経歴
1935年三重県生まれの映画監督、プロデューサー、翻訳家。スタジオジブリ所属。アニメーション演出家だがアニメーター歴はなく基本的に絵は描かない。『柳川掘割物語』のような文化映画(ドキュメンタリー映画)も作っている。
仕事仲間からの愛称は「パクさん」。パンをパクパク食べていた様からこう呼ばれるようになったらしい。
上述のように、三重県生まれだが8歳の時に父の仕事(現在の高等学校に相当する旧制中学校教員、後に校長を務める)の都合によって岡山県岡山市に転居しており、以降は大学進学まで同地にて過ごしている。また1945年の岡山空襲で被災し3日間焼け跡をさまよい九死に一生を得た。この縁から晩年は長らく岡山県関連の仕事(デザイナー、イベントプロデューサー)も手掛けていた。この事から岡山出身とされる事も多い。
「三男である自分は兄達に比べ、まるで勉強しなかった」と本人は回顧しているも、東京大学に現役合格している(兄2人も東大に行っている)。東京大学仏文科在学中にフランスの大人向けアニメ映画『やぶにらみの暴君』に感銘を受け、大学卒業後、東映の子会社・東映動画に入社。『わんぱく王子の大蛇退治』で演出助手になり、テレビアニメ『狼少年ケン』で演出家デビュー。
また、高畑の数年後に東映動画にアニメーターとして入社した宮崎駿にとっては演出の師匠であり、労働組合における仲間として思想面でも絶大な影響を与えた。
昭和四十~五十年代に宮崎・小田部羊一・大塚康生・森康二ら東映動画出身の名だたるアニメーター達とタッグを組んで数々の名作を作った。
アニメの製作工程におけるレイアウトシステム(原画作業前に絵コンテに基づいて最終的な画面設計を詰めておく工程)の導入等、現在まで続く商業アニメ制作の基礎を築き上げた。
さらにアニメのキャラクターに実写作品の俳優のような「演技をさせる」という概念を持ち込んで漫符や記号的・定型的な表現に頼らないリアルな感情表現を行ったほか、緻密で丹念な日常描写による生活感や作品世界の奥行きの演出など、この時代に高畑が中心となって開発・導入した演出技法も非常に多く、彼らが後の日本アニメに与えた影響は絶大なものがある。
アニメーション監督の中では、特にリアリズムと考証を重視したことでも評価が高い。
原作付き・オリジナル作品を問わず、メインモチーフに関わる事物をとにかく研究し尽くし、明確な位置づけと徹底的な論理化によって物語と演出を練り上げるため、準備期間に相当な時間をかけていたことでも知られる。
「アルプスの少女ハイジ」ではスイスにて一年のロケハンを行ったことは有名。「おもひでぽろぽろ」では実際に1966年に放映された音源のカセットテープを入手して使用、『じゃりン子チエ』『火垂るの墓』では関西弁の表現のためにキャストを関西出身者で固め、『平成狸合戦ぽんぽこ』ではタヌキの研究者らと共に実際にフィールドワークによる調査活動を行っている。
1985年にスタジオジブリを宮崎・鈴木敏夫らと共に設立。作風の違いが顕在化していた宮崎と不協和音が目立ちつつも、二人三脚でスタジオを盛り立てることを目指した。しかし、2人が共に仕事をしたのはジブリの第1作『天空の城ラピュタ』が最後であり、押井守監督で想定されていた『アンカー』の企画で決定的に対立し決裂。以降、同じスタジオに所属してはいるが一緒に仕事をすることはなくなった。
本人は絵を描かないが、アニメーターの個性を巧みに引き出すことに長け、美術設定や作画において数々の実験的な試みを行っている。
長年セル画アニメの絵に不満があり、『ホーホケキョとなりの山田くん』以降は、CG技術を活用することで、水彩画風のアニメを制作している。
2015年には「かぐや姫の物語」で宮崎駿に次いで日本で二番目のアカデミー賞にノミネートされたアニメーション監督となった。
同年に「アニメのアカデミー賞」と言われるアメリカ合衆国のアニー賞において、アニメの振興に貢献した人物に与えられるウィンザー・マッケイ賞を授与した他、フランス芸術文化勲章オフィシエを授与された。
2017年夏頃から体調を崩し入退院を繰り返していたが、2018年4月5日、肺がんのため東京都内の病院で死去。満82歳没。
ジブリでの高畑
宮崎駿の影に隠れてあまり目立たないが、高畑は宮崎駿が常識人にしか見えないほど規格外れの奇人である。ジブリでは傍若無人な行動で周囲に波紋を投げ掛けつつも、その底の知れない知性と圧倒的な才能で畏敬を抱かれる存在でもある。
至らぬスタッフをお説教する際には、演出意図や要求する画について一部の隙も無くガッチリ論理的に説いて攻めてくるため、宮崎ですら下手に口出しすることができなかったという。
そもそも、なぜジブリが立ち上げられたのかというと、宮崎駿の個人事務所二馬力製作による高畑監督の実写作品『柳川掘割物語』で製作が1年から3年間に伸びた末、宮崎が用意した資金(『風の谷のナウシカ』で稼いだもの)を使い果たし、宮崎が自宅を抵当に入れざるを得なくなった騒動がきっかけ。『柳川掘割物語』で生み出された大赤字を埋めるため、高畑が「ならばいっそのことスタジオを作ってしまいませんか」と言い出したのである。高畑は言い出しっぺであるにもかかわらず「作り手は経営の責任を背負うべきではない」と言い出し、最後までジブリの経営には関わらなかった。
『かぐや姫の物語』が世に出たのは「どうしても死ぬまでに高畑の作品が見たい」という日本テレビの氏家齊一郎会長の意向によるもの。鈴木敏夫は高畑の死後、高畑に新作を作らせなかったのは、興行成績がふるわないせいではなく(精神的に壊されたスタッフが多すぎて)「ジブリが無茶苦茶にされてしまう」ことが真の理由だったと明かしている。
制作現場では、高畑からの無理難題に苦しむスタッフを宮崎が慰めたり、「パクさんには秘密だぞ」と助け舟を出すことも多かった(あの頑固で偏屈な性格で有名な宮崎が、である)。高畑から最も信頼されていた近藤喜文さえ「高畑さんのことを考えると、いまだに体が震える」と漏らすほど鬱に近い状態に追い込まれていたという。但し、こうした自身の面について自覚が皆無だったわけでなく近藤が(激務が祟って身体を壊したことで)早世した際、古参アニメーターに「コンちゃんを殺したのはパクさんよね」と詰られた際にも黙って頷いていたと言う(参照)。
一方で高畑は「パクさんはナマケモノの子孫です」と宮崎から評される極めつけの遅筆であり、プロデューサー泣かせ。TVシリーズをやっていた頃などは、宮崎と大塚康生が家に籠もって嫌がる高畑を半ば無理やり担ぎ出すこともあり、長編映画作品をメインとしてからは「公開日に間に合わせて映画を作った事が、遂に一度もなかった」とのこと。
『かぐや姫』ではコンテの制作速度が1ヶ月で尺2分相当程度の進みぶりというとんでもない遅さで、担当プロデューサーも何人も交代し、2006年に担当となった西村義明も「高畑さんと一緒に過ごした8年間が、僕を大きく変えた」としながらも「(高畑さんとは)二度と仕事をしたくない」と話している。
人となり
大変な勉強家で、専門の映像芸術はもとより、歴史・思想・美術・建築などは、それぞれ専門家並みの解説ができるほどの知識があり、実際に音楽評論や美術評論の著作もある。音楽は特にクラシック音楽に造詣が深く作曲も手がけており、ピアノ演奏も得意だという。仏文科出身だけあってフランス語にも堪能であり、翻訳家としての仕事もしている。
テクノロジーへの関心も高く、宮崎とは対照的にアニメ制作へのCGの導入には積極的だった。『かぐや姫の物語』の劇中歌『わらべ唄』『天女の歌』は、自ら初音ミクを使ってデモを制作したという。インターネットで動画を見るのも好きで、最近の芸能人や若手のミュージシャンなどもよく知っており、自作の出演声優は全て自らキャスティングした。久石譲を見いだしたのは高畑であり、『風立ちぬ』のヒロインの声優瀧本美織は高畑が気に入っていたことから宮崎に紹介したものである。
幼少の頃岡山空襲に遭遇し、家を焼け出されたうえに両親ともはぐれ、火の海の中をさまよい、死屍累々の中を辛うじて生き残った経験があり(この経験は『火垂るの墓』で色濃く表れている)、宮崎駿からは「空襲で死にかけたから、あのような人間不信のひねくれ者になった」と言われているとか...。
逸話
日本共産党の支持者であり「しんぶん赤旗」にはよく寄稿していたことで有名。貴重なインタビューが多々残っている。
同じく共産党支持者だった旧日本テレビ会長の氏家齊一郎は、興行的には大コケした『ホーホケキョとなりの山田くん』を個人的に大変気に入り「どうしてももう1本(映画を)作って欲しい」と高畑に懇願した結果『かぐや姫の物語』の制作につながった。
『かぐや姫の物語』と『おもひでぽろぽろ』の2作はアメリカの著名な映画格付けサイト、ロッテントマトで100%の評価を獲得しており、日本のアニメーション監督としては最も高い評価となっている。(アカデミー賞を受賞した宮崎の「千と千尋の神隠し」が97%評価)
朝ドラ『なつぞら』で中川大志が演じた坂場一久こと「イッキュウさん」は高畑がモデルとなっている。
プライベートは公にしない姿勢を貫いていたが、没後に「高畑勲お別れの会」で長男の高畑耕介氏が父・高畑について語り話題となった。
高畑耕介氏「各分野の才能豊かな仲間たちと表現し続けることができた。父は本当に幸せな人間だったと思います。父が望むものは、人間が人それぞれの個性と、育てられた社会的、文化的背景をお互いに理解し、尊重する。そして、それらは活かし、助け合い、譲り合って、小さいものや弱いものも安心して、暮らしていける世の中だと思います。」
『日テレ版ドラえもん』が終了となった後、シンエイ動画が『ドラえもん』の再アニメ化を検討した際に、作者藤子・F・不二雄に提出された企画書を記したのが高畑であり、シンエイ動画会長を務めた楠部三吉郎は高畑を「ドラえもんの恩人の一人」と称している。当該企画書は藤子・F・不二雄ミュージアムにおいて展示されている。藤子の漫画作品『エスパー魔美』での主人公のボーイフレンドである高畑和夫は名字や連載開始時期(1970年代後半~)、何より博覧強記の才覚を如何なく発揮することから、モデルは高畑ではないか、という声もある。
代表的な作品
ジブリ以前
『パンダコパンダ』
『赤毛のアン』
『じゃりン子チエ』
ジブリ以降
『火垂るの墓』
『おもひでぽろぽろ』
『かぐや姫の物語』