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日テレ版ドラえもん

にほんてれびどうがばんどらえもん

1973年(昭和48年)に日本テレビ系列で放送された『ドラえもん』初のアニメ化作品。
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概要

藤子・F・不二雄藤本弘)原作の漫画『ドラえもん』のアニメ版といえば、1979年(昭和54年)からテレビ朝日系列で放映されているシンエイ動画製作のものを指すのが一般的となっている。


しかし、実はそれ以前にも一度『ドラえもん』はアニメ化されている。それが『日テレ版ドラえもん』なのである。


1973年(昭和48年)の4月〜9月に日本テレビ系列で放映され、製作会社は「日本テレビ動画」(名称は似ているが日テレとは資本関係もない無関係の会社であり現にTBS系列においてもアニメを作成している。しかしながら前々身の日本放送映画と東京テレビ動画は日本テレビ専属のテレビアニメ会社だった)。


現在と同じく15分2話構成、スラップスティックコメディの要素が強かった原作初期の雰囲気をさらに強めにした形での内容であり、ドラえもんが頼れる保護者というより、イタズラ好きでトラブルばかり起こすが憎めないポンコツとして描かれている。そのため、現在のドラえもんの感覚で視聴すると違和感がある。

なお、初回の1話で登場した秘密兵器(クルクルパー光線銃)及び内容は明らかに現代で放送できるものではなく、当エピソードを元にしたひみつ道具のお話は藤子・F・不二雄大全集のドラえもん3巻にて「おかしなでんぱ」と改題され収録された。


この作品はカラーフィルムで作成されているが、放送時期の兼ね合いから白黒アニメだと誤解している人も多い(二代目ドラえもん役を演じた野沢雅子本人ですら忘れかけていたほど)。これは当時の資料が処分・散逸しており(これについては後述)、インターネット普及以前は当時の雑誌などに掲載されたと推測されるアニメの一部カットを映したモノクロ写真くらいしか一般の人が目にできる資料がなかったため、そのような誤解が広まったものと推測される。


一方でコスト削減のため、本作は16mmフィルムで直接撮影が行われた。日本製アニメは長く富士フイルム製32mmシネフィルムで製作し、局への納品前に16mmフィルムに転写するのが通例となっていた。本作の少しぼやけた画調、独特の色調はこれが理由であったといわれる。ちなみに同様にコストを低減させた例としては、『機動警察パトレイバー』旧OVAがある(コダック製フィルムを使ったため、どうしてもフジのように鮮やかな発色が出なかった)。


日テレ版のドラえもん好きなファンのことを蔑称して「ヒャア信」(ヒャアとはOPの歌い出しから取られたもの)と呼ぶことがある。


放送開始前〜開始後

元々別作品の制作がポシャった事により学年誌からアニメ化に使えそうな作品を探した結果、当時アニメ放送中の新オバQと同時連載していたこの作品に白羽の矢が当たり、制作は1月にパイロットフィルム完成、4月から放送と現場は急増で進められた。

放送時間は日曜日の19時台であったが、この枠の裏番組には『マジンガーZ』や『アップダウンクイズ』等の人気番組が放映されていたため視聴率は苦戦していた。しかし、ドラえもんの声優を富田耕生から野沢雅子に変更したり、ドラえもんのライバルともいえる「ガチャ子」なるキャラクター(一応原作にも登場している)を活躍させる等のテコ入れを図った事により、徐々にであるが人気が上がっていった。


当時のスタッフによると、どうしても納得ができずあとは納品するだけとなっていたフィルムをリテイクしたこともあったと言う(現存するフィルムの一部としてこのリテイク版のフィルムが残っている)。この『ドラえもん』のおかげで日本テレビ動画の経営も黒字になった。


また、日本テレビにとっては確かに7-9%とその時代としては冴えない視聴率ではあったが、もともと『マジンガーZ』と『アップダウンクイズ』の視聴率競争の煽りを受けるこの時間枠にあって、高い視聴率自体は局からそれほど期待されておらず低いながらもなんとか安定した数字が取れ、また子供に大人気の藤子不二雄原作アニメということでスポンサーが定着していた(民放として一番重要なのは数字そのものではなくこの定着部分である。視聴率はスポンサーに対する営業をかけるための数字であり高いに越したことはないがそれだけでは意味がない)。この為さらに2-4クールの延長を打診していた。


よって、かつて噂された「視聴率低迷による番組打ち切り説」は全くの誤りである。

では何故わずか半年で終了してしまったのか、それは・・・


打ち切りの経緯

終了の経緯に関してだが、本作の放映中の8月頃に日本テレビ動画の実質的な経営者(社長と自称)だった新倉雅美が理由不明の失踪を遂げた。さらに前身である東京テレビ動画時代に製作した劇場用作品『ヤスジのポルノラマ_やっちまえ!!』などで発生した赤字が酷く、日本テレビ動画はこの負債の返済に追われていたが、『ドラえもん』がそこそこヒットしたおかげで赤字の清算が可能となり、会社経営に嫌気が差していた後継の経営陣が会社を解散させることを決断。


そのため『日テレ版ドラえもん』は僅か半年でその生涯を終えることとなる。また、その終了直後に日本テレビ動画も製作会社としては解散状態となり、いわゆる清算会社と化した。

残されたスタッフは日本テレビ動画の清算に伴う残務処理に追われ、その過程でグロス請け(アニメ業界における下請け)先への支払金を確保するために会社の備品を売却し(本作は急ピッチの制作が決まった為、当時のアニメとしては比較的グロス請けの担当会社が多かった)、また短期間で社屋を引き払う必要があるために本作の資料やセル画の一切合切を廃棄処分とした。

突然の会社解散によりアニメの終了が藤子スタジオや小学館側に伝わらなかったことも原作者側が不義理を働いたと思わせることになったと推測される。


当時の制作担当責任者を勤めた真佐美ジュン氏が個人的に所有していたものや、フィルム現像を担当したIMAGICA(当時は東洋現像所)に奇跡的に残っていたシリーズ後半の16話(8回)分のネガフィルム以外はほぼ現存しないとみられている。また当時はまだ一般庶民の録画環境も満足に整っていなかったことから、市井に存在する可能性は低くそれこそ幻に近いものと考えられる(一般家庭にビデオデッキが普及するのはこれから約10年後の昭和50年代後半になってからである)。


なお、新倉は後にフィリピンに移住し、1986年5月2日に拳銃密輸で逮捕されている。会社の清算方法は資料などの徹底的な処分を予め図った上で処理されており、新倉を基準にしてみれば夜逃げのようなものだったと言える。

この他、新倉は新潟県出身で県内の有力者とも繋がりがあったことが、逮捕当時の週刊誌などで報じられている。時の権力者でテレビ放送に関わる権限を有する郵政大臣経験者であり新潟県出身の田中角栄が、同社に間接的に全国テレビ放送アニメであるドラえもんの放送を斡旋したと言う「ロッキードラ事件」説も存在する。なお、新潟県内では新潟放送にて、平日の帯放送の形で本放送終了後より遅れネット。


テレ朝・シンエイ動画版への継承

“最終回”じゃない“最終回”

上記にあるように民放として重要な「スポンサーの定着」がなされていたこともあり、終了と会社精算に際しても、スタッフの多くが東京ムービーが引き継ぐなどして制作再開があると信じていた。

このため、最終回は急ピッチながらいろいろと仕込みがされた。まず、最終回のエピソードはてんとう虫コミックス(TC)6巻収録の有名なものではなく(そもそも本作最終回当時には、このエピソードは執筆されていない)ドラえもんとの永遠の別れを避け、再会を誓う最終回「ドラえもんがいなくなっちゃう!?」(1972年『小学四年生』3月号版)が選ばれた。そして放送終了時のアイキャッチは最終回であるにもかかわらず「次回もおたのしみに」と書かれていたのである(それ以前の回は「来週もおたのしみに」)。これは真沙美氏によれば「再びいつかドラえもんを」という決意表明だったという。


本作の終了を受けて小学館は『ドラえもん』の展開に区切りをつけるべく、藤本との話し合いを経て「さようなら、ドラえもん」(『小学三年生』1974年3月号)を発表するに至ったが、それを受けた子どもたちの熱烈な反発があいまった事から「帰ってきたドラえもん」(『小学四年生』1974年4月号)が執筆されるに至る。…とされていたが雑誌掲載時から既に「四年生に続きます」という告知文が存在した為単に同年8月に発売予定の「てんとう虫コミックス」(TC)用の最終回であった可能性も高い。

この事により『ドラえもん』は完全な意味で「終わっても再開できる作品」としてお膳立てが整えられる事となった。

それは原作のみならず本作に対しても同時に同様の条件が整えられた事を意味する。

そして初の単行本化である「てんとう虫コミックス」が爆発的な売上を記録し『ドラえもん』は終わるどころか学年誌を代表する作品へと登り詰めていった。


しかし、その後およそ6年間に渡ってドラえもんのみならず、65年の「オバQ」から長らく続いていたすべての藤子作品の新作アニメが途絶えた。この間ドラえもんの映像化権は原作者から信頼を置かれていた東京ムービー(現トムス・エンタテインメント)に委ねられていたとされ、同社との業務提携を解消して1976年に独立したAプロダクション(現・シンエイ動画)が映像化権を取得。1977年秋、ついに再アニメ化の企画を同社の楠部三吉郎氏が藤本に持ちかけた。しかし藤本は即答せず、長い沈黙の後、最終的に以下の条件をつけてアニメ化を許諾したという。


「私の作品はどこが受け入れられなかったのでしょうか?」

その条件とは「ドラえもんをどう見せるつもりなのか、原稿用紙数枚でいいから気持ちを書いてくること」また「藤子不二雄Ⓐ作品からもアニメ企画を出すこと」。


なぜこんな条件を出したのか。

それは日テレ版の顛末により藤本がアニメ原作としての自身の作品に対し自信を喪失していたためである。というのも、上記のコメントを受け楠部氏が制作を依頼して高畑勲が作成した企画書を藤本はかなり早い段階で承知していたのだが、一方で肝心のテレビ局への売り込みはことごとく失敗していた。テレビ朝日の編成局員だった高橋浩が再アニメ化に納得したものの、逆に高橋が「日テレが失敗した作品を、なんでうちで引き受ける話をしてるんだ」と言われてしまう。

この為、藤本もアニメ化の失敗の原因が自身の原作にあるのではという一種の軽いノイローゼ状態に陥ることになったのだ。


だからこそのこの条件である。同じ制作会社でA氏の作品と並行してアニメ化すれば自身の作品の問題点がわかりやすいし、同時に「安孫子と一緒になら……」という思いがあったのも事実だろう。まさに「2人で1人」の面目躍如であった。


この為、テレビ朝日・シンエイ動画は藤子Ⓐ作品からアニメ企画を出さねばならず、これにより『怪物くん』(カラー版)のアニメ化が決定する。さらに同作の終了後は後継番組として『忍者ハットリくん』『プロゴルファー猿』と、1988年に藤子不二雄コンビが解散するまでA氏作品のテレビ朝日・シンエイ動画制作アニメが続くこととなった。


もっともテレビ朝日にとっては悪い話ではなかったようで、むしろ一度モノクロ版で成功している『怪物くん』のカラーアニメが放映でき、またこの件は裏を返せば藤子作品のアニメ化作品をテレビ朝日が一気に独占する機会ともなる。実際、1987年に『キテレツ大百科』がフジテレビに卸されるまで、テレビ朝日は藤子アニメを独占することとなった。


6年越しの“次回”の実現

ちなみにシンエイ動画版ドラえもんの放送第1回はドラえもんが未来からやってくる話ではなく、原作の『ガリバートンネル』を元にした『ゆめの町、ノビタランド』である。しかも、なんの説明もなく最初からドラえもんが居る。

ドラえもんがやってくるエピソードは1980年の正月特番『未来の国からはるばると』で説明されることになる。

要するに6年越しの“次回”が制作されたのだ。

(したがって、話数を敢えて通算するならば『ゆめの町、ノビタランド』は第27回として処遇すべきなのだろう)

これは日テレ版の意思を継いだ…訳ではなく「ドラえもんという不思議な存在にスポットを当てず、ポケットから取り出した物により日常が非日常になるのが子供達を惹きつけるのだから、第1話からエンタメに焦点を当てた方が良い」という高畑勲のアイデアが元になっている(そもそも帯番組の性質上制作順と放送順が初期は異なっていた)。


声優も配置を変えつつも、改めて担当した人が多かった。小原乃梨子(玉子→のび太)、肝付兼太(ジャイアン→スネ夫)が、加藤修は引き続きスネ夫のパパを演じた。

そして、肝心のドラえもん役だった野沢雅子はどうしたのか。ドラえもんのレギュラーキャラクターとしては配置されなかった。やっぱり……いや、そんなことはない。野沢氏の配役は決まっていた。怪物太郎である。実は『怪物くん』の声優はモノクロ版の白石冬美から出演希望(作者の藤子不二雄に直訴も行なっている)があったのだが、それを押し切っての抜擢だった。

シンエイ動画は日テレ版『ドラえもん』が決して失敗作ではないことを証明しなければならないため、並行制作の『怪物くん』とともに不退転の体勢で臨んだのである。


さらに、『ゆめの町、ノビタランド』のテレビ朝日本放送日は1979年4月2日であり、奇しくも1973年4月1日放送開始(『出た!ドラえもんの巻』)の6年と1日後に放送を開始したのである。

日本テレビ動画の元スタッフは、再びブラウン管に登場した、再放送ではない完全新作のドラえもんの姿にただ感動したという。


なお、テレ朝版も初期は安定しているとは言えず、まだまだ原作初期のスラップスティック調であり日テレ版の作画の影響を受けている部分も多い。これが引き締められるのは1983年のキャラクターデザインマイナーチェンジ後である。


後年への影響

作品の現状

アニメ放映後と共に製作会社の日本テレビ動画が解散し、ネガや資料、セル画がほぼ処分されたこともあり、現在このアニメは著作権の引継ぎ手も不明であり宙に浮いたような形となり、真沙美氏が会員制HPでupしていた編集版のopやedがYoutubeニコニコ動画などの動画サイトで無断転載され(皮肉にもこの出来事がネットでのこの作品の知名度を引き上げたが、真沙美氏はup予定だった他の映像を上げるのを取り止めた)権利者削除もされることなく漂流しているような存在である(藤子プロが権利者削除に熱心でないだけかもしれないが)。かつては、前述した真佐美氏が上映会を行うこともあったが、藤子プロが中止の要請を出したことや、真佐美氏が病気を患ったこともあってか2018年を最後に行われていない。

近年の例では製作会社の倒産でアニメ放映が中止となった『サイボーグクロちゃん』が似たような存在といえよう。


関係者の評価

原作者の藤本が、この作品を「あれは私のドラえもんではない」と言って嫌っていたという話(後述の富山事件の通説での証言)や、本作をあまり知らない若い世代を中心に藤本が原作とのイメージが違うドラえもんに不信感を抱いていたかのように、まことしやかに語られることがある。事実、1981年6月号のコロコロコミックにおいては藤本直々に二作目と対照させる形で「一度目のアニメが失敗だったため、二度目は不安でした」と本作について言及している。


加えて当時の小学館の『小学二年生』で編集長をつとめていた井川浩氏によると、藤本が送った設定資料をアニメ制作会社に送ったが、それに対する反応が無かったことや番組が打ち切られた報せが小学館に来なかったことを理由に不信感を抱いたとしている(但し打ち切りの報せの件に関しては前述の日本テレビのスタッフが会社の清算に追われていたことも大きい)。


後年、野沢氏は、NHKのある番組にて「出すの早すぎたんでしょうね、そんなに長く続かなかった」などとコメントをしている。また野沢氏自身は本作に対して思う所はあまり無いようで、過去に数回バラエティー番組内で本作のドラえもんを演じている。


他にも、テレ朝版にてドラえもんのCVを担当する大山のぶ代女史や、藤本のアシスタントスタッフであったえびはら武司氏などのドラえもん関係者の証言からは、藤本がこのアニメ版について少なからず否定的な感情を抱いていたことが窺える。

後のアニメ版の制作元・シンエイ動画元社長の楠部三吉郎氏は上記の企画書提出時に『ドラえもん』のアニメを僕に預けてくれ、と直談判に言った際にこう返されたと語っている。

「いままで自分の作品は、良縁に恵まれてきました。『オバQ』にしても、『パーマン』にしても、みな幸せな家庭へ嫁に出すことができました。でも、『ドラえもん』だけは出戻りなんです。さんざんな仕打ちを受けて戻って来た、かわいそうな娘です。でも僕にとっては目の中に入れても痛くない、かわいい娘なんです。だからもし、もう一度嫁に出すことがあったら、せめて婿は自分で選ぼうと、そう決めていました」


さらに、当時のアニメは終了すると原作も終わるというのが常識であり、ドラえもんも例外ではなく日テレ版のアニメの突然の打ち切りに伴って、漫画の連載も一度終了を打診されていたが藤本がそれを突っぱねており、一時的に小学一年生は「モロッコくん」に切り替え、四年生では「バケルくん」や「みきおとミキオ」が同時連載された。

よって、藤本がアニメの一連の連載終了の流れに至った経緯や前述のノイローゼを発症した件も加えて日本テレビ版に対してあまり良い印象を持っていなかった可能性がある事は想像に難くない。


一方で、真佐美氏によると、ドラえもんの配色などの設定やはこの日テレ版のドラえもんの放映の前に藤本に直接相談しながら決めたらしく、声優の指定も藤本が中心となって指定したらしい(アニメ放映中においても藤子サイドとアニメ制作サイドとの間にパイプ役が存在したという証言もある)。

他にも、本作のOPやEDの歌詞は藤本が直接携わっていることから、少なくとも制作初期の段階ではアニメ制作サイドと藤子サイドがある程度歩み寄ったうえで作られていたと思われる。日テレ版最終回の後に真佐美氏が藤本の元を訪れると、『ぜひまたやろうよ』と言って握手してくれたとも語っている。

また、アニメの放映後に発表された『おそだアメ』というひみつ道具が登場する回では日テレ版のOPの歌詞のパロディとも言える歌が登場しており、関係者が語っているほどそこまで藤本が否定的に捉えていたのか疑問の余地が残る。


よって、前者の関係者の証言はそれが作品の不出来による嫌悪によるものか、それとも単に関係者の都合による勝手なアニメの打ち切りに対して否定的な意見を述べたことによるものであったかどうかなど関係者の発言に一部食い違いがある事や第三者の見聞きしただけの漠然とした発言内容も相まって解釈が分かれる(また、こういった経緯を知らないで安易に終了の経緯や作品について語る事は対立煽りに繋がりかねない為十分に注意が必要である)。


どちらにせよ真実は藤本が鬼籍に入られたことで、真意は藪の中にほぼ入ったと言っていい。

真意を知っている可能性のある人物は1人だけいたが、ついにそれは語られることのないまま彼もこの世を去ってしまった(このような意味でもまさに「2人で1人」である)。本作放映終了後には、富田氏に対して「あの時期に『ドラえもん』は早すぎた」と慰めの言葉は掛けたという。


過去に、日テレ系の番組でもある『特命リサーチ200X』で本作を流す話も出たが、小学館や藤子プロ側の同意が得られずに白紙化された模様である。


その後の藤子アニメ

上記の通り、6年間のブランクが本作のお家騒動に端を発しているため、シンエイ・テレ朝版『ドラえもん』『怪物くん』以降も、藤子作品は手塚治虫作品と並ぶ児童向けマンガの定番とされながら、アニメ化は長くテレビ朝日・シンエイ動画が独占した。


制作会社・放映局の独占は1987年の『キテレツ大百科』(フジテレビNAS(先行90分特番)/スタジオぎゃろっぷ)までと短いが、本作の後処理が非常によろしくなかったため、同作も含めて1979年以降のアニメ作品のソフト化などの権利は小学館と藤子プロダクション→藤子・F・不二雄プロ/藤子スタジオ(後者は藤子不二雄A)がガチガチに管理した


『キテレツ大百科』でフジテレビは多少信頼を得たのか、児童向け作品ではない作品(『笑ゥせぇるすまん』などTBS深夜番組『ギミア・ぶれいく』番組内ショートアニメ)はフジサンケイグループポニーキャニオンがソフト化の権利を得た。


流石にここまでくればもう良いという話なのだろう、1989年に日本テレビの2時間特番用アニメとして『T・Pぼん』がスタジオぎゃろっぷで制作された。


が、これが見事に権利どっか行っちゃっててVHS時代に出たっきり行方不明


藤子サイド(もちろんA先生含む)の怒りを再燃させたのか、以降も藤子・F・不二雄プロと藤子スタジオの権利引き締めが行われてしまい、21世紀初頭頃まで自局制作番組の民間による管理を嫌がっていたNHK制作とポニーキャニオンのソフト権利分を除くと、引き続き小学館・藤子プロ/藤子スタジオ管理が続いている。


放送局

前述の通り、日本テレビ系列全国ネットでの放送であるが、当時日テレ系列の無かった地域などでは、他系列局で放送されたケースもあった。

2023年現在、日テレ版、1979年テレ朝版、2005年テレ朝版通して全ての地元テレビ局で「ドラえもん」を放送したのは



の2県のみとなっている。また、日テレ版、1979年テレ朝版、2005年テレ朝版いずれも同じ地元局のみで放送されたのは



の4県である。富山県は本放送に限れば一貫して北日本放送で3本とも放送されたが、後述の通り僅かの間富山テレビが日テレ版を放送していたため含まれない。


なお、テレビ朝日版ドラえもんの放映がされる様になった頃、日テレ版ドラえもんの今後を左右する様な重大な事件があった。

1979年にテレビ朝日版ドラえもんが放送を開始した後、唯一日テレ版を再放送した放送局(富山テレビ)があったが、放送9回目にして急遽打ち切られてしまった(通称:富山事件)。

当時の小学館の関係者によると藤本が「あれは私のドラえもんではない(意訳)」として憤慨し小学館と藤子スタジオが連名(もしくはF氏単独?)で富山テレビに通告及び抗議が行われ、打ち切りとなったとされる。この事件をきっかけに、日テレ版ドラえもんの再放送は行われておらず事実上の封印作品として扱われるきっかけとなった決定的な事件と言えるだろう。


しかし、近年になって当時のテレビ朝日の関係者からこれらの抗議は、通説の藤本主導によるものではなくテレビ朝日側主導で行ったことを示唆する証言が新たにされた。よって実際のところ藤本のこの事件への関与及び真意は定かではない(むしろ通説の打ち切りの経緯が一人歩きで紹介されて後年に作品の評価を下げている要因につながっている)。


この打ち切り事件は単なる嫌悪感だけの話にとどまらず、テレビ朝日版との競作関係に陥ることへの懸念や権利問題が大いに関係しているとされており、小学館などの関係者の間でも取り扱うこと自体タブーで、小学館や藤子プロ側から出されるドラえもんの歴史などを扱った公式資料本などでは、このアニメがほとんど取り扱われる事はない。


さらに上述のような「著作権の扱いがあいまい」なうえ「当時の資料が極めて乏しく、公式においても内容を取り扱いにくい」といった事が拍車をかけて、今日において封印作品として扱われているのが現状である。


ただし、富山テレビはフジテレビ系列であり、テレビ朝日系列の存在しない富山県内では同系列の番組もいくつかネットしているが、現行のテレビ朝日版は富山テレビでの打ち切り約半年後に日本テレビ系列の北日本放送が開始したというややこしい関係が存在しており、これもあれやこれやの噂の原因になっている(もっとも日テレ版の富山における本放送はこれも北日本放送が行っていた。またテレ朝系の存在しない県では一部を除き日テレ系列がネットしているパターンが多い)。


主題歌

オープニングテーマ

「ドラえもん」

作詞:藤子不二雄、作曲:越部信義、歌:内藤はるみ&劇団NLT


また、これとは別にパチソン版(オリジナル版とは異なる歌手によるマイナーチェンジ版)が存在した模様。


エンディングテーマ

ドラえもんルンバ

作詞:横山陽一、作曲:越部信義、歌:内藤はるみ

クイーカの合いの手が入った曲。


挿入歌

「ドラえもん いん できしいらんど」

作詞:藤子不二雄、作・編曲:越部信義、歌:コロムビアゆりかご会&劇団NLT


「あいしゅうのドラえもん」

作詞:横山陽一、作・編曲:越部信義、歌:富田耕生


キャスト


スタッフ

  • 原作:藤子不二雄(小学館学習雑誌連載)
  • 企画:藤井賢祐(日本テレビ)
  • プロデューサー:川口晴年、米沢孝雄(日本テレビ)、佐々木一雄
  • チーフディレクター:上梨満雄
  • 担当演出:岡迫和之、腰繁男
  • 脚本:山崎晴哉、鈴木良武、井上知士、吉原幸栄、馬嶋満、園屁蔵士
  • 原画:日本テレビ動画新潟スタジオ、スタジオジョーク、上條修、竹市正勝、田中保、永樹たつひろ
  • 動画:スタジオジョーク、秋山博雅、荒井政良志、岡山陽子、加藤輿治、楠田悟、滝波いつ子、八武崎好郎
  • 背景:スタジオじゃっく、アトリエローク、高野正道、西巻晶子、亀川尚子、平川やすし、細谷秋男、阿部行夫
  • 仕上:日本テレビ動画新潟スタジオ、江口マキ子、大橋啓子、黒田英里子、小林一幸、島崎あつ子、長村葉子
  • 仕上外注:スタジオ古留美、狩野節子、若井喜治、石田康美、石田国松、石田ヤゴ、川上直子、中野則子、三宅敏博
  • 絵コンテ:生頼昭憲、奥田誠二、棚橋一徳、矢沢則夫、村田四郎、岡迫和之、石黒昇、腰繁男
  • 作画監督:鈴木満、村田四郎、宇田川一彦、生頼昭憲、白川忠志
  • 美術監督:鈴木森繁、川本征平
  • 撮影:菅谷正昭(株式会社 珊瑚礁)
  • 撮影監督:菅谷信行(株式会社 珊瑚礁)
  • 録音:番町スタジオ
  • 編集:西出栄子
  • ネガ編集:スタジオ・ゼロ
  • 現像:東洋現像所(現・IMAGICA)
  • 調整:田中英行
  • 効果:片岡陽三、小川勝男(E&Mプランニングセンター)
  • 文芸:徳丸正夫
  • 選曲:宮下滋
  • 音楽:越部信義
  • 音響演出:近森啓祐
  • 音響制作:E&Mプランニングセンター
  • 制作進行:木沢富士夫、小野忠、増田厚美、山下一郎
  • 制作事務:増田一恵
  • 制作主任:下崎闊
  • 制作:日本テレビ・日本テレビ動画

各話リスト

※1回の放送(30分)につき2話放送

話数サブタイトル
第1話・第2話出た!ドラえもんの巻・ペコペコバッタ大騒動の巻
第3話・第4話屋根の上のすてきな子の巻・のび太のご先祖さんの巻
第5話・第6話キューピットで好き好き作戦の巻・弱味をにぎれの巻
第7話・第8話ねずみに弱いねこもあるの巻・ガキ大将をやっつけろの巻
第9話・第10話おせじ鏡の巻・パパとママの結婚記念日の巻
第11話・第12話のろいのカメラの巻・宝くじ大当たり作戦の巻
第13話・第14話決闘!のび太とジャイアンの巻・私は誰でしょうの巻
第15話・第16話アベコンベ騒動の巻・お化け屋敷の謎の巻
第17話・第18話クイック・スロー大作戦の巻・のび太は雨男の巻
第19話・第20話ウルトラミキサーの巻・ねがい星流れ星の巻
第21話・第22話ふしぎなふろしきの巻・のび太のおばあちゃんの巻
第23話・第24話大リーグの赤バットの巻・男は力で勝負するの巻
第25話・第26話ガチャ子登場の巻・おしゃべりくちべにの巻
第27話・第28話すきすきカメラの巻・天の川でデイトしようの巻
第29話・第30話へんなロボットカーの巻・ニコニコせっけんの巻
第31話・第32話おれ署長のだいりの巻・さあ夏だ!スキーをやろうの巻
第33話・第34話成績表はいやだなあの巻・自分の影をつかまえろの巻
第35話・第36話潜水艦で海に行うの巻・くるったハラ時計の巻
第37話・第38話キャンプ騒動の巻・忘れな草って何だっけの巻
第39話・第40話クーラーパラソルの巻・いつでも日記の巻
第41話・第42話宿題お化けが出たの巻・お天気ボックスの巻
第43話・第44話ぼくに清き一票をの巻・まんが家修行の巻
第45話・第46話すてきなガールフレンドの巻・花いっぱい騒動の巻
第47話・第48話そっくりクレヨンの巻・静香の誕生日の巻
第49話・第50話宇宙飛行士になりたいの巻・まいごマゴマゴ大騒動の巻
第51話・第52話ネンドロン大騒動の巻・さようならドラえもんの巻


設定の差異

前述のドラえもんの配色等一部の設定は現在のドラえもんに引き継がれたが、現在のドラえもんに引き継がれなかった設定や日テレ版ドラえもんのみの設定を以下羅列する。

  • ドラえもんを演じた声優が中年男性の富田氏だった影響から、初期は「世話焼きのおじさん」をイメージしたちょっと哀愁漂う中年の様な設定とされていたが、テコ入れで声優が野沢氏に変更になってからは逆に原作以上に子供っぽく描写された。またどちらも「のび太」と呼び捨て。
  • 作品の舞台が東京の下町とされ、小学校の名前が「下町小学校」。(道路もまだ舗装されていない)
  • のび太とジャイアンの普段着が赤色。
  • セワシ眼鏡をかけている。
  • ドラミが登場しない(代わりにガチャ子が源家に居候する形で準レギュラーとして登場)。
  • ジャイアンの母ちゃんが故人。また、原作では1話から登場しているジャイ子も登場しないので、ジャイアンは父子家庭で育ったことになっており、お父さんは名前が小助(原作及びそれ以降のテレビシリーズでは名前は設定されていない)でジャイアンより小柄で弱いが息子思い。
  • 先生の苗字が我成。原作、わさドラ版だと不明。テレ朝1期であるのぶドラ版では苗字が先生(せんじょう)、名前が英一郎と設定された(後年の書籍や商品名で先生が紹介される際は、日テレ版とのぶドラ版の名前が合わさって我成英一郎と紹介されることがある)。
  • ひみつ道具の名称が「秘密兵器」となっており、タケコプターの名前も原作初期のヘリトンボなど一部ひみつ道具の名称が違ったり、タイムマシンなど一部の道具の形状が異なる(OPでは原作準拠のデザインだが、3話などに登場するタイムマシンの形状は右前の棒状のライトなどの部品がなく簡略化されている)。
  • ジャイアンの実家のお店が雑貨屋「正直屋」(のぶドラ版だと剛田雑貨店、わさドラ版だと剛田商店)。
  • 原作だと一回限りのゲストキャラであるジャイ子そっくりの「ぼた子」が源家のお手伝いさんとして登場する。
  • スネ夫のママが空手有段者(空手三段)。

等があげられる。


外部リンク及び参考サイト

日本テレビ版ドラえもんの世界

アニメ旧ドラえもん大研究

真佐美ジュン氏のサイト

真佐美ジュンのドラえもん時代

日テレ版ドラえもんのWikipedia



関連タグ

ドラえもん 封印作品

  • ドラえもん(ピープロ特撮版) - 日テレ版ドラえもんが製作される前の1972年の段階で一度のドラえもんが検討されていた。詳しくは該当リンク参照。
  • 続・痴漢 - 1973年公開の山本晋也監督作品であるピンク映画。本作の映像が数秒間だけ少しだけ写り込んでいる。
  • 小叮噹大戰機器人 - 同じく封印作品となったドラえもんのアニメ映画
  • ヤスジのポルノラマ_やっちまえ!! - 東京テレビ動画(のちの日本テレビ動画)が製作した唯一の劇場用作品。上記にもあるが、赤字を出して負債を抱えてしまい本作の打ち切りの遠因を作る事となってしまった。なお、初公開から48年後の2019年に初ソフト化されている。
  • 初代遊戯王/テレ朝版遊戯王 - 本作と同じように公式が表に出したがらない作品で、『遊戯王』アニメ第一作。『ドラえもん』とは逆に、テレビ朝日系列放映の初代遊戯王が封印作品で、他の系列局(『遊戯王』はテレビ東京系列)の作品をメディアミックス活動の基盤にしている。原作者自身は気に入っていた模様で、詳細に踏み込んでいないが言及はされている。なお、Pixiv上では両作品のコラボタグ「遊戯王ドラえモンスターズ」がある。
  • かいけつゾロリ(OVA版)かいけつゾロリ(1993年版) - 『かいけつゾロリ』のOVA版とアニメ映画作品。本作と同じように公式が表に出したがらない作品。どちらとも『かいけつゾロリぴあ』では作者が詳細に踏み込んではいないが言及はしており、厳密には封印作品にはあたらない。2004年以降のテレビ朝日系列局で放送の作品(ただし、2020年ごろ以降NHKEテレ)をメディアミックス活動の基盤にしている事も共通している。

なお、本作は原作者から少しは言及されている初代遊戯王や旧ゾロリとは対照的に、著作権を持つ藤子プロから完全に無視されている。

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