田宮模型
たみやもけい
今や国内のみならず世界的に有名な、模型メーカーの重鎮。
星2つが並んだマークでお馴染み。
少年時代に同社のミニ四駆にお世話になった人は多いはずである。
工具や塗料などの製作道具も多く発売しており、特に(日本唯一の国産模型用)エナメル塗料製品はラッカー塗料であるGSIクレオス(旧グンゼ産業)のMr.カラーシリーズと並ぶ日本の模型用塗料の代表格としてモデラー達から愛用されている。
水性ホビーカラーに対抗するかの如く「アクリル塗料」も出しており、こちらはミリタリー向けのラインナップになっているのが特徴。
モデラーズナイフ(いわゆるデザインナイフ)はトーンカッターとして使うヒトもいる(一部商品で明言されている製造元がオルファや兼古製作所などだったりするので、製作道具の品質が高いのは当然といえる)。
スケールモデルの分野では世界的に高い評価を受けており、現在ではAFVモデルの主流となっている1/35という縮尺比を根付かせたMMシリーズ等を生み出している。
また、英国製の兵器等のキットに強いこだわりを持っている事も模型愛好者の間では良く知られている。
その実績と知名度から、数ある模型メーカーの中でも厚遇を受けており、取材の際もタミヤだけには図面などの情報を提供してもらえることが多かった。
しかし、近年は機密保持が厳しくなった事、そしてロイヤリティー(使用料)の問題が重なり、特に海外の航空機やF1カーを商品化できないケースが相次いでいる。
レースモデルでは重要となるスポンサーデカールも省略するケースが増えてしまった。
これはロイヤリティーの問題だが、高い、安い以前にスポンサーにプラモデルへのロイヤリティ管理を担当する窓口がなく話し合いにすらならないことが多いためである。
イギリス戦車の解説のため、断面図を載せたところ、後にイギリスのボービントン戦車博物館が実物の断面を公開し、田宮側が「実際に実物で断面の公開をしていたんですね~」と言ったら、博物館側から「いや、田宮が描いたのを見たから展示用に作ったんだ」と返ってきて驚いたことがあるという。
最近はフェイクスイーツ製作用品も出している(実はラベルが変わっただけで中身は戦車や戦闘機を塗るものと大差ないのだが)。
設立以前
1925年
田宮義雄が静岡に自動車運送会社『田宮自動車商会』を創業。
子会社を展開するなど事業は好調だったものの、戦時中に同業他社に統合され、自動車業界から撤退。
1944年
軍用機用部品製造会社『三和工業』を設立。
しかし翌年、終戦の2か月前に静岡大空襲で設備が大打撃を受け、それを受けて製材業へ転身。
雛形現る
1946年
田宮義雄は『田宮商事』を設立させる。
翌年に何故か木材木工部門が設けられ、木製模型の製造販売がスタート。
1951年、漏電による火災で製材業用の在庫と本社社屋が焼失し、借金も発生した。
2年後、製材業から撤退して本格的に模型メーカーへと転身。
借金取りを何とかしながら頑張っていたこの時期発売された、モーター駆動式の木製模型は好評を博し、かなり売れた。
1959年、国外から輸入されたプラモデルに押されるように、状況を打破するためにプラモデル製造に乗り出すことが決定。
そして誕生へ
1960年
戦艦大和を発売するが、一足に先にキャリアを積んでいた同業社が発売した別の大和のキットに押され、売り上げが振るわず大赤字に。
金型費の回収すらできず、しばらくはプラモデルと木製模型を並行販売してしのぐ。
その後、ある筋から借り受けた完成済み玩具の金型を使って車のキットを製造販売したところ、まさかのヒット。
1961年
車のキットの売り上げに助けられ、1/35『パンサー』を発売。
モーター駆動式で走行性能が良く、組み立てやすさと説明書の丁寧さもあって大ヒットし、同社の他のプラモデルの売り上げも後押しした。
これ以降、他社もモーターライズの戦車キットを出すが、偶然にもギア比率の関係でこのパンサーより速いキットはいなかったという。
ちなみに1/35スケールはモーターと電池とギアボックスを入れるのを前提とした設計のためにサイズ計算したことで生まれた偶然の産物であるが、現在はミリタリーキットの国際規格となっている。
1962年
プラスチック形成部門が『タミヤプラスチック工業』として独立。
1964年
金型の外注先だった金型屋がいずれも増長して金満家に成り下がったので縁を切り(当時の関係者曰く「7~8軒と取引していたけど、まともにやってた3軒以外は設備の近代化が間に合わずに潰れた」)、職人をスカウトして自社に金型部門を設立。
ちゃんとした製造工場への研修なども実施し、設立から2年ほどで自社製造も可能となる(この辺の詳細は文春文庫で文庫版が出ている「田宮模型の仕事」を参照されたし)
1965年
高性能なスロットカーの製造販売をスタート。
好評を博したものの、風紀上の問題からブームが停滞したため、売り上げは長持ちしなかった。
この年、田宮義雄の実子の一人が『現在のタミヤのロゴ』をデザインした。
1968年
パンサーより続いていた1/35軍用車両路線の延長線上として「ミリタリーミニチュアシリーズ」(MMシリーズ)の展開をスタート。
走行などのギミックを廃した精密なディスプレイモデルであり、2022年現在まで続く人気シリーズとなる。
1969年
タミヤプラスチック工業が商号を変更。『田宮模型』と改名された。
この記事を読んでいる我々が知るタミヤが誕生した瞬間である。
その後の経緯
1971年
ハセガワ、アオシマ、フジミを巻き込み、4社共同による1/700スケールの艦船模型「ウォーターラインシリーズ」の展開をスタート。
フジミの分離などを挟みつつも2022年現在まで長らく親しまれ続けており、洋上模型というジャンルや1/700という標準スケールを模型界隈に根付かせることになった。
1976年
1/12『ポルシェ934』を販売し、金型の一部を流用して自社製RCカー第1号『ポルシェ934ターボRSR』も発売(一足先にRCタンク第1号も発売されている)したところ、初年度売上10万台オーバーの大ヒット商品に。
なお、この頃のRCカーは基本的に6000台売れれば大ヒットであったため、RC版の売り上げがいかに異常であったかが窺える。
また、騒音や価格といったエンジン式の問題点を踏まえた上で電動式が採用されたことも付記しておく。
それまでのRCカーとは比較にならないほどの組み立て易さと実車に忠実で優美な外観を誇ったRC版は、電動だからこその静穏性と価格抑制から多くのユーザーに歓迎されることとなる。
この成功を受けて田宮模型はRCカー開発に大きな力を入れ始めた。
ちなみに、RC版を出したのは取材で使った経費が莫大過ぎてプラモデル版だけでは採算が取れなかったことに加え、その経費のせいでプラモデル版の価格が高くなって売り上げに響いたたから、という当時の台所事情が絡んでいる。
1982年
ミニ四駆の発売がスタート。記念すべき第1号『フォード・レインジャー4×4』と第2号『シボレー・ピックアップ4×4』が同時発売された。
1984年
称号を『タミヤ』に変更。田宮義雄が会長に就任。
1986年
レーサーミニ四駆第1号『ホットショットJr.』が発売される。
玩具史に残る名シリーズはこのマシンから始まった。
1988年
自社製RCカーの運命を背負った名車『アバンテ』が発売される。
同年11月、田宮義雄が死去。
レーサーミニ四駆14号である大ヒット商品『アバンテJr.』が発売されたのそれから1か月後。
彼の四十九日が明ける前の出来事であった。
1997年
田宮義男の実子の一人で、後にタミヤの二代目会長となる田宮俊作の著書『田宮模型の仕事』が刊行される。
当時のタミヤに何があったのか、周囲はどうだったのかを彼の視点から赤裸々に明かす内容であった。
著作としての評価は高かったらしく2000年には、追加エピソード付きの文庫版が刊行されている。
とにかくリアリティへの拘りが異常に強く、それ故に当時の視点から見ても常軌を逸した行動に至るケースが後を絶たなかった。
以下、その中でも抜きん出て非常識だったエピソードを少しだけあげておく。
- 1970年代初頭、ソ連製戦車を商品化するにあたって再現度を限界まで高めるため、あろうことか東京のソ連大使館に行って取材を申請。時局は冷戦真っ只中であり、当然許可されるはずもなく一蹴。更に帰る際に警察官から職務質問を受けた。その後、この件が原因でしばらくの間は公安に監視・尾行されるなど散々な結果に終わってしまう。しかし、当時のスタッフはめげることなく実物を見るために世界中を飛び回り、第三次中東戦争直後にイスラエル軍がソ連製戦車を鹵獲・街頭展示していると聞きつけるや、身の危険を全く考慮しないでイスラエルに渡航している。こうして文字通り命がけで製品化したのがT-34/85であり、現在まで続くロングセラーとなっている。
- ポルシェ934を製品化するに当たり、開発チームの設計担当を何度もドイツにあるポルシェの自社工場に派遣。それでも構造上の詳細が分からない部分があったため、血迷って1974年にポルシェ911の実物を内部構造の調査のためだけに購入・完全分解するという凶行に及んでいる。もちろん、模型メーカー社員である彼らが実物を復元できる訳がなく、ポルシェのディーラーに連絡し、整備員を呼んで元に戻してもらった。当たり前だが、その酷過ぎる事情を知らされた整備員は呆れ果てていたという。その時の整備員は関係者曰く「なんてことをするんだ!」と罵声を呟きながら復元にあたっていたとのこと。また、あまりにも念入りに分解されていたこともあって復元作業の方も完了するまで三日もかかった。この時に重大な辱めを受けた件の911はその後、半社用車として不定期ながらも重用され続けた末、現在は本社社屋のロビーに展示されている。
- 田宮は実は正確な縮尺でプラモデルを作っているわけではない。と言うのも正確に寸法を縮めただけでは違和感が発生してしまうためである。例えばバイクの燃料タンクはそのまま24分の1にしたのでは細くなりすぎて見栄えが悪くなるため、やや広めにディフォルメされている。そのまま小さくするのではなく実感を大切にしているのである。
タミヤRCカーグランプリ…タミヤ主催のレースイベントであり、テレビ東京系列で14年半放送された番組。
鳥山明…タミヤ主催の「兵士人形改造コンテスト」で参戦しており、金賞を受賞した事もある。
世界!ニッポン行きたい人応援団…「日本の模型メーカータミヤを愛する」アルゼンチン男性が登場、田宮俊作会長を始め石坂浩二ら愛好家たちと交流、一躍有名人に。⇒詳細はこちら。(1,2,3,4)