概要
1941年7月17日生まれ。10歳の時に中日スタヂアムで巨人戦を観戦した際に、多数の死傷者を出した球場の火災に巻き込まれている。
1957年、県立岐阜商業高校に入学。当初は遊撃手だったが二塁手にコンバート。
1年の時に夏の甲子園に出場、準々決勝まで進んだ。
1959年には春の選抜に出場、決勝で中京商業(現:中京大中京)に敗れ準優勝。
1960年、中日ドラゴンズに入団。2274安打、236本塁打、369盗塁と打ってよし、走ってよしの選手だったが、特筆すべきは守備力の高さであり、セカンドとしての試合数(2179)、刺殺数(5327)、捕殺数(5866)、併殺数(1373)は日本記録であり、プロ野球史上最高の二塁手と称される。なお失策数も285でこれも日本記録だが、これは出場試合数と守備機会の多さ故である(他のポジションでも王貞治、野村克也など錚々たる面々が並んでいる)。
1980年に引退、1986年に監督(代行)に就任するも1年で退任。
1992年に再び監督になるも1995年に成績不振を理由に辞任、2012年、落合博満前監督が好成績にもかかわらず更迭され、代行時代含め事実上3度目の監督就任となったが、2013年に4位となり辞任した。
2020年1月17日、名古屋市内で死去。5日前にはCBCラジオの番組に出演しており、まさに文字通りの急死であった。
特筆すべきこと
寡黙で温厚な性格だが、実は野球理論に関しては確固たる自信を持っており、それを否定されるとどんな相手であろうが徹底的に抗議する。
- 月刊ドラゴンズ(中日新聞社から刊行されている雑誌)の記者からは「星野さんよりも恐ろしい」と恐れられた。1年先輩でチームで親交の深かった板東英二は高木の姿勢を「球界のガンジー」と例えている。そのことから高木は「瞬間湯沸かし器」と揶揄されることがあり、さらに本人は「暴走老人」と自虐的に言ったことがある。
- 一軍デビューは1960年5月7日の対大洋ホエールズ戦。当日岐阜で行われたファームの試合が終わり、名鉄電車で名古屋へ移動、名古屋駅前のパチンコ屋で時間を潰していたところ館内放送で「中日スタヂアムに向かってください」と呼ばれ、1軍に合流、そしてプロ入り初打席初ホームランを放った。
- 入団3年目のある日、打球に追いついたものの捕球できなかったプレーに対し杉浦清監督から「何をやってるんだ!」と罵声を浴びせられたのが気に食わず、試合途中で合宿所に帰ってしまったことがあった。しかも中日ナインまで高木がいなくなったことに気付かなかった。
- 1968年5月28日の対読売ジャイアンツ戦で堀内恒夫から顔面にデッドボールを受け、一時意識不明となる。その影響でバッティングフォームを崩してしまったことを根に持ち、3年後の1971年9月2日に堀内から頭にデッドボールを受け激昂、堀内に向かってヘルメットを投げつけ右肩を負傷させてしまった。
- 1974年10月12日に中日は優勝を果たした。翌日の13日には後楽園球場で長嶋茂雄引退試合となる対読売ジャイアンツ戦ダブルヘッダーが予定されていたが、雨により14日に順延、中日の優勝パレードと重なってしまった。そこで球団は大島康徳、藤波行雄などの若手など準レギュラー選手を出場させ、レギュラー選手には優勝セレモニーに参加するために欠場するよう通達した。だが、県立岐阜商業高校時代に長嶋からコーチを受けていた高木はこの通達に「長嶋さんに対する侮辱だ」と激怒、球団に通達の撤回を求め「それが出来ないのなら自分だけでも出場させてほしい」と抗議した。しかし球団はこれを受け入れず、優勝セレモニーで高木は終始むっとした表情でうつむいていた。高木は後に長嶋に電話で謝罪した(「月刊ドラゴンズ」では星野仙一も長嶋に電話で謝罪したと記述)。
- 1980年シーズンを最後に現役を引退した。セ・リーグオールスター東西対抗で同年引退の王貞治とともに引退セレモニーが行われた。高木は「王さんが引退したら、私がプロ野球で最年長になる。最年長の選手は相応のプレーを見せなければならないが、私はそのプレッシャーに耐えられなかった」と話している。
- 引退セレモニーに際し、名古屋鉄道が当時の看板車両だったパノラマカーを使って、特別列車「サヨナラもりみち号」を走らせた。たかが一選手の引退でそこまでやるかと言いたくなるが、先述の通りプロ野球史上最高の二塁手ともいわれるだけに、こうした形で栄誉がたたえられるのも、宜なるかな。
- 監督時代1994年の10.8決戦や2012年クライマックスシリーズセを代表するように巨人をあと一歩の所まで追い詰めるも最終的に屈してしまい監督しては少々惜しまれる場面もあった。
関連項目
高橋・和田と共にこの三人は地元では”ビッグ3”と呼ばれトークショーも行われた。