていたという【ゲイブラー:30〜34頁】。

同じ頃、人気急上昇中だったチャールズ・チャップリンの映画に夢中になり、映画や俳優にも興味を抱くようになる【大野:30〜36頁】。


1917年の春にアメリカが第一次世界大戦に突入し、高校生のウォルトは翌年の夏から兵役志願を両親に訴えるようになる。母親は息子を戦場に送ることに乗り気ではなかったが、最終的にウォルトの懇願に折れ、夫の代わりに署名を行った。この当時16歳だった彼は年齢制限が実戦部隊より低い赤十字の救援部隊を志願したが、それでも若すぎたため、年齢を偽装して9月1日にどうにか採用されたのだという【ゲイブラー:40〜42頁】。


しかし、フランスへ出発する直前にインフルエンザ(スペイン風邪)にかかって自宅に隔離され、そうこうしている内に休戦協定が調印され、戦争が終わってしまった。全快したウォルトだったが、周囲から取り残されたような虚無感に襲われ、「これほど残念な気持ちになったことはない」と後に回顧している。そんなある日突然非常呼集がかかり、終戦処理のため選抜されてフランスに送られることになった。本人はこれを戦争ではなく一種の冒険と考えていたという【ゲイブラー:42〜43頁】。


フランスではサン・シールを始め基地を転々とし、誕生日の翌週には講和会議に来たウッドロウ・ウィルソンを出迎えるためトラックでパリに向かい、最終的にパリ郊外の病院に配属されたが、病人の看病は担当せず、主に食堂で勤務していた。ウォルトはそこで中年の女性看護師と親しくなったり、漫画を描いて友人の兵士達を喜ばせたりするなど、充実した日々を送っていたが、やがてホームシックになって1919年9月3日にパリを発ち、10月11日にシカゴに着いた。

父親はゼリー工場に就職口を用意していたが、ウォルトは画家の夢を優先して就職を拒否し、カンザスシティへ向かった【ゲイブラー:43〜50頁】。


資格も経験もなかったが、ウォルトは常に意気揚々としており、雑用や見習いなどの仕事でなんとか職にありついてはいたが、早い内に勤めていた広告会社を解雇される。しかしそれでも希望を失わず、会社で出会った同僚のアブ・アイワークスを説得して共同事業を立ち上げようと持ちかけ、その過程で生涯における最も代表的な稼業、すなわちアニメーションと出会う。


1920年、19歳の若さでアニメーションスタジオを創業。アイワークスをはじめとするアニメーターを呼び寄せ制作したオリジナルアニメは高い評価を呼ぶが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になりスタジオは倒産してしまう。


ウォルトは兄のロイと共にハリウッドで再起を目指し、1927年、ユニバーサル・ピクチャーズの配給で「しあわせウサギのオズワルド」を制作。子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切っ掛けを作った。


しかし、ユニバーサル社との仲介をした興行師チャールズ・B・ミンツが法外な配給手数料を支払う様に要求、ウォルトがこれを拒否すると露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けた。アイワークス以外のアニメーターたちはこれに応じてしまい、ディズニー社は崩壊寸前の状態となる。


アイワークスとの二人三脚でディズニー再建に取り掛かったウォルトは、1928年に「ミッキーマウス」を生み出し新たな看板キャラクターに据える。初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。なお、初期の映画ではウォルト自身がミッキー・マウスの声優を演じていた。


対照的に、ウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代にはその人気を完全にミッキーに取って代わられる事になる。

同じ頃、アニメーションにおいて天才的な腕を有していたアイワークスとは対照的に、ウォルトは「思うように線が描けなくなった」と自身の才能に限界を感じ、原画は一切描かなくなっていた。やがては演出も監督も自ら降板し、全体を総括するプロデューサーの立場につくことを決意する。

しかし、結果的にこれが彼の持つ能力を最大限に発揮できるポジションとなった。


1930年代に入り、アニメーション稼業を更に発展させるべく、音楽に重点を置いた「シリー・シンフォニー」シリーズ、その内の一作である世界初のカラーアニメーション「花と木」、主題歌「狼なんかこわくない」と共に大ヒットした「三匹の子ぶた」など、歴史的に重要な作品を連発した。

さらにはグーフィードナルドダックといった新たなキャラクター達も生み出し、これまで人気を制していたミッキーの座を揺るがすほどの人気を呼ぶ。


やがて、長編アニメーション映画への野心が芽生え、1934年に「白雪姫」の製作を始める。当時は前例のない未曾有の企画だったため、リスクが多すぎるとして周囲からは猛反対が起こったが、友人のチャールズ・チャップリンの協力もあり、製作期間3年を経て1937年に公開。映画史上初の長編アニメーション映画となった「白雪姫」は、数多くの賞賛と大ヒットを記録し、ディズニー・スタジオの名声を確固たるものにした。


だが、同時期に巻き起こっていた労働問題の波に呑まれ、他の企業と同様にディズニー・スタジオでもストライキが勃発する。当時の労働者の権利については旧式の考えのままだったウォルトはこれに憤慨し、組合潰しに全力を注ぎ、不当労働行為を繰り返した。しかし、当時の世論は労働者側に同情的であり、ディズニー作品のボイコット運動が起きるようになると流石のウォルトも折れ、労働者の賃上げを約束したことで1941年7月30日に収束した。ウォルトは後々までこのストライキについて「共産主義者による陰謀」と信じて疑わず、コミュニズムに対する嫌悪感を一層硬化させ、自身の非を一切認めようとしなかった。この一連の騒動による精神的打撃は相当だったようで、極度の鬱状態に陥ってしまったという【大野:203〜210頁】。


この頃より、アメリカの負の歴史に大きく関与するようになってしまう。


ストライキで多くのスタッフを失い、長編製作のメドが立たなくなった折、アメリカが第二次世界大戦に参戦。それと同時にディズニー・スタジオは日本軍の攻撃に備える拠点として米軍に接収され、アニメーション製作に軍人が介入するようになり、プロパガンダ作品の製作を余儀なくされる。

当初ウォルトは大激怒していたが、このプロパガンダ製作には次第に熱心になっていったと当時のスタッフは振り返っている。戦争が激化するにつれて、国からの依頼ではなく自ら費用を負担して戦意高揚映画を製作するようになり、ディズニーと戦争は分かちがたい関係と化してしまった【大野216〜219頁】。


終戦後の1947年、プロパガンダ作品の乱発によって創造性を失ったウォルトはそれまで以上にアニメーションに関与しなくなり、赤狩りへと次なる情熱を向けて非米活動委員会の友好的証人として全面協力する。この際、ストライキに関与していたかつての仲間の名をあげ、そのプロダクションを間接的に閉鎖に追い込むなど、非常に卑劣なやり方で商売敵を潰している【大野:223〜227頁】。

同年ついにミッキーの声優を自ら降板してしまい、周囲のスタッフからは「もうエンターテイナーではなくなってしまった」と落胆された。


映画産業を退いたウォルトだったが、新たな事業に目をつけ、再び注目されることになる。


1950年代、かねてより温めてきたテーマパークの建設を始め、世界各地の遊園地を視察しながら構想を練っていった。関係者からはあまりにも野心的すぎるとして懸念の声が絶えず上がったが、ウォルトはそれまでにない程の熱意をこの計画に注いでいた。


更に、当時一般家庭に普及したばかりのテレビの可能性を考慮し、局と結託して特別番組やテレビシリーズの製作を始める。特に1955年に放送を開始した「ミッキー・マウス・クラブ」は、視聴率50%超えの大ヒットを記録、社会現象となった。こうして、映画のみに留まらないメディア・ミックス戦略でも大きな成功を収め、ウォルトは完全復活を遂げた。だが真の目的は別の壮大な企画、すなわちテーマパークだった。


そしてついにカリフォルニア州アナハイムにて、自らの名を冠したテーマパークであるディズニーランドを開設し、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。ディズニーランドは開演初日から熱狂の渦を巻き起こし、世界規模の大成功となった。ウォルトは自らパークへ行き来し、来場者の反応や自身の体験を元に、施設の改善、発展に励み、ジャングルクルーズ魅惑のチキルームイッツ・ア・スモールワールドといった数多くのアトラクションを手掛けた。この時期ウォルトは心身共にパークに入り浸っており、「ディズニーランドは彼の人生そのものだった」と後にいわれている。


他方、アニメーションの製作は完全に惰性と化していた。1950年の「シンデレラ」ではこれまで通りウォルトが決定権を持ち指揮にあたっていたが、以前ほど徹底した介入はせず、3年後の「ピーター・パン」では当たり前のようにだめ出しをしていたのがほとんどなくなってしまったという。スタジオ内では「アーティストではなくなった」「ただのプロデューサーにすぎない」「ますますビジネスライクになった」と落胆の声が上がった【ゲイブラー:416、431頁】。


しかしウォルトは映画への情熱を完全に失ったわけではなかった。


晩年に突然映画界に舞い戻り、これまでのキャリアの集大成的映画「メリー・ポピンズ」の製作を全面的に指揮。1964年に公開された本作は、死の間際にウォルトが再びアーティストとして回帰した最後の作品であり、彼の生涯における最高傑作のひとつとして迎えられた。


1966年12月15日に肺炎の為死去。享年65歳。


論争

かつて本人がそう公言したように、ウォルト自身は決して清廉潔白な聖人君子だったわけではなく、生涯を通してあらゆるスキャンダルに関与しており、存命中から数多くの批判にさらされてきた。その内容も、ウォルトが実際に犯したものだったり、誤解と偏見による捏造だったりと様々であり、現在でも議論が絶えない。



ウォルトは会社に関しては「お互いに助け合う家族のような関係」を目指しており、自身のことも気さくに呼び捨てで接するように呼びかけていた。しかし、作画を行わなくなった後もクレジットの「作画」の部分に自身の名前を載せたり、ファンにミッキーの絵を求められるとスタッフに描かせてサインだけ自分でするなどといった横暴な言動からスタッフの不満を買い、ストライキの発端を生み出してしまうこともあった【大野:201〜202頁】。

ただし、スタジオの労働条件への配慮を怠っていたわけでは決してなく、兄の目を盗んで勝手にスタッフの給料を上げたりするなど【大野:204頁】、彼なりにスタッフに対する想いは強かったようである。ウォルトの娘は「パパはみなを大切にした。使っている人が病気ではないか、なにが必要なのか知りたがった。みなの私生活に気を配っていた」と語っている【ゲイブラー:237頁】。

対照的に、晩年はスタッフに対して冷淡な態度を取るようになっていった。ウォルトは「無用の長物は刈り取らなければいけない」として、苦楽を共にした仲間達を尽く解雇するようになった。非常に信頼していた部下のウォード・キンボールはウォルトの指示に異議を唱えたために解雇され、膝を屈して懇願した末に屈辱的な条件で再雇用されている。古参アニメーターのフレッド・ムーアが解雇された直後に交通事故で急死した際は葬儀にも参列しなかった(ウォルトは葬式の類を極端に嫌っており、一番上の兄ハーバートの葬式にさえ出席しなかったという)【ゲイブラー:476〜477頁】。



ジョン・フォードフランク・キャプラアルフレッド・ヒッチコックといった多くの映画人達と同様、ウォルトもまた第二次世界大戦プロパガンダに手を染めていたことで知られる。ドナルドダック主演の「総統の顔」など、プロパガンダであることを認めた上で公開されている作品も一部あるが、東京大空襲前に制作された「空軍力の勝利」では、日本への爆撃を促す内容のために非公開となっている(ただしパブリックドメインなので視聴自体は可能)。

こうした戦意高揚映画を自らの意志で夢中になって製作してきた事実は、ウォルト自身、引いてはディズニー社全体にとって生涯残る恥部として歴史に刻まれることとなってしまった。



終戦後は赤狩りの急先鋒を自認し、1947年10月の公聴会で証言台に立ち、ロナルド・レーガンらと共に共産主義者とみなす従業員を告発した。ウォルトの共産主義に対する凄まじい嫌悪感は、この頃には既に全米に知れ渡っていた。

こうした姿勢の背景についてウォルト自身が語ったところによると、少年時代にアイルランド人の少年グループから暴行を受けたが、その父親達が民主党の組織に参加し、社会主義者のウォルトの父イライアスを馬鹿にしたためだという。この屈辱感から保守主義に傾倒し、徹底した共和党支持になったとウォルトは語っている【ゲイブラー:393〜397頁】。


右派で保守主義を自認する一方で、政治的信条の欠如を指摘されることもある。ウォルトの政治的立場は生涯混沌としており、1936年の大統領選挙ではフランクリン・ルーズべルトに投票した一方で、1940年には共和党を支持している。また、この当時共和党陣営から推薦を求められたが、ウォルトは「昔からわたしは政治というゲームがまったくわからない。だから自分のものでもない声明文に名前を貸すよりは、完全な沈黙を守ったほうがいいと考えてきた」と推薦の依頼を拒否したという【ゲイブラー:394頁】。

アニメーターのジョー・グラントは「ストライキの前、ウォルトは、平等で公正な社会を目指すには、皆が団結すべきだと考えていた。ある時期、彼は極端にリベラルだった」と述べている(「ウォルト・ディズニーの思い出」より192頁)。

1960年代には共和党に多額の寄付を行い熱心に応援、リチャード・ニクソンを支持していたが、1965年には「去年はちょっと政治を試してみたが、大して面白くはなかった」と語っている【ゲイブラー:570〜571頁】。

SF小説家で親友のレイ・ブラッドベリは、ウォルトにロサンゼルス市長選への出馬を打診したが、「わたしはすでに王者であり、そのわたしがなぜ市長などに立候補しなければならないのか」と答えられたという【ゲイブラー:567頁】。

このように、ウォルトは政治に一切の関わりも持たなかったわけではないが、公式の場で国の問題を話題にすることはあまりなく、政治についても基本的には無関心だった。



1930年代のディズニー・スタジオにおいて、アニメーションは基本的に男性スタッフが担当し、女性スタッフはセル画の彩色といった簡単な作業しか行わせなかったことから、ウォルトが性差別を奨励していたという批判も多く散見される。しかし、これは今以上に男性優位社会であったアメリカにおいては決して珍しい事例ではなく、「もし当時のディズニーをレイシストだとするなら、その時代の全ての企業が同じレッテルを貼られることになるだろう」と作家のアミッド・アミディは語る。参照

チャップリン研究家の大野裕之も「現代の人権感覚でもって問題視するのは公平ではないと考える」としつつ「その上でウォルトが当時のアメリカ白人の標準的な、すなわち保守的な考え方を持っていたことは否めない」と述べている【大野:268頁】。


ウォルト自身も決して女性スタッフを軽んじていたわけではなく、寧ろ会社の方針に異を唱え、1941年2月10日に自社で行ったスピーチの中で「女性にも男性と同じように昇進の権利があり、彼女たちが男性では決して成し得ない貢献をもたらしてくれるだろうと信じている」と力説した。これについてアミディは、アニメーション界における男女平等を明確に発表した最古の例だと推定している。ウォルトの言葉通り、スタジオ内では多くの女性スタッフ達が才能を見込まれて昇進し、1945年3月時点で81人の女性がアニメーション部門で勤務していたことが判明している。1930年代から1950年代にかけて、ディズニー・スタジオは他の並み居るアニメ製作会社よりも、単純作業のみに留まらない多数の女性スタッフを雇っていたという。

ウォルトから重宝されていた女性アーティストは数多く、例としてメアリー・ブレアギョウ・フジカワ(藤川堯)などが挙げられる。フジカワについては、第二次世界大戦が激化していたある日ウォルトが「やあ調子はどうだい。君のことをずっと心配していたんだ」と様子を見に来たとインタビューで述べている。日系人の彼女は、もしも自身の国籍を尋ねられた場合、真実を話すべきか嘘をつくべきかどうかを話したが、ウォルトは「なぜそんなことを考える必要があるんだい?君はアメリカ人だろう?」と返したという。



また、ウォルトは極度の人種差別主義者だったと痛烈に非難されることも多々あるが、これに関しても事実に反するものが大半で、関係者から否定されることが多い。


ウォルトは赤狩りに協力していた頃、「アメリカの理想を防衛する映画連盟」に在籍していたが、反共主義者ではあったものの、反ユダヤ主義者ではなかったとされている。実際スタジオにはユダヤ人も何人か雇われており、ウォルト自身ユダヤ系の慈善団体に定期的に多額の寄付を行っていた。

反ユダヤ疑惑と同時にアドルフ・ヒトラーべニート・ムッソリーニを崇拝していたという憶測も多く、ストライキを先導してウォルトと対立していたアート・バビットはナチ支援者の集会に彼が出席したと主張していたが、ユダヤに好意的で尚且つ政治集会に参加する余裕のなかったウォルトにとってこれはあり得ない話であり、虚偽情報だとされている。

1938年12月8日にウォルトがナチスのプロパガンダ映画監督レニ・リーフェンシュタールと自社で対面したのは事実だが、彼女が最新作「オリンピア」のコピーを渡そうとした際「もしわたしがその映画を試写したら、翌日にはハリウッド中に知れ渡ってしまう」と断っており、リーフェンシュタールを招いた当時は彼女の素性について知らなかったと後に弁解している【ゲイブラー:394〜395頁】。

ユダヤ人脚本家のモーリス・ラフも「ウォルトは非常に保守的だが、反ユダヤではない」と明言しており、スタッフの一人ハリー・タイトルは就職した時に、自身にユダヤの血が半分混じっていると漏らしたが、ウォルトは「全部ユダヤの血だったら、どれほどよかったか」と冗談を言ったと述べている【ゲイブラー:397〜398頁】。

娘のダイアン・ディズニー・ミラーのインタビューによれば、彼女の妹のシャロンがユダヤ人男性と交際していた際、父であるウォルトはとても誇らしげな様子だったという。


ディズニー作品の歴史上特に黒人差別的だと非難された「南部の唄」でも、ウォルトは主演のジェームズ・バスケットに対してアカデミー賞の授与を支持していた。ウォルトは本作の製作にあたって、黒人に対する偏見を抑えようと細部にまで気を配り、出演者の1人ニック・スチュワートからも「とても丁重にもてなしてくれた」と後に好意的に語られている(ディズニーの歴史研究家ジム・コーキスの講演より)。

また、スタジオ初の黒人アニメーターのフロイド・ノーマンも、ウォルトには差別的な行為は見られず、人種を問わず多くの人々に対し模範的な姿勢だったと述べている。

晩年にもルイ・アームストロングにディズニーソングのカバーアルバムの製作を依頼しており、同作にはウォルトがルイにミッキーマウスの像を贈る写真が掲載されている。


ウォルトが白人至上主義者だったという批判はほとんどが事実無根の出任せと中傷に過ぎず、上記のコーキスアミディといったディズニーの歴史を取り扱った作家達が証明しているように、ウォルトが差別を行っていたという確固たる証拠は一切存在しない。

ただし、「ファンタジア」などの諸作品において人種に対する配慮が欠落していたことがあったのは事実である。伝記作家ニール・ゲイブラーは、著書「創造の狂気 ウォルト・ディズニー」の中で「ウォルト・ディズニーは決して人種差別主義者ではなかった。公私にわたって黒人を侮辱する発言をしたこともないし、白人の優越感をひけらかすこともなかった。しかし当時の白人にありがちのように、人種的に鈍感なところがあった」と述べている【ゲイブラー:379〜380頁】。


人物

敬愛していた人物はエイブラハム・リンカーンチャールズ・チャップリン。元々俳優志望だったウォルトは、リンカーンの演説を暗唱して校長から気に入られたり、地元のチャップリン物真似コンテストで優勝するなど、幼少期よりエンターテイナーとして頭角を現していた【大野:30〜36頁】。


4歳の頃、家族揃って引っ越したミズーリマーセリーンの農園で5年近く過ごしたことから、自然や動植物を愛しており、よく田園の風景を夢中で描いていたという。このマーセリーンの暮らしがウォルトの人間形成の基盤となり、「人生に影響を与えた出来事はすべてマーセリーンで経験した」と述べるほど、自身の生涯のルーツとなった【ゲイブラー:7頁】。


子ども好きであり、子どもと同じ目線で演技指導をすることを心がけていた。本人も少年の心を忘れない人物と評されることがある【大野:140頁】。


ウォルトは本をあまり読まず、新聞以外ほとんど活字に目を通さなかったと伝えられているが、リンカーンについての情報はむさぼるように読んでいたという。上述の通り、ウォルトはリンカーンを心より尊敬しており、1963年にはリンカーンのロボットを製作して展示を行うなど、熱狂的なフォロワーだったことで知られている【ゲイブラー:519〜524頁】。

一方、娘のダイアン・ディズニー・ミラーによるとウォルトは実際には大変熱心な読書家であり、生涯の多くを本と共に過ごし、幼少期には膝の上に彼女を乗せて読み聞かせをしてくれたのだという。

幼い頃のウォルトは主に、「宝島」のような冒険譚や、「ピーターラビット」のような動物おとぎ話、シェイクスピアの戯曲の決闘シーンなどを好んでいたという。少年時代に愛読していた作家に、チャールズ・ディケンズウォルター・スコットビアトリクス・ポターロバート・ルイス・スティーブンソンホレイショ・アルジャージョーエル・チャンドラー・ハリスラッドヤード・キップリングウィリアム・シェイクスピアなどが挙げられる。参照

SF小説にも興味があり、ジュール・ヴェルヌH・G・ウェルズレイ・ブラッドベリらの作品が好きだったという。参照

ウェルズとは何度か面識があり、1930年代にウォルトはロサンゼルス作家クラブのディナーに招待された他、ウェルズをスタジオに招いている【ゲイブラー:214〜215頁】。ブラッドべリとは、彼がディズニー映画の大ファンで、ディズニーランドにも頻繁に訪れていたことから、1964年に出会って以来意気投合し、短い期間ではあったが、厚い友情で結ばれていた。参照

多くの小説家の中でもウォルトがとりわけ愛してやまなかったのがマーク・トウェインであり、幼少期にはトウェインの作品を全て読んでいたという程である。ディズニーランドには「トム・ソーヤーの冒険」の世界を再現したエリアや、蒸気船マークトウェイン号なるアトラクションが存在する。熱狂的なファンになった理由は、トウェインがミズーリ州で育ったことから、作品に自身の思い出を見出していたためだとされている。


大の鉄道マニアとしても知られている。マーセリーンで生活していた頃から蒸気機関車に憧れており、機関士だった叔父が線路を通る度に線路脇まで走って手を振っていた。鉄道愛が高じて夜通し作業所に入り浸って模型の製作に没頭し、1948年には自宅に鉄道のレールを敷いて機関車を運転して客人をもてなしていたという。長年の友人サルバドール・ダリは、模型の列車が細部にわたって非常に高い完成度を誇っていたために衝撃を受け、「列車衝突事故まで真似て、本物の事故を起こしたり、強盗団に襲撃されたりするのではないか」と冗談を言った程だった【ゲイブラー:403〜408、413〜415頁】。



性格は明るく楽天的であり、どんな苦境に立たされても諦めないポジティブ精神の持ち主だった。このような前向きで貪欲な姿勢が「誰もやっていなかったこと」を求めた結果得た功績に繋がっている。

ただし、これはあくまで表向きの顔であり、素のウォルトは非常にネガティブで内向的な人物だったことが度々語られている。また、本人の発言から、世界でのイメージと実像とのギャップに悩んでいたことも考えられている。ウォールストリートジャーナルによれば、ウォルトは友人の一人に対し、こう述べたとされる。


「私はウォルト・ディズニーではない。ウォルト・ディズニーならやらないことの数々を私は行っている。ウォルト・ディズニーは煙草を吸わなければ酒も飲まないが、私はいずれにも手を染めている」


尤も、生涯を通してこのような性格だったわけではない。初期の短編や映画「白雪姫」を製作していた頃の若かりしウォルトは野心に満ち溢れた情熱的な男であり、「黒く見えるほどのダークブラウンで燃えるような深い目をしていた」と称されている。

ウォルトの性格が暗い方向に変化していき、世間から批判の声が強まっていったのは、戦後から晩年にかけてのことであり、アニメーションへの関心が薄れていった時期である。1959年の「眠れる森の美女」の主演声優マリー・コスタは、当時のウォルトについて「ソケットに差しこんだように薄く浅い色の目だった」と以前の彼とは真逆の印象を語っている【ゲイブラー:498頁】。


良くも悪くも非常に気まぐれな性格であり、人付き合いを好まず本性を明かさなかったことで知られていた。長らく共に働いてきたスタッフからも「非常に理解しにくい人物だった」「最後には彼のことがますますわからなくなった」「二日として同じ人物ではない」と言われるなど、いかに複雑な人柄であったかが窺える。実の甥のロイ・E・ディズニーでさえ「一部屋に40人が集まっているとして、ウォルトとはどんな人物か、それぞれ紙に書けと言われれば、40人の違ったウォルトが登場することになるだろう」と語っている【ゲイブラー:まえがき】。

最晩年に一度だけ会ったことのある手塚治虫は当初の印象について「ちっとも愉快そうな顔をしていなかった」と述べている(「徹子の部屋」より)。手塚がある話題を紹介すると、ウォルトは手塚の顔をじっと見た後、途端に嬉しそうに喋りだしたという。

功績

製作手法

プロデューサーとして知られているウォルトだが、資金の管理以外でも、深く映画作りに関わっていた。

自身の能力に限界を感じて作画と演出を降板して以降、アニメーターの1人が開発したストーリーボードを用いてスタッフ全員で話し合い、多くのアイデアを出しながら物語を展開していくという方法を取っていた。この方法は、現在の映画界では当たり前のように使われているが、初めて導入したのがディズニー・スタジオだといわれている【大野:139〜140頁】。

作品製作に妥協は許さず、長期間かけて描いたシーンも容赦なく破棄するなど、納得がいくまで表現を求め続けたという。

ストーリー会議の際は、スタッフ達の前でウォルトがたった1人ですべてのキャラクターを、最初から最後まで演じ切り、それをスタッフがアニメーションという形で表現するという、極めてエキセントリックなスタイルで行われた。当初は俳優に憧れていただけあってかウォルトの演技力は相当優れていたと伝えられており、当時のスタッフからは「彼はいい俳優かコメディアンになれたかもしれない」「いろんな役を誰よりもうまく演じてみせた」と評されている【大野:134〜136頁】。

アニメーター育成

アニメーターの教育システムの確立もまた、ディズニーの重要な業績のひとつとして知られている。1932年、ウォルトは自身の要望を理解し、実現する人材を得るために、スタッフの提案でディズニー美術学校を発足した。さらに1961年カリフォルニア芸術大学設立の際も多大な援助を行い、同校からはジョン・ラセターを始めとした多くの才人が輩出された【大野:136〜137頁】。

技術革新

最新技術に対する姿勢も非常に積極的だった。トーキー映画が話題になっていた1920年代末期、全編音楽と効果音を流し、動物のキャラクターを人間の声で喋らせた「蒸気船ウィリー」や、当初は経費がかかるだけで商業的価値がないと見放されていた総天然色での製作が行われた「花と木」、1932年に実現した当時から興味を抱いていたステレオ録音技術を初めて導入した「ファンタジア」など、多くの作品にその革新性が見られる。

メディア展開

1936年までの間、ディズニー・スタジオの支援社だったユナイテッド・アーティスツが将来のテレビ放映権を保持することを主張したのに対し、当時まだテレビが家庭に普及していないにもかかわらず、放映権を渡したくなかったために契約を打ち切ったことから、テレビ時代の到来を予見していた先見の明であったといわれている。

ウォルトはこの時からテレビの可能性に注目し、1947年には全ての役員室にテレビを置き、放映権の保有に固執した。映画界では「テレビのせいで人々は映画館に行かなくなる」と敵視されていたが、そんな中ウォルトは「新しい映画の観客層を開拓するために、その可能性を積極的に活用していく」と主張し、新作映画の宣伝やテレビ放送など、現在主流となっているタイアップの多くを確立した【大野:241〜245頁】。

テーマパーク

史上最も有名なテーマパークであるディズニーランドの建設にあたり、ウォルトは各地の遊園地を研究し、本格的なテーマを持ったアミューズメントパークという、前代未聞の企画を実現させた。パークの専門家ではなく、航空機工事の関係者を呼び寄せたり、オーディオアニマトロニクスを導入するなど、それまでにない画期的な発想を用いて建設に携わっていた。ウォルトはディズニーランドを「永遠に完成しない世界」と称して完璧さを追求し続け、「アミューズメントパークの歴史を不可逆的に変えた」と評されている【大野:247頁】。


評価

若手時代から死後に至るまで、彼をめぐる評価は様々である。


ウォルトは古き良きアメリカへの愛を様々な形で語っていたことから、しばしば「名作をアメリカ流に改悪した」と批判されることがある(こうした批判は主にイギリスの文学を原作とした「ふしぎの国のアリス」、「くまのプーさん」などの作品について見受けられる)。尤も、ウォルトは「南部の唄」製作前に作品世界を十分に理解するため、原作者ハリスの生家を訪れたりしており、映像化するにあたって原作にはしっかり敬意をはらっている【ゲイブラー:379頁】。

晩年から死後にかけては、辛口の評論家による批判が激化していき、「人生には混乱も失敗も危険もないという錯覚を植えつけた」「純粋な創作活動に対する理解力も感覚もなく、支配欲から他人の作品を改ざんする」「マスカルチャー全体が暗黒の川の源へ堕ちていくように感じる。この暗黒の中心ではウォルト・ディズニーがパステルで描いた模造品を、黄金や象牙と闇取引している」など、彼に向けられた反感や敵意の声は枚挙にいとまがない【ゲイブラー:まえがき】。


J・R・R・トールキンは筋金入りのディズニーアンチだったことで有名であり、ウォルトを「吐き気を催す詐欺師」と厳しく言い捨てる程だった。1937年に「白雪姫」を鑑賞した際、同年に執筆していた自身の「ホビットの冒険」とドワーフの描かれ方を比較し、「古典的なおとぎ話を安っぽく商品化した」と酷評した。ちなみに、当時彼に同行していた「ナルニア国物語」の作者C・S・ルイスも同様の見解を示しており、ウォルトと彼の作品群に対しては否定的なスタンスを取っている。ただし、ルイスは作品の全てを非難したわけではなく、劇中の演出の一部については絶賛しており、「もしもこの男が一般的な教育を受けていたなら、或いはまともな社会で育てられていたならどうなっていただろう」と手紙に書いている参照

トールキンもディズニー映画に対しては「魅力的で賞賛に値する部分はある」と幾らか肯定もしており、ウォルト自身の才能についても認めた上で「耐え難い嫌悪感を感じる」と話している。参照


また、左翼を自認していたオーソン・ウェルズはウォルトの右翼思想に対して強い反感を覚えており、ウォルト自身に対しても拒絶していたと伝えられている。冷戦初期、ウォルトは非米活動委員会に加担していたの対し、ウェルズは要注意人物としてブラックリストに載せられており、両者の立場は相反の関係にあった。

一方でウェルズは、ウォルト本人についてはさておき、彼が製作に深く関わっていたアニメ映画に関しては敬愛していた。参照


チャールズ・チャップリンは早い段階からウォルトの才覚を見抜いており、1932年の初対面時に「君はもっと伸びる。君の分野を完全に制服する時が必ず来る」と伝えている【大野:111頁】。


ディズニーとしのぎを削っていたフライシャー・スタジオを率いて、弟のデイブと共にアニメーションの製作を行なっていたマックス・フライシャーは、彼の息子のリチャードに対して「ウォルトに、彼は監督を選ぶいい目を持っていると伝えてくれ」と電話したという。参照


ロシア人映画監督で、ウォルトと親交の深かったセルゲイ・エイゼンシュテインも「彼の映画の完成度には驚嘆する」【ゲイブラー:215頁】「時々ウォルト・ディズニーの映画を観ると恐怖に襲われる。ディズニーは人間の秘めたる思考、心象、理解、感情といった全ての要素を熟知しているように思える。その絶対的な完璧さに震えるのだ」と高く評価している。参照


互いの作品のファン同士だったレイ・ブラッドベリは、「ウォルト・ディズニーはこれまでのどんな政治家達よりも重要な存在だった。彼らは上辺だけの楽観主義を装うが、ウォルトは楽観主義そのものだった。他の誰よりも世界を良い方向に導こうとしていた」とウォルトの没後に述べている。参照


初期のディズニー映画に多大な影響を受けたことを公言しているスティーブン・スピルバーグは、2016年に「ウォルト・ディズニーが僕にもたらしてくれたことは2つある。1つは誰よりも僕を怖がらせたことで、もう1つはその恐怖から救ってくれたことだ」「映画を通して、自立した強い女性の美徳を世間に伝えた」と語っている。参照


アカデミー賞においては59回のノミネートと22回の受賞を果たしており、個人としての史上最多記録を現在でも保持し続けている。


手塚治虫は生涯尊敬する映画人に、チャップリンと共にウォルトの名前を挙げている。


大塚康生はディズニー・スタジオの製作手法について、アニメージュ文庫「長靴をはいた猫」の後書きでこう説明している。

「作画陣個々の創造力を引き出すことには大きな可能性をもっていますが、一歩誤ればたしかに出来はいいがバラバラな作品になる可能性もあわせてもっているといえましょう。この危険を避けるために全員が作品のすみずみまで理解し、自分の担当する部分だけを考えることのないようにライカリールを作ったり、意見交換やアイディア競争・テストなどをくりかえし行わなければならず、予算とスケジュールは厖大なものになってしまいます」

大塚はウォルトを、こうした手法の頂点にあって最終判断者として君臨していたと評した。


リアルサウンドテックによれば高畑勲は日本のディズニーを目指したアニメーション作家を公言していたという。2004年7月29日のほぼ日刊イトイ新聞では、「優れた才能を集めてイメージを伝え、その能力を過酷なまでに、実に見事に引き出した」と評している。また、「絵を描かないアニメーション作家」として、ウォルトと共通する部分を感じていた高畑は、「彼が『絵を描かない』と決めた判断力はすごかった、とぼくは思います。なぜならそのことによって、ディズニー自身が『自分で描いていることの狭さ』から脱出できたのですから」として、ウォルトの姿勢に敬意を表明しており、「なぜ絵も描かないのにアニメ監督をやっているのか」という周囲の質問に対し、いつも「ディズニーという人もそうなんです」と返すようになったという。


富野由悠季は「『手描きの絵であれだけ動かすことができる』という意味においての根気とそういうシステムを構築したディズニーというプロデューサーには大変優れた能力があると思った」と語っており参照宮崎駿もまた「非常にすぐれたプロデューサーだった」と高く評価している。参照

宮崎はウォルトの製作した映画に対して、よく批判的な評価を下してきたが、その一方で純粋に賞賛することもあった。また、欧米ではアニメーションという分野において多大な功績と影響をもたらしたという共通点から度々ウォルトと比較され、「日本のウォルト・ディズニー」と評されることが多い。こうした意見について、宮崎自身は上記のインタビューの中で「ウォルト・ディズニーとは違い、自分はプロデューサーではない」とした上で「1930年代にアニメーションを確立したという彼らの誇りと、それを使って商売をやってきたその後の人間たちとではずいぶん違うんだということです」と述べている。


関連人物

チャールズ・チャップリン

喜劇王」の名で知られる映画監督。ウォルトにとって幼少期からのヒーローであり師匠。映画製作やパーク建設において、多大な影響を受けたことで知られている。1956年のインタビューにて「私はチャップリンのすべてのギャグを真似した。彼の映画は、ただの一本も見逃したことはなかった」と熱弁している【大野:32頁】。

チャップリンもまた、ディズニー映画のファンであり、ウォルトの才能を高く評価し、数多くのアドバイスを授けた。1932年に初めて出会い、以降2人は親友となる。「白雪姫」製作時は周囲から反対の嵐だったが、唯一ウォルトを後押したのもチャップリンである。チャップリンは当時「モダン・タイムス」を配給した際の資料一式を参考用に提供し、その後も「『白雪姫』について君のことを過小評価させてはいけない。この作品は君の最大のヒット作になる」と激励し続け、言葉通り映画が大成功を収めた後にウォルトから感謝の手紙を送られている【大野146〜154頁】。

ウォルトのストライキ騒動への対応にチャップリンがショックを受けて以来、2人が対面することはなくなってしまったが、ウォルトの方は晩年までチャップリンを恩師として慕っており、チャップリンもまた、未完の映画「フリーク」製作時に「メリー・ポピンズ」を参考にするなど、両者の関係が完全に途絶えることはなかった【大野:281〜287頁】。

アブ・アイワークス

ウォルトの長年のパートナー。ミッキーマウスを世界で初めて描いた人物として知られている。1919年にカンザスシティの広告会社にて出会った。入社の際、採用試験として自身の名前のレタリング文字を4通り描いたウォルトは、先に入社していたアイワークスにどれが一番良いか尋ねたところ、「ウォルト・ディズニーだ」と答えられたため、この時初めて現在知られる自身の名を名乗ることになる【大野:66頁】。

その後、共にしあわせウサギのオズワルドミッキーマウスを製作し、黎明期のアニメ界に名を馳せるコンビとして知られるようになる。ウォルトはアイワークスの才能について高く評価しており、「ニューヨーク中のアニメーターが彼のアニメーションに脱帽するだろうとアブに伝えてくれ」と書かれた手紙を妻リリアンに送っている。一時は喧嘩別れもしていたが、ウォルトが亡くなるまで常に彼を支え続けていた。

リリアン・ディズニー

ウォルトの妻。一般には彼女こそがミッキーマウスの名付け親だとされている。1924年1月19日にディズニー・ブラザーズ社に入社し、ウォルトと出会う。当初は年下のウォルトに対して、特に関心を寄せなかったが、仕事終わりに車で送ってもらう内にお互いに特別な感情を抱くようになり、交流を深めていった後に1925年7月13日に結婚した【ゲイブラー:108〜113頁】。

しかし、夫婦の間には緊張も孕んでおり、汽車やディズニーランドに没頭する夫についてゆけず、喧嘩ばかりしていたという。娘のダイアンは「それは健康的な喧嘩だった。わたしたちの家族には隠し事はなく、家族はだれも我慢したり耐えたりすることができない。なにかいらいらすることがあれば、すぐ爆発してしまう。そしていつも母が最初につっかかっていた」と述懐している。気苦労の絶えない結婚生活だったが、ウォルト自身は女性絡みの不貞は決して犯しておらず、リリアンも晩年になって「ふたりで過ごした素晴らしい生活はかけがえのないものだった」と振り返っている【ゲイブラー:478〜480頁】。

ロイ・O・ディズニー

ウォルトの実兄。1923年12月に「ディズニー・ブラザーズ社」を設立し、マネージャー役を買って出た。その後の1926年2月、「弟の影となって支える」というロイの意向から、「ウォルト・ディズニー・スタジオ社」に名称を変更し、財政面で大きく貢献した【大野:91頁】。資金不足の中、銀行と交渉を重ね、映画製作やディズニーランド建設に向けて奔走し、亡くなるまで献身的な援助を行ったことからウォルトは晩年までロイを慕い続けていた。

かつてディズニーの幹部を務めていたロイ・E・ディズニーは彼の息子にあたる。

ナイン・オールドメン

レス・クラーク、ジョン・ラウンズべリー、ミルト・カール、マーク・デイビス、ウォード・キンボール、エリック・ラーソン、ウォルフガング・ライザーマン、フランク・トーマス、オリー・ジョンストンから成る9人のアニメーター。いずれも1920年代後半から1930年代半ばにかけて入社した古参であり、ディズニー・スタジオのアニメーター達の中でもずば抜けて優れた能力を持っていたため、1950年にスーパーバイジング・アニメーターとして固定された。ナイン・オールドメンという呼び名は、本来最高裁判所の9人の判事を指す言葉であり、ウォルトが気に入っていたことからそのまま命名された。

9人全員がアニメーションを担当したのは「シンデレラ」「ピーター・パン」の2作だけだが、ウォルトが存命中に手掛けた全ての長編映画においてメンバーの何人かが製作に参加しており、黄金時代のディズニーアニメーションを支え、後世のアニメーター達に多大な影響を与えた。参照

1982年にナイン・オールドメンのメンバーから直々にアニメーションの指導を受けた経験のある宮崎駿は、後に彼らとウォルトの関係について「あの時代にしかありえなかったような非常に濃密な幸せな関係だった」と称している。参照

クラレンス・ナッシュ

ドナルドダックの声を半世紀に渡って演じ続けた声優。牛乳配達員として働いていた1932年のある日、偶然通りかかったディズニー・スタジオにて、動物の鳴き真似の名人を求めているという噂を聞き、オーディションを受ける。ナッシュによる動物の鳴き真似を聞いたウォルトは「これこそ僕達が探していたアヒルの声だ!」と感銘を受け、ドナルドの造形に繋がったという。参照

1934年6月9日公開の「かしこいメンドリ」で初めてドナルドの声を担当し、同年にミッキー役のウォルトと10年以上に渡って共演し、以降も数多くのディズニー映画に動物の鳴き声を提供した。参照

フライシャー兄弟

マックス・フライシャーデイブ・フライシャーより成り立つアニメーターコンビ。1921年にフライシャー・スタジオを立ち上げ、ベティ・ブープポパイスーパーマンなどを発表したことで有名。ディズニー・スタジオ最大のライバルとして知られ、活動当時はお互いに影響を受け合っていた。ウォルト達も若手時代はフライシャー兄弟のアニメーションに憧れを抱いていたという【大野:216頁】。

ディズニー・スタジオのスタッフがストライキを起こしていたのと時を同じくして、フライシャー・スタジオも同様の騒動に巻き込まれて大打撃を負った。その数年後、社運を賭けた長編アニメーション映画「バッタ君町に行く」を発表するも、公開2日後に真珠湾攻撃が起こってしまい、太平洋戦争が勃発。それに伴い興行は打ち切りとなり、1942年5月にスタジオは倒産してしまった。

1954年の映画「海底二万哩」の監督リチャード・フライシャーは、マックス・フライシャーの実の息子に当たり、ウォルト自らの依頼で監督を引き受けている。参照マックスは1956年のカリフォルニア旅行の中でディズニー・スタジオを訪れており、ウォルトらと昼食を共にしている。参照

ウォルトとフライシャー兄弟の死後、1988年の映画「ロジャー・ラビット」にて、ミッキーマウスベティ・ブープらがゲスト出演を果たし、両社のコラボレーションが実現した。

トム・ハンクス

アメリカの俳優。2013年の映画「ウォルト・ディズニーの約束」でウォルトを演じた。ハンクスは役を引き受けた際、「ピカソチャップリンと同じく世界に影響を与えた人物を演じる機会」だと考えたという。ウォルトについては「彼の想像力はエンターテイメントに大きな変革をもたらした」「金儲けに無頓着ではなかったものの、基本的にはあくまでストーリーテラーでありフィルムメーカーだったという点でかなり特殊な存在だった」と語っている。参照 参照

親交の深いエマ・トンプソンによると、ハンクスは以前からウォルトに対し憧れを抱いており、彼に関する知識も豊富だったという。また、親しみやすい雰囲気やカリスマ性など、二人の間には共通点が多いとも述べている。参照

この他にもハンクスは、ピクサーの「トイ・ストーリー」シリーズでウッディ・プライドの声優を担当していることでも知られている。

手塚治虫

日本の漫画家。幼少期からディズニーやフライシャーのアニメーションに多大な感銘を受けたことを度々公言しており、ウォルトを大先生と呼んで尊敬している。手塚は「ディズニー狂い」を自称し、初期の「アリス・コメディ」シリーズから晩年の「メリー・ポピンズ」に至るまで、ウォルトの作品群を敬愛している。

1964年、手塚はニューヨークでウォルトと念願の対面を果たした。手塚はウォルトに「日本から来ました。『アストロ・ボーイ(鉄腕アトムのアメリカでの名前)』を作っています」と告げると「『アストロ・ボーイ』?知っています。良い作品です。これからの子ども達は宇宙に眼を向けなければならない。わたしも、ああいうものを手がけてみたいと思っています」と返されたと「手塚治虫ー僕はマンガ家」に記している。その時のウォルトの印象について、1967年に「頭から後光がさしているようだった」と述懐している。参照


担当声優

彼の声を吹き替えた担当声優は以下の通り。


余談

  • アリス・コメディ」の本格的なシリーズ拡大の頃には自身の力量不足からプロデューサーに専念しているが、最初期の頃は作画、演出及び撮影を全て一人でこなしていた【大野:88頁】。
  • 第一次世界大戦後の終戦処理でパリに滞在していた頃、仲間たちに絵を描いて小遣いを稼いでいた。更には仲間と協力し、棄てられた古いヘルメットをドイツ軍を模した迷彩色に染め、それに銃で穴を開けた後に戦利品と偽って帰還兵に売りつけるといった商売を行っていた【ゲイブラー:47頁】。
  • 自他共に認めるへビースモーカーだったが、煙草を吸う姿を公の場には決して見せなかった。これは若者に悪影響を与えるのを防ぐのと、自らのイメージを崩さないためであった。
  • 欧米では「死後遺体が冷凍保存されている」という有名な都市伝説があるが、もちろんこれは嘘であり、実際には火葬され、遺灰はカリフォルニア州に埋葬された【ゲイブラー:まえがき】。
  • ディズニーランド内でのお気に入りのドリンクは「ミントジュレップ」であり、よく片手に持ちながらパークを散策していたという。

参考文献

  • ニール・ゲイブラー「創造の狂気 ウォルト・ディズニー」(2006年)ダイヤモンド社

同著に記載された出典リンク

  • 大野裕之「ディズニーとチャップリン エンタメビジネスを生んだ巨人」(2021年)光文社新書

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ディズニー


映画監督 アニメーター 演出家 プロデューサー 声優


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