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概要編集

ポジションは遊撃手、右投げ右打ち。2006年に野球殿堂入り。現役時代は豪快な打撃で、西鉄ライオンズ黄金時代の主力選手の1人として活躍した。


1935年2月12日生まれ。一度は日立市に転居したものの、太平洋戦争の影響もあり、生まれ故郷の大子町に戻る。ここでソフトボールの用具を通じて野球を知り、親しむようになる。

茨城県立水戸商業高校在学中には夏の甲子園に出場したことがあるうえ、なんと開会式の選手宣誓も行ったと言うから恐れ入る。


1953年西鉄ライオンズ入団。1956年、日本人史上初の遊撃手での首位打者を獲得するなど、遊撃手として屈指の打撃力を誇った打撃型ショートであった。63年国鉄スワローズに移籍。69年引退。


引退後は1972年に近鉄バファローズで打撃コーチを務めた事があったもののそれ以外は野球評論家として活動した。特に週刊ベースボールで1993年から連載が始まった「豊田泰光のオレが許さん!」は件の雑誌の名物企画となり、2013年まで続いた。


かの長嶋茂雄のことを「監督としての才能はどうなんだろうね?」と、テレビ番組で堂々と批判したことがある。当然ながら多くの野球ファンからの批判を浴び、あの人の逆鱗にも触れた。また、野村克也についても長年「あいつには挨拶したくないし、逆に挨拶されたくねーよ」と毛嫌いしてきたが、晩年は野村の野球に対する姿勢に関しては高く評価していた。


ダウンタウンのごっつええ感じの打ち切り理由がヤクルトスワローズの優勝決定戦差し替えが起因と知ると「野球界に対する侮辱」と松本人志を批判したり、原辰徳が球団代表との確執により監督退任した際、日本テレビの会長が球団代表に対してチンピラ呼ばわりした際は「テレビ局のトップが言う言葉ではない」と述べるなど、プロ野球選手以外の人物にも容赦なく辛口を述べている。


文化放送の番組で西武ライオンズを持ち上げに持ち上げまくった一方で、その親会社の国土計画やその会長であった堤義明が、西武以前のライオンのことを完全無視していたことには憤りを感じていた。


「どんなスポーツであっても、体罰は絶対にダメだ!!」と訴え続けた。


2016年8月14日、81歳の生涯を閉じた。


外部リンク編集

日本野球機構公式サイト内生涯成績データ

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